Episode100 オルドリッジ事変Ⅲ (ターンオーバー)
突き当りを曲がれば、ふわりふわりと漂う母親の影が視界に映る。
その影がまたしても廊下の奥へと消えていく。
幽霊のような儚さだった。
まるで誘導されているように、屋敷を行き来した。
身に覚えのない階段へと行き当たる。その階段に差し掛かった時、視線の先の踊り場に、母親がひっそりと佇んでいた。
俺を俯瞰している。
「母さ―――っ!」
駆けだそうと思ったが、押し留まる。
何か様子がおかしい。
俺を見ているようで見ていない。
無感情な顔は能面のようだった。
そこにいるのは俺の知ってる母親の顔なのだが……。
何かが違う気がした。
温かみを感じない。
俺の母親は、こんな冷徹で淡泊な印象を思わせる人だったか。
それのせいもあってか、久しぶりに会ったのに感動が薄い。
まるで現実味がなかった。
何はともあれ、あの人は俺の母さんであることに間違いはない。今は何か気に病んでいて、あるいは突然現れた俺という人間を警戒しているだけなのかもしれない。
俺はゆっくりとその階段を上がっていった。
「………」
「母……さん、でいいのか? 久しく母親なんていなかったから何て呼べばいいか分からないけど……」
俺は様子見で近づきながら、固まったその人に話しかけた。
不審人物でないことを必死にアピールする。
「俺だよ。サードジュニア……覚えてるだろ……?」
「………」
反応がない。
身動き一切取らない様子は、蝋人形のようだった。
階段はあと一歩で登りきる。
母さんとの距離ももう目と鼻の先だ。
右手を前へと差し伸べる。その光景は傍から見れば、先ほどアイリーンに近寄る貴族男子のように恐る恐るといった仕草だっただろう。でもこれは親子の間柄。小恥ずかしい事だろうと久しぶりの家族の再会なのだ。触れあって何が悪いというのだ。
その差し伸べる右手も、ガタガタと震え始めた。
これは緊張しての事ではない。
昼間にもそうだったように、右腕が痙攣しているのだ。
演奏中も何回かあったが、徐々にその周期も短くなっている気がした。
「サードジュニア」
当時の名前を呼ばれた。
その名を呼んだのは目の前の母親じゃない。
そもそも母さんは俺のことをそんな名前で呼んでいなかった気がする。
母さんは俺のことを何と呼んでいたか。長い年数、書斎に幽閉されていた俺はそんなこともすっかり忘れてしまっていた。
では誰がその名を呼んだのか。
「そしてジャック、ロスト、いろんな呼び名があって羨ましいわね」
「……!」
硬直したままの母親の背後から、一人の少女が現われた。薄紫色のボリューム感あふれるふわふわの髪。黒い薄手の生地を、拘束衣のように体に巻きつけた少女だった。
そしてその怪しく輝く瞳。
赤黒く蜷局を巻いたその眼が俺を見つめていた。
「ケア……!」
女神だ。
女神ケア・トゥル・デ・ダウ。
女神といえど体は成長するのか、最後に見た姿から同じ年月を重ねたように成長していた。
「感動のご対面を邪魔してごめんなさい。でも、この人形に何を話しても無駄よ」
「人形……だと……?」
「ええ、そう」
目の前にいるのは紛れもなく生きた人間だ。
作り物の人形なんかじゃない。
そして、様子はおかしくても俺の母親であることに違いはなかった。
「母さんに何をした!」
「何をした? 何かしたのはだいぶ昔―――それこそあなたが生まれる前のことだけど。恋の成就の変わりに"未来"を頂いただけよ。彼女が母親になってからは何もしていないわ」
「なんだと……」
女神の言うことは理解できない。
何かしてなければこんな不自然な状態にならないはずだ。
そして俺が生まれる前には、既に母親に接触していた?
