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魔力の系譜 ~名も無き英雄~  作者: 胡麻かるび
第3幕 第3場 ―オルドリッジ祝典―
122/322

◆ 罪滅ぼしの魔法Ⅱ


 晴れやかな舞台に、悲鳴が轟く。

 貴族は社交の手を止める。各々がダンスをやめ、演奏の手も止まり、何事かと息を飲んだ。静まり返った会場。その入口の扉が吹き飛ばされ、派手に体を引きずらせて会場に乱入したのは、今宵の主役とも呼べるアイザイア・オルドリッジその人だった。

 肩口に深い傷を負い、白地に金の刺繍が施された衣装は血染めのそれへと変わっていた。


 アイザイアは他の貴族連中に注目されながらも、気高に振る舞う余力もなく、歯を食いしばりながら呼吸を乱していた。魔法大学では主席で卒業し、今日は当主交代を言い渡された。オルドリッジ家の次期当主として、魔術師という肩書きを背負って立つ男として、こんな醜悪な魔物に負けるわけにはいくまいと、弱気になる心に鞭を打った。


 アイザイアの後を追うように、俊敏に突入してくる黒犬ラインガルド―――その異形の魔物を見た貴族たちは騒然とした。令嬢は悲鳴をあげて逃げ惑い、各々の当主は家族を捜すために混乱するホール内を駆け回った。戦闘行為に慣れていない高貴の人々――我先にと逃げ狂う貴族と比べたら、アイザイアの姿は英雄的なものであった。その正義感あふれる性格は、三男とも供する物である。

 しかし、単純にも彼はパワー不足なのだ。


「我が主はカノの力を借りし者、紅蓮に焼かれ………ぐふっ!!」


 魔法の詠唱をしている間にも、黒妖犬たちはその細い肢体を屠りにかかる。頭部で体をしゃくり上げられ、闘牛と闘ったのかとも思えるほど、軽々と胴体は虚空を舞った。高いはずの天井が間近に迫り、勢いを殺して再度落下していく。

 アイザイアはオモチャの人形のように、黒妖犬たちに弄ばれていた。


「ォォ……ア……アリ……リサァ……」


 落下する直前、壁際に張り付いて会場を見回す黒犬ラインガルドの姿が視界に入った。その異形の口元から黒い粘性物が垂れる度、次から次へと大小様々な黒妖犬が地上に生成されて湧き上がる。その様はまるで増幅して拡大する呪いのよう。

 会場の混乱は加速し、祝典は台無しになっていた。


 アイザイアは床に背中を強く打ちつけて、起き上がれなくなった。

 壁に這う有象無象の黒妖犬の夥しさ。その中心とも云える黒犬ラインガルドは興味なさそうにどこかへ去っていく。残された量産の黒妖犬の一頭が、仰向けに倒れるアイザイアめがけて突進した。その光景を見て、アイザイアは死を覚悟するとともに、当主交代を宣言されたまさにその日だというのに、屋敷を守りきれなかった自分の不甲斐なさを呪った。


 その黒い体躯が自身を屠ったかと思ったその瞬間―――。


「ふんっ!」


 救世主が現れた。

 この社交を重視した貴族の中で、唯一、戦いのいろはを知る令嬢が会場にいたのだった。

 その令嬢が、アイザイアに突進する黒妖犬の顎を掌底で砕くと、片手で握りしめていた木刀を軽々と振り抜き、その犬の頚椎を叩き折った。犬は一瞬で再起不能に陥る。令嬢は手についた黒い粘性物もパッパと払い、ハンカチで何とはなしに拭い取った。


「まったく、ジャックは何処いったのかしら? 肝心なときにいないんだから」


 事も無げに言い放つその令嬢。彼女は豪華な黄色を基調としたドレスに身を纏い、耳にはイヤリングを垂らし、黒髪もコンパクトにまとめ、化粧すらしていた。とてもじゃないが、つい先ほど手早い動作で魔物を討ち倒したとは思えないほど普通のご令嬢だった。

 その令嬢――アイリーン・ストライドにとってはただの鬱憤晴らしだ。


「………くっ……うぅ……」


 アイザイアは礼の一つでも伝えたかったものの、身動きが取れない。声すら出なかった。後ろ姿ではっきりとは見えなかったが、派手なパーティードレスから察するに貴族令嬢であることには間違いがない。アイザイアが体を動かすだけのことに悪戦苦闘している間にも、ホール内の黒妖犬は切った張ったの流れる戦術に呑まれ、次々と倒されていく。

