Episode114 起死回生
リナリーさんを抱えて三階の廊下を走った。
廊下には赤い絨毯が敷かれ、左右には豪奢な調度品の数々。
それらを駆け抜けた先に、分かりやすいほどに大きな両開きの扉が待ち構えていました。
重々しい扉です。なかなか開けにくそう。リナリーさんを抱っこしたままなので《空圧制御》で突風を作り上げて、勢いよく開け放ちました。肩で息をして、その部屋へと転がり込むように入る。
「……はぁ……はぁ……」
私も万全じゃないです。腕や足に残った火傷痕は疼きますし、そもそも魔力も一度切らしてしまってから魔力ポーションで無理やり回復してここまで辿り着いた。
部屋を見渡す。
その広間は、この家の主人の部屋のものと思わせる優雅な品々が置かれていた。床には絨毯が敷き詰められ、壁に這うように書棚があり、右端には広いソファなども置かれている。
しかし、そんなものに目を向ける余裕はない。
――正面に浮かび上がるは、赤黒い球体。
三つの円月輪がゆっくりと廻り、赤黒い宝玉が完成している。
円月輪の内部は魔力の渦が蠢き、禍々しい暗黒の色彩を放っていた。それは心臓を環る血潮の律動のよう。円月輪内部の赤黒い球体は一定間隔で収縮し、その度に赤黒い魔力が潮流する。
その球体が、陰圧的に周囲の気流を吸い込んでいる。
辿り着いた、あれが―――。
「……リゾーマタ………ボルガ………」
その光景が、強烈に私の記憶を呼び起こす。
崩壊した古城に出来た大広間の陥没から浮かび上がる羅針盤。
赤黒い魔力を満たした"神秘の力"。
その光景が、今ここに再現されている。
リゾーマタ・ボルガの内部では、邪悪な魔力に漬けられるように、青年の影が見て取れた。渦が邪魔をして顔までは見られない。
でも、間違いない、あれが私が捜していた"彼"だ。
早くあれを破壊して、その人を助けなければ。
物理的な攻撃ではきっと破壊することはできないでしょう。魔性のものには同じ魔性の力でなければ攻撃を与えることもできません。
「リナリーさん! あれを………っ!」
「………ぅ………」
抱きかかえたリナリーさんの顔を覗きこむと、体全体が硝子のように透けていた。苦しそうに悶える様子もなく、ぐったりとしている。
艶やかな赤い髪も、今では透き通るほど薄くなっている。
―――もう限界が近い。
その儚げに透ける身体が、この世界の消滅の合図にも見えました。私はその厚手の絨毯に彼女の体を寝かせて、背中に背負った日傘を手に取った。私の微々たる魔力ではアレを破壊するほどの魔法は放てない。それならば、魔法兵器の力に頼るしかありません。
ヒガサ・ボルガによる高火力の攻撃なら、きっと……。
銃身を支えて構えた。
「さて、舞台は整ったか」
同時に、低く重たい声が部屋に響いた。
その赤黒い球体の裏から出てきたのは、体格の良い中年の男性でした。肉体は腱骨隆々としていて、顔に刻まれた皺が威厳を振り撒いていた。大きな紺色の外套を羽織り、幅広い肩と腕を包んでいる。
その威厳や言葉遣いから察するに、どこかの蛮族というわけではなさそうだ。というより、オルドリッジ家の当主のような風格さえ感じます。しかし、オルドリッジの当主は死んだと新聞記事で見かけました。まだ二十を迎えたばかりの長男が後を継ぐという話でした。
書机の前に立つ中年男性は、死んだはずの―――イザイア・オルドリッジさん?
「お前も何を言い出すかと思えば……性悪な女よな」
「………」
男性が隣に目配せする。
その隣には、いつの間にか女の子が立っていた。今の言葉は隣の子に言ったようだ。歳は私と同じくらいの子。薄紫の長い髪に黒い修道女服。目の色が背後に浮かぶリゾーマタ・ボルガと同じ色を宿している。
―――あの二人が、元凶……!
私が危険を感じ取って身構えると、赤黒い瞳のその少女に問われた。
「シア・ランドール―――貴方は、なぜここに来ることを選んだの?」
見知らぬ女の子に名前を呼ばれて、体がびくりと反応する。その眼で見つめられると、心の隅々まで見透かされてるような錯覚を感じます。
しかし、質問の意図が分かりません。
何故と言われても………。
それは、私が依存してしまっているから……?