この女神が現世に受肉して生まれ落ちたのは、あの日―――ガラ遺跡崩落の日じゃなかったか。俺が生まれる前、ケアは何をしていたんだ。そして今、なぜ女神はここにいる。演奏楽団に掴まって、それを救出にいってからこの時まで一切姿を見ていなかった。
その神が突然現れた。
このオルドリッジの屋敷で。
分からない事ばかりだ。
俺は混乱して、口を紡いだ。
何を切りだせばいいか分からない。
聞きたいことが山ほどあって、どれか選んで話すことも出来なかった。
「混乱しているようね。でも世の中、すべてを知っても良い事ばかりではない。あなたの場合、このまま何も知らずに終焉を迎えた方が幸せかもしれない」
「なにを言ってやがる……」
ケアの突き放した言い方に、俺は言い知れぬ恐怖を感じた。これまで味方として、協力者として、圧倒的な力を持った神という存在がバックに付いていたように感じていた。だからこそ無茶も出来たし、信じて多くの人間を助けてこれた。
それこそあの時の言葉は今でも頭に残っている。
"―――魔力が無い運命は、あなたをこれから最強にする"
女神ケアは俺の後見人だった。
与えられた力を使えば、どんな強敵すら凌駕してこれたのだ。神の力が、俺に自信を与えてくれていたんだ。その神が、今では俺に対して「終焉を迎える」と冷淡に言い放った。信仰が厚かったわけじゃないが、神に見放されたように思えて、胸の奥に黒い錘が圧し掛かる思いだ。
ケアはその禍々しい視線を、俺の右腕に移して、すっと目を細めた。
「一つだけ教えてあげる。その右腕、プレゼントとして与えたものではないの。もちろん聖典がラッピングというのも間違ってる。あなたの英雄願望に乗せて、ある物を回収してきてほしかっただけよ」
「ある……物………?」
「勲章として、あなたが肌身離さず持ち歩いてるそれよ」
そう言うと、女神は俺の胸元に手を差し伸べて手招きした。
赤黒いオーラがその手先から伸びる。次の瞬間、着ていた黒い演奏隊の制服のシャツが弾け飛び、俺の胸元が露わになった。そこから、その小さな円月輪が回転しながら宙へと浮かび上がる。
革紐が千切れて、俺のもとからそれが離れていく。
―――神秘の兵器リゾーマタ・ボルガ。
過去改竄の禁断の魔法兵器。
エンペド・リッジが神との契約で造り出した羅針盤。
神との契約で造り出した……。
その神とは誰のことだったか。
あのときの光景がフラッシュバックする。
浮かび上がる巨大な円月輪。
回転する三つの輪が織り成す球体。
内部には赤黒い魔力が渦巻いて……。
赤黒い魔力――それは女神の象徴だ。
「このリゾーマタ・ボルガは、わたしとエンペドが造ったものよ」
あぁ……。
あぁ、やっぱりそうだったのか。
女神の手の平の上で高速で回転するその円月輪を呆然と眺めた。
不思議でならなかった。
何故、ケアが俺に力を与えたのか。
魔王がいるわけでもない。
各地の紛争のことを除けば、魔物も魔族も大人しいこの安定した世界。
救済の対象が少ないこの世界で、俺は何のために力を与えられたのか。
―――ただ、利用されていただけなんだ。
一つの疑問の答えが得られ、
「さ、エンペドのもとへいきましょう」
また一つの疑問が浮かび上がる。
茫然自失した俺に、赤黒い渦が取り巻いた。
"エンペドのもとへ"―――その言葉が俺の頭の中を駆け巡り、通り抜けていた。思考が追い付かない。階段に充満した赤黒い魔力が周囲を覆う。巻き込まれる母親ミーシャの頬に伝う涙が、俺の目に焼き付いた。
「母……さん………」
利用されたのは俺だけじゃないんだ。
○
右腕の疼きで目を覚ました。
気づいたときには床の上に投げ出され、堅い絨毯の感触が頬をなぞる。体を起こすと同時に、どこからか大量の悲鳴も聞こえてきた。普段は人の悲鳴に敏感な俺だが、今回に限ってはなぜか体が思うように動かせない。
霞んだ視界が徐々に晴れていく。
ここはどこかの書斎……?