 気づいたときには黒妖犬の屍の山が積み上がり、アイリーン・ストライドはたった一人で会場を鎮圧してしまったのである。


「アイリーンお嬢様、ご無理をされてはいけませんっ! 我々が戻るまで待ってくださいと申し上げましたでしょう」

「だって苛々してたんだもの。ジャックは居ないし、変な男は寄ってくるし。うんざりよっ」

「………さぁさぁ、あちらに避難いたしますよ。増援が無駄になったじゃありませんか」

「うるさいわねっ! こんなのアザリーグラードの魔物に比べたら野良犬みたいなもんよっ! 私一人で十分だわ」

「そうは仰られても、そんな姿で戦ったらお召し物が汚れるではありませんかっ。なんてお人ですか、まったく……」

「ジャックだったらこんな雑魚、2秒も要らなかったわ」


 アイザイアは体の痛み以上に、心が痛かった。

 令嬢の動きは目で追うのもやっとなほどに素早く、そして流れるような剣技、体術は王都の騎士や魔法大学の武闘派と張り合っても罷り通る芸当だった。だが、そんな令嬢さえも凌駕する《ジャック》なる人物は何者なのか。そんな超人的な人物がいれば、ここまで混乱の余波は広がらなかったのではないかと考えた。近くにいるのならば一目見てみたい、とも……。

 有頂天となっていた自分が恥ずかしかった。

 自分は令嬢が雑魚と呼ぶ魔物にすら敵わなかったのだ。


 世界は広い……。

 彼は目を閉じて思いを巡らせ、これからは実戦経験も積もうと決意した。



     ○



 アリサはアイザイアに促され、テラス沿いを歩いて屋敷の中庭へと避難していた。その後、彼がどうなったのか分からない。けれどあの異形の怪物は明らかにアリサの名を呼び、狙っていた。逃げる事に必死になっても致し方ない。

 はぁ、はぁ、と少し走っただけだが呼吸が乱れた。

 アリサに戦闘経験はない。これまで周囲の人間が守ってくれていた。だが今は独りだ。どこからやってくるかもしれない脅威に怯え続けた。


「グレイスちゃんグレイスちゃんっ…………助けて………」


 草むらの影に身を隠し、膝を抱えて蹲った。そしていつものようにその呪文を口にする―――その時、はっとなった。自身がこうして助けを請う度にグレイスはいつだって何にも代えて守ってくれていた。甘えれば何でも叶えてくれた。それが……いけなかったのではないかと。

 激痛に悶え苦しむグレイスの姿を思い出し、自分自身のこの有態を反省した。

 自分がグレイスをあんな体にしてしまったのだ。魔力を酷使させ、病気にさせてしまった。そう思えば思うほど、アリサは悲しみに打ち震えた。なぜもっと早くに気づけなかったのだろう。もっと自分が強ければ、グレイスはあんな風にはならなかったのではないか。


「……オォ………オォォォオ」


 黒い犬の鳴き声が近くに迫る。アリサは息を殺して身を縮めた。


「アリサァァァア!!」


 私の名を呼ぶ声がする。あれは古き友の幻影。なぜ私を追いかけるのか……その理由にアリサは少し心当たりがあった。ラインガルドはアリサの事を想い慕っていた。弱々しい私を子どもながらに何度も守ろうとしてくれていた事を今でも覚えている。気持ちはありがたかったけれど、愛だの恋だのを知らないアリサには、その執拗にも思える過保護を鬱陶しいとも思った覚えがある。


 ――――パキっと、足元で何かが割れる音がした。

 こんな時にまでドジを踏んでしまう自分を呪った。踏みつけてしまったのは何の変哲もない木の枝だ。だが静寂に佇むこの中庭の魔物には十分すぎるほど位置を把握する物音になってしまった。


「オォォ! オォォォァァァアア!」

「きゃぁああ!」


 迫り来る雄叫びに耐えきれず、草むらから飛び出て中庭を逃げ惑った。

 後ろには黒犬ラインガルドが音もなく、ねっとりとした黒い魔力を纏って疾走してくる。


「―――グレ…………!!」


 アリサはまた叫びそうになった。

 だが、恐怖に怯えながらも必至に押し黙る。今ここでグレイスに助けを求めたら、それが最後になってしまう。病魔に蝕まれるグレイスは、これ以上の魔力行使がトドメの一撃となってついぞ肉体を涸らしてしまう事だろう。それは絶対にあってはならない事だ。アリサは一人でこの場を何とかしなければならない。