いえ、私だけじゃない。皆さんが英雄の帰りを待っている。
"彼"がいない世界は退屈で、とても空虚なものだった。人を助けたいと頑張る姿を見て、時には応援したくなったり、時には傍迷惑に感じたり、そんな日常が当たり前だった。
これは、敬愛のようなもの。
理想の姿を目指す真っ直ぐな心を、守りたいと思った。
「私は……私は、守りたいと思ったのです。その英雄の姿を……」
「……そう。両親と過ごす未来も用意していたのに、その因果を棒に振るのね」
審判を終えたとばかりに、その修道女服姿の少女は目を伏せた。
緊張の糸が解かれ、私も肩の力が抜ける。
用意されたものなんて、こちらから願い下げです。
それに、その両親ですら私の背を見送ってくれた。
幸せになれ、と……。
今の私にとっての幸せは、二人で寄り添えること。
共に歩いていける最愛の人を見つけられた事が一番幸せなんだ。
私はヒガサ・ボルガの砲身を今一度、その二人に向けて構えた。
退かなければ撃つという意思を伝えるためです。あまり人を脅すのは得意じゃありませんが。というか、日傘の先端を向けても脅しにはならないかもしれませんが。
そんな私の様子が滑稽に映ったのか、濃紺の外套を羽織った男性が不敵な笑みを浮かべた。
「クックック、くだらぬ茶番だ。いずれにせよ、この"刻"はもう二度と訪れん」
そうして一歩前に歩み出た。
「ケアも最期に不粋な置き土産を置いていくのだな。いったい、この娘がなんだというのだ? そんな些細な問答のために、私を待たせたというのか」
「………」
ケア……?
日頃は聞き慣れない名前に、思わず眉を潜める。しかし、聞き慣れずともその名前はあまりにも有名です。女神様の名前です。
この少女は、女神様……?
その子は目を伏せたままでした。それを尻目に、外套の男性が苛立たしげにリゾーマタ・ボルガの前まで歩み出た。曖昧な態度をとるその子に苛立っている様子。
そして私に背を向け、リゾーマタ・ボルガと対峙した。
砲身が向けられている事などお構いなしのようです。
「まぁいい。では退屈な現世とはお別れだ。生体憑依といこう」
「待ってください。何をするつもりですか……!」
「ふん――――知れたこと。携帯のキャリアを変えるようなものだ。新しいイザイアの身体に魂を移し、虚数魔力に乗り換える―――この肉体は私のものになるのだよ」
「そんな………!」
男性は両腕を掲げて、浮かび上がる赤黒い円月輪に向けて手を翳した。赤黒い魔力に漬けられた青年の身体に触れようとしている。
あの青年は私が捜し求めた"彼"に違いはない。
イザイアという名前だったかは分からないけれど、それを奪われたらすべて終わりです。
「ダメです! それは………!」
私は咄嗟に、ヒガサ・ボルガの石突からレールガンの弾丸を放った。
今ここで見過ごしたら"彼"の身体を奪われる気がした。激しい音とともに、雷属性の魔力を纏った弾丸が部屋を翔け抜ける。屋内で射出すれば、壁に穴が空く凶器だ。殺してしまう可能性さえある。
―――しかし、無駄な足掻きのようでした。
男性の背後には大きな水の塊が出来てレールガンの弾丸を捕らえています。水球を緩衝に使って弾丸の貫通を防いだ。
「口数が少ないと思いきや、存外に鬱陶しい娘だ」
顔だけ振り返り、鷹を彷彿とさせる翠緑色の眼光が私を睨んだ。
その眼に射止められて戦慄する。私が硬直した隙を見計らい、男性は緩慢な動作でしゃがむと床に手を翳した。
その直後、床に何かが這う。男性の足元から私に向けて石造りの床が盛り上がり、凄い速度で近づいてきた。大きな土竜が潜伏して襲ってくるかのようでした。
それが私の近くまで這い寄ると―――。
「きゃあっ!」
足元から、幾多の石の棘が突然現われた。横跳びで寸前で回避しようとしたものの、その速さに合わせられずに右足の脹脛が貫通した。足が取られて横転する。
床に這いつくばり、身動きが取れなくなってしまいました。
これは"風"同様、廃れたとされる土の魔法……?