壁伝いにいくつも本棚が置かれている。すぐ隣にはソファが向かい合せで置かれ、部屋の奥には大きな机があった。そのさらに奥にはベッドも置かれてあることから、書斎じゃなくて誰かの寝室であることが分かった。寝室にしてはだだっ広い。
状況を確認した後は、何があったのか振り返る。
直前まで母親を追っていた。
そしてその先に待ち伏せていた女神ケアと話をした。
今は、拘束具がつけられているわけでもない。
体も五体満足で自由の身だ。
立ち上がると、ソファに覆いかぶさるように倒れている母さんの姿が目に入った。不自然な態勢だ。寝ているようには見えない。
「母さん……!!」
急いで駆け寄る。
意識がなく、気絶しているようだ。
その横顔を間近で見た。
やっぱりこの人は俺の母親だ。
線の細く優しそうな顔立ち。夜が怖くて眠れないとき、母親の寝室に飛び込んで見たときの寝顔と同じだった。見間違えるはずはない。そのときは俺をベッドに迎え入れ、寝付くまで絵本を読んでくれた。優しく愛情に満ちた母親だった。人形なんて、そんな風に言われる筋合いはない。例え女神だろうと―――。
「気がついたようだな。サードジュニアよ」
「………ッ!?」
しわがれた低音の声が部屋に響く。振り返ると、そこに頑強な男と、俺をここに連れてきた女神が部屋の中心部に立っていた。
「……イザイア……オルドリッジ……」
「ふっ―――――くっはっは……はーっはっはっはっは!!」
その暴君は大口を開けて笑い始めた。
何がおかしいのか。
自分の妻がこんな状態で、何も感じないのか。
やはり俺の父親はどこかがおかしい。
気でも触れたのか。
俺は親父を睨んだ。
見るからにコイツは女神ケアと組んでいる。そしてさっきのケアの発言「エンペドのもとへ…」から察するに、背後にエンペドの存在が絡んでる可能性も高い。最初から親父は企んでいたのだろうか。
俺という子どもを利用して、エンペドと共に、何か禁忌の魔法でも成し得ようと……?
イザイア・オルドリッジは稀代の魔術師だ。
そういう狙いがあっても不思議じゃない。
そう考えると、この状況も辻褄が合う。
「貴様のその憎々しげに呼ぶ名前、果たして誰のことか……クックック……己が何者であるとも分からず、純朴に目的を遂げてくれたのだからな。その間抜けさ加減、まさに飼い犬のそれだ。すこぶる滑稽であるぞ。す・こ・ぶ・る・な」
笑いを噛み殺し、ふざけた調子で喋っていた。
「さて、此度はご苦労であった。忠犬のように律儀にリゾーマタ・ボルガを持ち帰ってきてくれたのだ。せめて最期くらいはタネ明かしをしてやっても良かろう」
「やっぱりリゾーマタ・ボルガが狙いだったのか。ケアとエンペドと組んで、俺をこの家から捨てたんだな?!」
「ふっはっはっはっ! エンペドと組んで? 何を世迷い言を――」
俺の言っていることが心底面白おかしいようで、親父は終始ニヤついていた。その余裕ぶった態度が気に入らない。お前にほんの少しでも父性というものはないのか。死にゆく中でも息子を助けたアンファンのように、家族の情というものはないのか。
ヤツは組んだ両腕を解き放って、大袈裟に告げた。
「貴様の云うエンペドとはな、その実、私のことだ――イザイア・オルドリッジよ」
………。
視界がぶれる。汗が噴き出る。
今、こいつは何と言ったか。
「イザイア・オルドリッジ―――現世での私の名だが、その名も、この体も、元来貴様のもの。サードジュニアではない。"貴様自身"がイザイア・オルドリッジだったのだ」
「………な……に……」
信じられない。
信じようがない。
イザイア・オルドリッジは俺の父親だ。大学での功績を讃えられ、オルドリッジの後継者として認められた稀代の魔術師。
そしてこの家では暴君。
幼い俺にとっては恐怖の対象だったはずだ。
それが自分自身の名前だった? 体だった?