「アリサァ……」

「ひっ」


 中庭の壁際へと追い詰められ、その黒妖犬はゆったりと近寄ってきた。獲物を捕らえた肉食獣のようにその恐怖すらスパイスとして味わいたいようだ。ひたりひたりと一歩ずつ歩み寄る様はこちらの恐怖を助長させた。


「ハッ……ハッ……アリ、サ……僕が……僕の……アリ……」


 黒い粘性のある魔力が這いずる虫のように蠢いて、その顔面が少し姿を現した。あの頃からさほど変わらない小奇麗な顔立ちをしたラインガルドだったが、顔が悪魔のように歪んで見えた。血の気が引き、正気は失っているように見えた。


「あっ……あぁ……」


 よもやこれまでかと目を瞑ったとき、気配もなくその黒騎士は異形の胴体を長刀で引き裂いた。颯爽と現れたのは黒騎士トリスタン。この暗闇だと云うのにバイザーで目元を覆い、ミステリアスな印象を受ける。


「グォォォオ!」


 黒犬ラインガルドは腹を抱えて中庭の芝生を七転八倒し、アリサから離れた。乱雑だが狂気に満ちたその不規則な動きに気味の悪さが感じられた。それを事もなげに見送るトリスタン。今では彼も、精神を犯された狂戦士だ。だが、その忠実かつ統率のとれた動きは、ラインガルドの狂犬のような戦いぶりとは似ても似つかない。

 トリスタンはアリサの方に一瞥くれ、主人の命令通り、護衛対象を確認した。そして再度、彼は敵の位置を確認するや否や、芝生を俊敏な足の動きで駆け抜けてラインガルドへと肉薄した。

 ラインガルドは狼のように鋭い黒い爪を黒騎士に振るいながら、逃げの姿勢で闘っていた。トリスタンは斬撃を重ねてその黒い爪ごとラインガルドの体を細断していく。

 狂戦士、対、狂暴犬の攻防。

 どちらも漆黒の魔力を宿し、闇夜に翻った。

 押しているのは、どう見ても黒騎士の方である。



 アリサはその動きを見守りながら、じりじりと屋敷の方へと向かって後ずさりしていた。早く逃げなければ―――そしてこんな状況ではグレイスのことが何よりも心配だった。多少の魔力を使っただけで、おそらく彼女は常人では考えられないほどの激痛が走り、その寿命を散らしていく。

 アリサが意を決して中庭から走り去ろうとしたその時だ。


「アリサ……!」


 息を乱して中庭に辿り着いたのはグレイス・グレイソン本人だった。

 顔色が悪く、左手に巻かれた布から黒い液体がぼたぼたと垂れている。


「グレイスちゃんっ!」


 良かった、無事だった―――アリサが安堵の吐息を漏らしたその背後には、黒妖犬二頭が折り重なって今にもアリサの体を両断しようと迫っているところだった。トリスタンの斬撃によってバラ巻かれたラインガルドの体液から生成されたようである。


「アリサ、後ろっ!!」

「え……」


 グレイスは枯れゆく僅かな魔力が煮えたぎるのを感じた。

 それと同時に、さらにその身が蝕まれたのを感じた。

 グレイスが咄嗟に展開した魔法は二つ。

 一つは、暗殺業を繰り返すうちに体術のみで習得した転移魔法――本来魔術の知識がなければ到底習得しえない次元を駆ける魔法である。次元の切れ目から次元の切れ目へと至る瞬間移動だ。

 一つは、物質を武器へと変換させる変換魔法。普段から持ち歩くフルートを簡易の小刀へと変化させ、非常時の武器を生み出す魔法だ。

 これら二つの魔法によって、グレイスは瞬時にアリサの背後へと転移し、小刀でその黒妖犬の二頭の体を直ちに両断した。その手慣れた瞬速の動きは病に侵された者とは到底思えなかった。

 だが、それも風前の灯だ。


「う…………あぁぁ……ぁぁぁ!」


 彼女の左腕は今の動作で丸々壊死してしまい、その付け根からずるりと滑り落ちた。


「きゃぁぁぁあ!! グレイスちゃん!!」


 片腕を失ったグレイスとその光景を見て悲鳴をあげるアリサ。騒ぎを聞きつけたオルドリッジの使用人、そして満身創痍ながらもアリサが心配になって後から駆けつけたアイザイアは中庭の惨事を見つけて、騒然とした。