「くっ……う………!」
「小娘よ、世界の終わりをその目で遍く見届けるがよい」
冷たい声が部屋に響いた。
痛みを堪えながら、赤黒い渦が蠢くリゾーマタ・ボルガを見る。
すぐそこに私が捜した"彼"の身体がある。
渦巻く赤黒い混沌の中に、少し顔が見えた気がした。
安らかに眠っているように見える。
それに立ちはだかるかの如く、悪の化身のような男が、冷酷な目で私を見下ろしていた。
恐ろしい……。
「ケア、もうこの体には憑依できるのだろう?」
「……ええ、もう『器』は完成している。あとは魂を無理やり引き抜けば、そこにあるのは伽藍の檻。親和性の高いあなたなら憑依も容易いわ」
未知の言葉の数々が絶望を煽る。
そんな中、隣からは熱気が漂っていた。
「……お……兄……ちゃん……いかない……で……!」
倒れていたリナリーさんが必死に体を起こそうとしていた。
身体はほぼ透明で、立ち上がる余裕なんて微塵も残していないはずです。その意志の強さは子どものものとは思えない。
その赤髪の少女が赤い筒に魔力を宿して刀身を浮かび上がらせた。
火剣ボルカニック・ボルガ―――本来の使い方をすれば、あのような形の剣が生成されるのですか。
しかし、その刀身はあまりにも小さい。ショートソードの長さにも足らず、ダガー程度の大きさにしかならなかった。
既にリナリーさんには魔力が残っていないのだ。
消えかかる身体から、赤い魔力の粒子が塵のように虚空へ消えていく。
男は詰まらなそうにその赤毛の少女に一瞥くれると、片手を掲げて鋭利な氷を二、三粒作り上げた。
「お次はなんだと思えば、因果が遺した亡霊か」
「お兄ちゃんは………どこに……も―――」
「失せろ、赤き水子。もはやお前は生まれる運命にない」
男は残酷にも、その二、三粒の氷を指先一つの動作で放った。それが懸命に立つ小さな体を穿つ。リナリーさんは成す術もなく、胴体を穿たれて後方へと弾き飛ばされてしまいました。
「……………」
「リナリーさん……っ!!」
赤毛の女の子は声もなく冷たい石段に倒れて、ぴくりとも動かない。
死んでしまったのでしょうか……。
あぁ……なんで、あんな非道ができるのか……。
ごめんなさい、リナリーさん。私では守ってあげられなかった……。
「はぁ……『脆きものよ、汝の名は女なり』と、昔にも読んだものだが……愛執とはどの世界、どの時代も醜い」
外套の男は深く溜息をつくと、私のもとへと足早に歩み寄ってきた。
「気が変わった―――お前もここで果てろ。あの男を愛した事を後悔することだな」
「……ぅぐっ!」
私の顎を片手で掴み、その男は軽々と持ち上げた。乱暴に脹脛を石棘から引き抜かれて、脚に激痛が奔る。身体を持ち上げられて、吊り上げられた。喉元も抓られ、息ができません。
足からは血が垂れ落ち、呼吸もできない。
苦しい……。
「せめてもの手向けに、アレが完全に抜け殻になるのを見届けてから逝くがいい―――さぁケア、魂を抜け」
「性悪はどちらかしらね」
「構わんさ、何事にも余興は必要だ」
「………く………ぁあ………!」
女神様も残酷だった。救いはくれない。片手を挙げて、神の羅針盤に赤黒い魔力を送り込んでいる。
これは絶望的な状況です。
私が必死に足掻いたところで、何の抵抗にもなりません。男の太い二の腕を何回か蹴ることに成功しましたが、何も動じてませんでした。
気力だけが削がれていく。
……もう、駄目です。
これまでどんな窮地に陥っても、やり過ごしてきました。それはただ、やり過ごしていたのではなく、やり過ごせていただけでした。何時でも私の傍には英雄がいて、その人にいつも守ってもらっていた。
でも、私は……。
リナリーさんの事も満足に守れない……
あそこの"英雄"に恩返しすることも……。
圧倒的な悪に太刀打ちできる力なんて、そんな強さはなかった―――。
意識が途切れかける最中、頭が徐々に冷めていくのを感じた。
うまく血が巡らないのでしょう。
そんな冷えた頭では、むしろ世界がゆっくりに感じられた。
感覚が研ぎ澄まされていく。
その時、気配を感じた。
―――――………。
"――――あぁ、だが、キミは耐えた。それが何よりの強さだ"
「………!」
耳元で誰かが囁いた。
その次の瞬間、聞いたこともない金属の音が反響する。