理解できるはずがない。
「とはいえ、私と貴様の間柄はまったくの赤の他人というわけでもない。エンペド・リッジ―――即ち千年程前、当時の私がアザレア王国にて大成を遂げた後に作った家系がオルドリッジ――Aldridge家だ。つまり私は、貴様にとっては古い先祖に当る存在なのだよ」
オルドリッジがエンペド・リッジの血筋だったと。
悪の権化として名高いあの魔術師の子孫が……オルドリッジ家だったと。
そして俺が、その子孫"イザイア・オルドリッジ"だった。
重ねられるそれらの衝撃の事実が、俺の動揺を誘う。
すべての言葉が俺の背筋を冷たくなぞり、体が竦んで身動きがとれなくなった。得意げに語るイザイア―――いや、エンペドの仕草は確かに古臭さも仰々しさも感じる。そう振る舞う体は、以前まで俺自身のものだったのだ。あの屈強な戦士らしい肉付きも、深く刻まれた皺も……。
だが、それでかと納得できるものもある。
この男に"父性"がないのはそういう事情らしい。
そもそも親子という感覚がないって事だ。
体の震えが止まらない。
それは右腕の疼きによるものだけじゃない。
俺は告げられた事実に、驚きを隠せなかった。
一方で、外からの悲鳴は続いていた。魔法による衝撃音のようなものも混じっている。何が起こっているのかさっぱりわからなかった。ここは屋敷の一室であることは間違いないから、外から聞こえるという事は祝典で何かトラブルが起きたという事だろう。
だが、そんな外の騒ぎなんて気にしていられる余裕はなかった。
「オーブリー」
エンペドは突然、知らぬ名前を呼び止めた。
気づけば、部屋の入口付近にあのギョロ目執事が控えていた。
「はい、旦那様」
「外の様子はどうなっている」
「異形のモノが喚び出され、参列者総てが混乱しております」
「そうか。アイザイアに"イザイアが死んだ"と告げてこい。そうして当主の座を継承させ、事態収拾の指揮を執らせるのだ」
「承知いたしました」
手短なやりとりで、オーブリーと呼ばれた執事は部屋を颯爽と出て行った。エンペドは「イザイアが死んだ」と言った。その意図は、当主の座を退くという意味だろうが、しかし"死体"は喋りもしなければ身動きも取れない。
―――死体であるはずのイザイアの身体、どうするつもりか。
「さて、外でもお祭り騒ぎになっているようだが、こちらも"式典"に移ろうではないか」
エンペドが緩慢な動作で前に踏み出した。
それを合図に、ケアも手の平に浮かべていたリゾーマタ・ボルガを虚空に放り投げ、その廻る円月輪に赤黒い魔力を注ぎ込み始めた。徐々に肥大化するリゾーマタ・ボルガが禍々しい光を帯びて回転する。
その光景はいつかの繰り返しだった。
アザリーグラードで起きた惨劇と同じ―――。
「やめろ、ケアっ! ……エンペド、お前の目的はなんなんだっ! リゾーマタ・ボルガを使って何を………」
俺の叫びが掻き消える。
エンペドはその床を滑るように瞬時に迫り、俺の肩に拳を振り下ろした。それを反射的に腕で払いのけるも、もう一方の腕が顔面めがけて迫ってきている。それを、両手を重ねて受け止め、腕を捻って返し技に入る。エンペドも俺の反撃を軽く往なしてはさらにカウンターの動作を繰り返した。
超近接の攻防戦。
静かだが、凶暴。
鋭いが、慎ましく。
腕だけの攻防。
すべて条件反射のように勝手に体が動いた。
「な・る・ほ・ど……良い反応だ。さすがは私の遺伝子を色濃く受け継いだだけある」
俺がその流れるような拳闘に必死に合わせているのに対して、エンペドはまるで品評するかのように俺を眺めていた。壮年を迎えた男とは思えないほど卓越した動きだった。
「よい、合格だ。では、これはどうだ?」
展開されたのは両腕に宿した炎の魔法と雷の魔法。
魔法自体を己に纏い、近接攻撃として利用する「魔力纏着」。
こいつは稀代の魔術師。
左からは炎の弾丸、右からは電撃の弾丸が襲い掛かる。
俺はその両腕の攻撃を躱した。
魔法攻撃には右腕から発する反魔力の粒子を当てれば霧散する。
俺は右腕をいつものように使おうと振り被った―――。
「――――つぁッ!!」
ぶるぶると、筋肉が攣ったようにうまく動かせない。
昼間から続いたこの痺れ。
一体、この反動はなんだというんだ。
「ふんっ!」
「あぁぁあああっ!!」
ヤツの電撃の手が俺の肩を掴み、その魔法が全身に伝う。
高電圧のエネルギーによって、演奏隊の黒い制服がはじけ飛んだ。
ただの電撃魔法とは訳が違う。
一流の魔術師が扱う、単純かつ強力な攻撃。
ダメージも相当大きい。
起動しない反魔法の力。うまく動かせない体。
俺は奴の術中に嵌められるだけだった。
そして左からは炎の弾丸。
エンペドの右拳が俺の胸部を撃ち抜いた。
重たい衝撃とともに背後に仰け反る。
心臓が止まったかと思った。
間違いなく、胸の骨は砕かれた。
激痛のあまりに無様に跪く。
「やれやれ、新しいボディは破壊したくない……早く解放しろ、その右腕の力を」
………?