 まだまだ増殖して湧き続ける異形の黒妖犬。黒騎士トリスタンが、ラインガルドを斬り捨てる度に次から次へと生成されていた。その黒妖犬の群れがアリサとグレイスの前に襲い掛かる。グレイスはその襲いくる魔物を右手の手刀で打ち払い、そしてまだ魔力を酷使しながら戦い続けた。徐々に切れ味がなくなり、力尽きて動きが鈍くなるグレイス・グレイソンの剣技。


「もう……もうやめて! もうやめてよぉ!! グレイスちゃんっ!!」

「………ふーっ……ふーっ……」


 グレイスは歯を食いしばり、腐敗していく自分の体を最後まで闘わせ続けた。

 トリスタンがラインガルドを叩き伏せ、長刀で背中を串刺しにする頃には中庭に蠢く黒妖犬の数は凄まじいものとなっていた。グレイスが力果てる頃には、オルドリッジ家の使用人たちも共闘して黒妖犬を駆逐していたのだが、それでも間に合わなかった。事態の収拾がついた時には、グレイスは全身を蝕まれ、胴体にも黒い大穴が空くほど酷い状態となっていた。左腕と右足は壊死して零れ堕ち、無惨な姿態を晒している。



「グレイスちゃんっ、なんでこんな事! なんでなのっ!」

「………この子……だけは……せめて………」


 仰向けに倒れるグレイスは、既に死に体だった。焦点が定まらず、その眼すら悪液質に満たされて視界には何も映っていないようである。ただ最期――その最期にアリサを守り切れたと確信したグレイスは一言だけこう言った。



「……アリサ……ありがとう………」



 ―――その言葉を最後に、グレイス・グレイソンは死に絶えた。

 ありがとう。

 グレイスは最後の最後、自分自身が重ねてきた罪を、一人の少女を守り抜くことでぬぐい去ったと実感できたのである。身勝手で自己満足な死に方ではあるものの、それでもグレイスが出来る最後の罪滅ぼしはこれしかなかった。

 人身売買から始まったグレイスの幼少期。そこから暗殺術を学んで大勢の人間を殺してきた。善良な人も、極悪人も、誰彼かまわず殺してきた。殺しから身を引いてからもその罪を重ねた。楽園シアンズの設立計画もただの子どもの誘拐事件として終わってしまった。グレイスは、人が一人で救える命など、両手で抱えられる程度なのだと気づいたのはその時のこと。失敗や過ちを繰り返したが、最後には一人の人間を救って死にたかった。

 だからその望みを叶えてくれた彼女に、お礼を告げて死んでしまった。


「あぁぁ………あぁぁぁ……!」


 アリサは精一杯泣いた。

 失いたくなかった最愛の人が先に逝ってしまった。どうしてこうなってしまったのかと考えれば、自分自身のせいでもあったのだと思い返し、さらに悲しさが膨れ上がった。枯れることなく、いつまでも涙が溢れ続けた。

 もうグレイスと過ごした日々は取り返せない。彼女に依存しきっていたアリサは、これからは一人で生きていかなければならないのだ。グレイスのいない日々など信じられなかった。

 この短い人生の半分以上、傍にいた人だったから。



     …



 いつまでもその場で泣き散らし、どうしてどうしてとグレイスの行動を嘆いている時、ふと後ろから肩を叩かれた。


「キミ、大丈夫か?」


 抑えきれない涙を溢しながら振り返ると、そこにいたのは松葉杖をつくアイザイア・オルドリッジの姿だった。アイザイアはこの時、アリサの事などすっかり忘れてしまっていた。グレイスが死んだ事で洗脳魔法が解かれ、その前後の記憶が曖昧になっていたからだ。


「………」


 アイザイアのその反応を見て、アリサは呆然とした。

 当然の報いだと思った。最愛の人を死なせてまで魔法を使わせ、夢を見させてもらった。魔法が解ければ終わってしまうのが夢というもの。それに喪に服したこの状態で、アリサ自身、白馬の王子様にときめく余裕なんて微塵も持ち合わせていなかった。


「……ご家族を亡くしたのか?」


 横たわるグレイスの遺体を見て、アイザイアはアリサに問うた。家族と云われれば家族だった。むしろ家族以上の関係といっても過言ではない。だが、それを問うアイザイア自身もつい先ほど父親が死んだという訃報を執事長のオーブリーに告げられたばかりだった。継承式を行う前だというのに、全権を委ねられたアイザイアは、この屋敷の主人として勇ましく生きていかねばならないのだ。


