Episode118 崇高な戦術
乗り込んだ部屋は懐かしき母さんの部屋だった。
俺はここで産声をあげ、第二の人生が始まった。
あのベッドの上では何度も母さんから絵本を読んでもらった。
――――『アザリーグラードの迷宮』。
"俺が、お母様のことを守る! えんぺどだってやっつけてやるんだ!"
例え、それが仕組まれた偽りの信念だったとしても―――。
宣言した幼い自分が勇気をくれる。まさか本当にここで、本物のエンペドと対峙することになるとは思いもよらなかったけれど、これもまた一つの運命かもしれない。
貫き通せば、偽りじゃなくなるんだ。
「母さんを離せよ」
母さんは、エンペドの腸から突き出た二本の腕で羽交い締めにされていた。虚ろな目をして、全身の力が抜けたように項垂れていた。その首元に、奴の腕が伸びる。鋭い爪を当てられて今にも切り裂かれそうだった。
部屋に緊迫した空気が奔る。
俺は異形の怪物を睨みつけた。
飛び出た眼球が卑しく笑った気がした。
「ギェ……グッグッゴ……人形にモ華やかナ最後が待っておったか」
奴が喋る度に赤黒い泥が口元から垂れて、母さんの髪に零れ落ちる。
鉤爪を押し当てられ、その白い首に一筋の血が垂れた。
「やってみろ。どうなるか」
小さな複製剣を握る手に、思わず力が入る。
奴は知っている。俺の魔力が枯れかけていて、もう時間魔法が使えないという事を。
「コ……ロス……イザ………私にとって肉体ノ死など怖れるに足らヌ」
もうエンペドは憎悪と自暴自棄が織り交ざって何をしでかすか分からない。理性を保っているのか、既に狂っているのかも分からない。ここで俺が瞬時に動いたら、鉤爪で母さんの体を切り裂いてしまうだろう。
「コツさえ掴めばナ……何度でモ肉体を手に入れル……コロス……イザイアを……。造作もない事ヨ……グギギギギギギ!」
「もう十分だろう! 頼むから母さんだけは―――」
「悔しくもガナ、私は今のキサマニ敵わぬ。ギグ……イザイア……ならば、惨たらシク、この人形ヲばらして遊んデから散りヨウゾ!」
「……ちっ……クソ野郎が」
ミーシャには何の罪もない。魔法大学で見かけた男に少し恋心を抱いただけの、無垢な令嬢だった。イザイア・オルドリッジに憧れて、一緒に向かったガラ遺跡で巻き添えを食っただけの……。
何故、そんな惨い事ができるのか。
何故、そこまでヒトの想いを踏みにじれるのか。
「ギッグッグ……手に入れタ"時間"で足掻いてみせよ」
「……止まれ……」
念じても時間魔法は発動されない。
代わりに、魔力が切れた合図として視界が眩んだ。
エンペドは母さんの首根っこを掴んで高々と掲げた。
まるで人形のように、その肢体がぐらりと振り回された。
エンペドは鉤爪を振り被って、今にも引き裂こうとしている。
「ゲハっ……ハっ……アッガッガッガ!!」
「止まれよ!!」
駆け出しても、辿り着いた頃には母さんの体は細切れになる。アイザイアの時と同じだ。時間を止めない限り、母さんが死ぬ運命を変えられない。体中の魔力を手繰り寄せて、総動員で時間よ止まれと念じ続ける。
あれほど無駄使いしていた自分が今では恨めしい。
どうした、止まれよ。
最後の最後でこんな失敗するわけにはいかないだろう。
だから、お願いだから――――。
「ガッガッガッガッガ!」
「止まれぇぇぇえ!!」
―――――………。
時間が止まってくれたのかと思った。
でも視界に映る光景は、赤くは映らない。
異変があるとすれば、それは――――。
「ギィィィイギャアアア!!」
奴の悲鳴と、跳ねる異形の腕だった。