エンペドは俺を煽っている?
突然振るわれた暴力は、俺を殺すためではないらしい。
"―――ある意味、神のような存在が今回の敵
いいね、激昂したらキミの負けだ"
魔法学校の図書館で出会ったメドナさんの言葉が、またしてもフラッシュバックする。
激昂したら負け。
もしかしてエンペドは俺の力を利用するつもりか?
「オルドリッジのこのような強大な魔力も、元々は転生者である私の血筋によるもの―――貴様ら子孫はその恩恵に与っているだけなのだ」
そう言って、オルドリッジは無詠唱で右手に回転する火球ファイアボールを浮かび上がらせ、見せつけるように自在に操ってみせては消失させた。次に呼び出したるは電撃球、氷槍、光球、ありとあらゆる魔法を何の予備動作もなく生み出しては消失させる。
見せびらかすように。
好きに扱おうが何も文句を言われる筋合いはない、とでも言いたげだ。
「尤も、かつて貴様のものだったこの身体も非常に使い勝手が良かったがな。私の魔力の系譜を辿ってくれたことに感謝しているぞ……クックック……」
魔力の系譜―――名高い魔術師の家系オルドリッジの魔力の起源は、すべてエンペド・リッジに帰属する。転生者とは何なのか知る由もないけど、この尋常ではない魔力が何よりも特異な家系であることの証明だ。
―――でも、だからって……。
それを好きに扱っていい道理がどこにある。
その歳を重ねたイザイアの肉体が、自分のものだったなんて実感はない。
好きに使われたって悔しさなぞ微塵も感じない。
俺が許せないのはその傲慢さだ。千年も昔の先祖の爺が子孫すべてワシのもんだと宣うバカが何処にいやがる。遠い親戚すぎて他人以上に関係ない。リゾーマタ・ボルガを使って何をするつもりかははっきりしないけど、古のアザレア大戦のように終わらない戦争を繰り返されたら堪ったもんじゃない。
「悪いが、その陰謀………打ち砕く……!」
「よいぞ。さぁ、早くかかって来い」
戦う決意は出来た。
戦う理由だってある。
気になるのは一つ。
こいつが俺の右腕の力を使わせようと煽っている所である。
力は使わない……。
右腕の解放を要する芸当は3つある。
・反魔力弾の放出。
・複製剣の錬成。
・時間制御の発動。
この3つの能力を使えば、右腕の聖典の封印が解かれる。
満を持して、なるべくこの3つは使わないようにしよう。
なに、アルフレッドともこれらを封印した状態で決闘し合っている。
こんなヤツの魔法なんて物理攻撃の前にひれ伏してやろう。
俺がいざ意を決して、胸の激痛を抑えながら一歩踏み出した時である。
「ミーシャ、何の真似だ?」
目の前に、母親の小さい背中が映った。
さっきまで気絶していたはずの母親。
そして感情も見せず、抜け殻のように何も喋らない母親だ。
―――その母さんが、俺の前でエンペドと対峙していた。
まるで俺を庇うように。
「母さん……?」
「………」
後ろからかろうじて見える横顔は、相変わらず張り付いたように眉一つ動かさない。しかしその瞳は真っ直ぐエンペドを睨んでいた。感情は窺い知れないが、俺を守ろうとしてくれていると確信した。
「邪魔をするな! 退け、ミーシャ!」
「………」
目の前の悪の化身に対峙するにはあまりにも弱々しい小さな体。
でも母さんは頑なに動かない。
動かそうともしない。
体も、その表情も、その唇も。
「ええい、"苗床"風情がっ! 私の邪魔をするでない!」
怒りを顕わにしたエンペドが手早くファイアバレットを作りだす。
そしてその小さな体に放った。
「か……!」
弾き飛ばされる体。
俺の横を通り過ぎて、背後へと投げ出された。
「母さん!!」
俺は臨戦態勢であることも気にせず、投げ出された母親に駆け寄った。
身体が焦げついている。
苦しそうだ。
俺にはヒーリングすら使えないから、この体を癒す事はできない。
「……い………ぁ………く……」