「………」

「気分が休まるまで、この屋敷に滞在してもらって構わない……その、キミが良ければ……だがな」


 オルドリッジの当主はアリサにそう告げた。当主の権限を使えば、素性も知れない少女を匿うことなど容易な事だった。彼はそれだけ伝えると頬を赤らめ、隠すように踵を返した。そして松葉杖を突きながら、ぎこちなくその中庭の芝生を去っていく。

 この時、アイザイアはアリサに一目惚れしていた。一目惚れに理屈なんてない。一目見て、衝動的に惚れたのだから仕方のない事だ。一つ、理由があるとすれば、故人を悼んで泣き叫ぶ少女の姿が、純真無垢に映って輝かしかったのかもしれない。あるいは、アイザイア自身にかけられた洗脳魔法がまだ効いていたという可能性も否定できない。


 ―――どちらにせよ、グレイスの悲願は果たされた。

    彼女が最後に遺した罪滅ぼしの魔法。

    それがアリサを、複数の意味で守ったのだった。


 アリサが当主アイザイアの正妻として迎え入れられるのは、さらに1年後のことだ。



 一方、その日の夜更け。

 静まり返るオルドリッジの中庭である物を探し続ける一人の女性がいた。


魔導書(グリモワール)は何処に行ったのでございましょう……あれが無いとせっかくの計画が台無しですわ……!」


 メルペック聖堂騎士団第二位階パウラ・マウラ。彼女は取引に失敗して焦っていた。徹夜で屋敷の敷地内を隈なく探し回った彼女だったが、ついぞ黒の魔導書を見つけるに至らなかった。住人が寝静まった屋敷の敷地内、甲高い悲鳴が木霊したのを誰一人として気づく者はいなかった。



     ○



 アイザイアはその日の晩、ようやく事態の収拾がついた所で、自室の椅子にもたれかかった。祝宴のはずが、酷い大惨事となってしまった事に彼は頭を抱えた。


 突如として現われた異形の怪物にパーティーを台無しにされ、さらにはその混乱の渦中に父親も亡くなった。イザイアの死はあまりにもあっけないものだったが、朝方に聞いた宣言通りだったという所に父イザイアの底知れぬ恐ろしさを実感するのだった。本当に未来予知の類だったのかもしれない。

 ノックの音があり、まだ何かあるのかと一つ溜息を吐いてから、アイザイアはその使用人を部屋に招き入れた。


「アイザイア様、例の魔物ですが、"もう一頭"には逃げられてしまいました……」

「なに? 逃がすなど言語道断だ。攻撃すればするほど増殖する魔物など危険極まりない。街の方に被害はないのか?」

「そのようです」


 おかしい、と思った。

 バーウィッチ区域のさらにオルドリッジの屋敷にのみ現れた黒い犬の魔物―――不自然だ。どこから発生したのかも分からない。

 中庭で"仲間割れ"をしていた二頭の魔物のうち、一頭は長刀が背中に突き立てられて捕獲するのも簡単だった。既に死に体かと思ったが、黒い魔力がその傷口を覆ってすぐに自己再生しているようだ。今は地下牢に厳重に鎖で繋ぎ止め、閉じ込めている。だが、もう一頭―――暗闇の中で遠目にしか見えなかったが、同じく黒い魔力を纏った剣士の姿をした魔物には逃げられてしまったという。

 逃がした責任は全うしなければならない。


「至急、捜索隊を集ってバーウィッチ郊外まで調べるのだ。住民の命を最優先に」

「かしこまりました」


 これから多忙を極める。招いた貴族たちに対する謝礼。父イザイアの葬儀の手配。また魔物の捜索だ。まだまだ用事が降りかかってきそうだが、アイザイアはできうる限り、父の仕事を引き継ごうと決意した。


「地下牢に捕えた魔物はどういたしましょう」

「……うーむ、官庁に指示を仰ぐのも一つの手であるが……まだしばらく閉じ込めておけ。彼らが屋敷を訪問した時に、公務のついでに相談すればよい。とにかく今は父の葬儀と、逃がした魔物の捕獲を優先させる」


 果たして、何故イザイア・オルドリッジは突然死んだのか。

 真相を知るオルドリッジの人間は執事長オーブリーのみである。



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【魔力の系譜~第1幕登場人物~】
【魔力の系譜~第2幕登場人物~】
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【魔力の系譜~魔道具一覧~】
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