エンペドの三叉の腕のうち、二本が胴体から離れて宙を舞っていた。
母さんはその場から一瞬だけ消え去り、そして部屋の奥で黒い霧とともに現れる。
その白い肢体を抱きかかえるのは黒い騎士だ。
「最後まで世話の焼ける弟子だ」
そこにいたのは黒い魔力を漂わせたトリスタンだ。
至上最速の暗殺者が、時を止めん勢いで、奴の腕を切り裂いた。
トリスタンはそんな神業を披露しても事も無げにそこに佇んでいた。
瞳は白く濁り、露出する肌もすっかり白くなってしまっている。
驚きのあまり、声をあげてしまった。
「トリスタン!?」
「ジャック……剣士にとって魔法はただの補助具にすぎない。忘れたか?」
狼狽する俺の様子に構うことなく、トリスタンは長刀を俺に投げつけた。
その直後、母さんとともに颯爽と消えた。
煙のように、黒い魔力をその場に漂わせて……。
トリスタン……。
最後までちゃんと見ていてくれたのか、俺の戦いを。
ありがとう、最後の最後まで助けられてばかりだ。
――――ひゅんひゅんと弧を描いて俺の手元へと迫る銀の長刀。
俺はトリスタンから託された長刀を掴んで、はっとなった。
感傷に浸ってる場合じゃない。
今が、奴を斃すチャンスだ。
俺は黒の魔導書を蹴り上げた。
トランクケース状の本は、宙を舞うとともに革帯が外れて口を開いた。
「終わりだ、エンペド……!」
トリスタンから託された長刀が手に馴染む。
中段の構え―――。
刃を水平に向け、間合いを広く取る。
距離の空いた敵にも一瞬の間で肉迫して斬りかかるための構えだ。
忘れてなんかいない。
何処にいても剣の修行は欠かさなかった。
時間魔法なんかよりもはるかに崇高な戦術を、俺は知っている。
師匠に教えてもらった剣の道。
それが俺の、戦士としての始まりだったんだから――――!
足をしっかりと前に踏み込み、エンペドへと最速で迫る。
「――――散れ!」
「ガァァァアアア!!」
トリスタンの得意とした技「秘剣ソニックアイ」。
瞬き一つの間でその赤黒の異形へ肉迫し、速撃の剣技で細切れにす。託された長刀は驚くほどに切れ味がよく、エンペドの肉体をすっぱりと斬り取り、無数の肉塊が宙に投げ出された。
その肉片の数々が、空中で大きく口を空けた黒の魔導書へと吸い込まれていく。
魔導書は不思議なことにその場で静止していた。
その口の奥には漆黒の闇。
少しの光も通さない明確な"黒"が、ありとあらゆる物を吸いこんでいった。細切れになったエンペドの肉塊の数々も吸い続け、やがて肉片一つ残さず吸い取ると、ばたんと閉じて落ちた。
黒の魔導書がすとんと床に落ちると、部屋は驚くほどに静かになった。
「………」
終わった。多くの人を巻き添えにして、多くの人に助けられた戦いが。
ようやく終わったんだ―――。
魔力枯渇による脱力感が、いまさら重く圧しかかってきた。
緊張の糸が切れたんだろう。
冷静になって見渡してみると、母さんの部屋も荒れ放題になっていた。中庭側の壁は大きく抉り取られて風が吹き込んでくる。というか、赤い夕陽が差し込んできていて、今更ながら夕方なんだと気づいた。
俺はその端にまでふらふらと近寄り、中庭を見渡した。
凄惨な戦いの爪痕がありありと残されていた。
オルドリッジ家、これから大丈夫かな……。
アイザイアも大変だろうけど、再興頑張ってくれ。
「あ………」
外の景色を見渡していて、黒い影に気がついた。
まだ気を失うわけにはいかない。
最後、二度も助けられた。
この胸に食い込んだ"銀の指環"と、そしてこの長刀。
お礼が先だ。
○