母親が俺の頬に手を伸ばし、何かを言いかけてから力尽きたように意識を失った。死んでしまったのだろうか。心配になって胸に耳を当てるが、かろうじてその鼓動は確認できた。
「ふん……その人形も用済みだ。無事に次の憑依先を産み落としてくれたのだからな」
「……テメェ……ッ!」
その胸糞悪い言い方。
頭に血が昇る。
握り拳は制御が利かないように癇癪起こして振動していた。
「その人形も元々は"イザイア"に恋をしていた愚かな女よ。貴族の生まれというから当初は期待していたのだがな。なに、よもや男の悦ばせ方も知らぬ世間知らずな女だった。その美しい体は堪能させてもらったがな……クックック……」
―――ぷつんと、何かが弾ける音がした。
このクソ野郎だけは許せない。
ぶち殺す。今すぐに。
鼓動が激しくなるのを感じた。
視界が赤く染まり、世界が拡張する。
ゆっくりになる世界。
相反して俺だけが加速していた。
床からそそり立つ、幾重にも重なる剣の形状をした突起物。
そのすべては俺が造りだしたものだ。
自分でも意識しないうちに、能力をフル稼働させていた。
右腕はガタガタと小刻みに振動し、怒りも交わって俺自身も訳の分からない状態になっていた。
"―――いいね、激昂したら………"
激昂したら……?
しないわけがない。この状況で、こんな胸糞悪いことを言われて、冷静でいられるわけがない。俺はその能力をフル稼働させ、エンペドを刺し殺そうと差し迫った。エンペドも時間制御を使えるわけではなさそうだ。その緩慢に見える動作。加速したこの世界の中では雑魚も同然。
殺す。すぐに。母さんを……そして以前は"俺"という人間に恋してくれていた女性を無下にしたこのクソ野郎を……早く……!
「残念、ゲームオーバーね」
そんな世界で、ケアの声だけが普通のトーンで耳に届いた。
次の瞬間、右腕に激痛が走る。見るに、聖典アーカーシャの系譜がふわりと俺の右腕から解放されて浮かび上がり、不安定な状態で漂っていた。
「これも返してもらうわ」
「あ、あぁあああっ!!」
しれっと告げられ、聖典は俺の右腕に戻ることなく、バチバチと青い紫電を走らせながら女神ケアのもとへと返っていった。巻物のように巻かれながらシュルシュルと彼女の手元に収まっていく。
封印を失った禍々しい右腕が剥き出しになる。刻まれた魔族紋章の筋が、心臓の拍動に連動するように赤黒く点滅していた。
―――バキッと、何かが割れる音がした。
肩の付け根から、その異形の右腕が俺の胴体を浸食していく。まるで体が喰われていくかのようだ。肩から頬、鎖骨、そして胴体、体の至る所が、禍々しい魔性のものへと成り代わっていく。
封印が完全に解かれた右腕の力が―――。
「暴走……している……?」
「クックック………はーっはっはっは!! 貴様の負けだ、イザイア・オルドリッジ。その天性の肉体、虚数魔力、そして時間魔法。すべてエンペドが譲り受けようぞ。くっはっはっはっ!」
賤しい笑い声が耳を劈く。
「こ…………っ!」
「魔造の腕があなたを浸食する。変質した肉体は、その魂を追放するわ」
「………ッ!!」
「さようなら、イザイア・オルドリッジ……その体はエンペドの魂を納める新たな器となる」
女神が何を言っているのか、相変わらず理解の範疇を超えていた。
俺自身、理解に努める余力も残されていない。変わり果てていく自分の体を眺めながら、沸騰する頭を床に打ち付け、壁に打ち付け、苦しみ悶えていた。こんな激痛は味わったことがない。自分の体が自分の物ではなくなっていくような感覚。
「生体憑依――選手交代だ、イザイアよ」
下賤な笑い声がいつまでも耳に残った。
その赤黒い浸食が胴体の半分を覆ったとき、俺はついに暗闇の中に引きこまれるような感覚を覚えた。暗闇の奥底に沈むように、眩暈が襲って倒れ込む。寒気、火照り、そういった温覚さえも失ったとき、俺は自分の終焉を感じていた。
どっぷりとした闇に沈む感覚が、孤独さを引き立てた。
これが、死……?