――――キーン、という乾いた一筋の音。音がする方を見ると、何か小さな物体が光を乱反射させながら弧を描き、リゾーマタ・ボルガへと向かって投げられていた。
その小さな煌めきは一筋の希望の光にも見えました。
「ううむ、なんだ?」
「―――――あれは……!?」
外套の男は悠長に振り返り、女神は驚いて狼狽している。
「"現界せし無間魂魄"……あの封呪の指環は壊したはず―――!」
女神様も困惑している。
悲鳴も空しく、その指環は吸い込まれるように赤黒い魔力の渦に飲みこまれた。それが"彼"の肉体へ触れた途端、羅針盤内部の赤黒い魔力から銀色の光が放出された。
赤黒い魔力が内部から破裂していく。それが銀色の光と混じりながら放射状に広がって、白銀の筋が"彼"の体を包み込んでいた。
光はどんどん強まる。
眩しくて、その姿を直視できません。
私は外套姿の中年の男に顎を持ち上げられて吊るされたままです。呼吸も苦しいし、視野も変えられず、目を瞑るしかありませんでした。
「なんだ!? ケア、これもお前の描いた予定調和か?!」
「…………」
声だけしか聞こえませんが、どうやら女神だけでなく、外套の男も焦っている。この事態は想定していなかったという事ですか……?
そして、光が収まるその直前―――。
「あれ……は……――――」
―――――。
「――――ぎゃあぁぁっ!――――」
―――――。
「がぁぁあああっ!」
同一人物の声が、ほぼ同時に三か所から聞こえてきました。
まず最初の声は私の目下……つまり、外套の男の困惑の声。
続いて、部屋の右端のソファの上。
最後の断末魔の声が、私の頭上……部屋の天井から。
その同時に上がった三か所の悲鳴すべてが、外套の男のものでした。
そして悲鳴の合間に、床が抉れて跳ね上がり、ソファが破裂して、天井の壁が崩落した……。
これも同じタイミングです。
訳が分からない現象に、私も混乱して言葉も出ない。吊し上げていた敵がいなくなり、投げ出された私は無様に俯せに倒れてその異様な現象をぼんやりと眺めていた。
一体、何が起こっているのか……。
崩落してくる天井の壁材と共に、外套の男も落下してきた。男は体がとても頑丈なようで、落下してもすぐ素早く身を起こして身構えている。
「ケア、どうなっている!? 早く指示を出せ!」
「……だ、駄目……視えない………」
「なんだと!」
「未来が……視えない………」
「お前に視えぬものなどないはずだろう!」
ケアと呼ばれる少女も声を震わせていた。
目を丸く見開き、虚空を眺めて青ざめている。
「まさか、"彼"は………神を超えた……というの?」
「なに、魂は追放されていないのか!?」
「時の……支配者……」
"彼"―――。
確かにあんな早業が出来るのは『ロストさん』くらいだ。
迷宮ではスピードスターの異名が付いたほどです。
………?
あ……。
「ロスト………さん………」
そうだ。
彼はそんな名前でした。
記憶を失って現われた。少し天然なあの人の愛称には、ぴったりな名前だと思って付けたのでした。
「ロストさん……ロストさん……ロストさん………!!」
嬉しくて何度もその名を呼ぶ。
その顔も、その声も、すべてが鮮明に蘇った。
私が名付けた名前だったんだ。
「ロストさん! ロストさん! ロストさん!」
あぁ……、良かった……。
虚像にはならなかった。
英雄が、俯せになる私の前に舞い降りた。
視界に映るのは綺麗な足首だった。裸足で、浅黒い肌をしているが分かった。以前までと肌色が変色してしまっている。さらに右腕に宿っていた赤黒い魔族の紋章が両足にも張り巡らせていた。
でも、その足を見て、すぐロストさんだと気づいた。
「……まったく、名づけ親にすら忘れられるとは思わなかったぞ」
二人だけの秘密を交わした日の夜。
それは私の部屋に訪れてくれた時に交わした軽いやりとりだ。
あの時と同じように、ロストさんは温かく言葉を返してくれた。
あぁ……こんなにも嬉しいことはない。
私はやっぱり幸せ者だ。
――おかえりなさいませ、ロストさん。
※長かったので二話に分けました。
※次回更新は来週の土日(2015/12/12~13)です。
主人公視点に戻り、第3幕第5場に突入します。