屋根の上へと這い上がる。
母さんの部屋とは中庭を挟んで反対側の軒の上。
廊下を伝って、窓から外へ出て、壁をよじ登って辿り着いた。
黒い騎士は、差し込む赤い夕陽を眺めていた。
俺には背を向けて、母さんを抱きかかえている。
二つの黒い影が屋根に伸びる。
「………」
「トリスタン……」
俺の呼びかけに対して、少しだけ反応し、トリスタンは耳だけ傾けた。
体格差はかなり縮まったと思うのに、その背中はまだまだ大きく見えた。
「ありがとう」
「いや――――よく、頑張ったな」
言いながら、こっちに振り返った。
黒い髪が風に棚引く。白く濁った瞳。剥き出しになった上半身は傷だらけだった。袈裟方に大きな斬り傷がある。相変わらず無愛想な顔をして、その白い瞳が俺を真っ直ぐ見ていた。師弟関係として一緒に修行したあの頃と比べると、二人とも相当姿を変えてしまったと思う。
トリスタン以上に、俺の身体の方が酷い。
なんたって浅黒く変色して全身タトゥーだし。
「これも……トリスタンが助けてくれたんだろう?」
俺は胸元に食い込んだ銀の指環を指して問いかけた。
魔道具"Presence Recircular"。――――二つ存在するうちの片割れを、トリスタンが俺に授けてくれた。気配遮断用だと教えられたが、この変わった名前が物語っていた。本来は魂を肉体に留める魔道具なんだ。ある種、俺とトリスタンの絆の証でもある。
「アレが魂を抜けなんて吠えたものだからな。存外、窮地のときこそ頭も冴えるようだ」
頭が上がらない……。
あのザマを見てもらえば分かる通り、俺はまだまだ英雄なんて呼ばれるに足る存在じゃない。念願の師匠との再会もこうして果たせた事だし、これからもたくさん稽古をつけてほしい。
「なぁ、トリスタン―――」
「いや、お前は破門だ」
「なっ……! まだ何も言ってないだろう!」
「何を言い出すか顔に出ている。心眼の能力をなめるな」
稽古のお願いをしようと思ったら即行で破門された。
俺が視線を落したところ、トリスタンは一歩だけ近づいてきた。そして、抱きかかえた母さんを俺に渡してきた。母さんは意識を失ったまま、ぐったりしていた。
ミーシャも、これまで母親として戦ってくれたんだ。
ゆっくり休んでほしい。
「家族を大事にしろ……それが、お前に教えられる最後の心構えだ」
その言葉にはどこか重みがあった。
もちろんだ。母さんも、兄貴たちも……それから俺を育ててくれたリベルタのみんなも、俺はずっと大切にしていきたい。
「俺には、英雄の指南役は荷が重いからな」
「どこが英雄だよ……」
最後までおんぶに抱っこで、完全勝利とは言えなかった。
結局は詰めの甘さがピンチを招いたじゃないか。
俺が自嘲気味に悪態をつくと、トリスタンは諭すように口添えした。
「……英雄とは強い者を指す言葉じゃない。ましてや、何事も完璧に熟せる人間など、英雄には成り得ない」
「……?」
「名も無き英雄か……」
トリスタンはそう言うと、もう一度俺に背を向けた。
見つめる夕陽は徐々に沈んでいく。
やがて闇が空を覆い尽くし、徐々に薄暗くなっていった。
だけど、トリスタンと一緒に眺めるその赤い太陽はいつまでも消えない気がした。
「……あぁ、お前にはその響きがよく似合うな」
(第3幕「家族」 完)
※次回更新は2015/12/26(土)【※更新日12/23→12/26に変更しました※】皆様お待ちかねのトリスタンの過去の話を二、三話に跨って公開します。
※第3幕の本編は完結しましたが、残り一話だけエピローグがあります。




