Episode92 乙女は英雄に恋焦がれ
魔法学校には休みがあった。
一週間に一回だけ。
その日は俺もリナリーの送り迎えが休みなわけで、涼しい風、暖かい太陽、そんな自然の恵みを目一杯肌で感じて、ソルテールの広場の木蔭で昼寝していたのだった。
燦々とした日光。長閑な風景が広がるこのソルテールに、その"嵐"は突如として現れた。遠くからガタガタと不穏な音が近づいてくる。
蹄の音。車輪が土に食い込む音。
馬車だ。
馬車がソルテールの広場に近づいてくる。
庭で洗濯ものを干すふくよかな婦人が、あれと声を上げてその馬車を見て目を丸くした。食料品を売りさばくために精よく客を招く主人が、おわと驚きの声をあげた。
俺は体を起こして、その不穏な音に耳を傾け、目を凝らした。
その馬車の様相はソルテールに似つかわしくない。
装飾からして明らかに貴族所有のものだ。
鉄製で頑丈そうだし、塗料でしっかり黒塗りになっていた。
馬も毛並が良い。
間違いなく、高い金がかかっている。
「どうどう」
馬車を操縦する御者は女性のようだ。フードを目深に被って、どんな女性かは分からないが小柄なようである。
柔らかい声でその高級馬を制止させ、広場の脇に止めさせた。そして御者はすぐに御者台から飛び降りると、その鉄製の扉を開けてすぐに昇降用の段を用意した。
その中から、そのご令嬢はたどたどしく降りてきた。
服装は派手。
長く伸びたフレアスカート。どういう造りをしているのか、訳の分からないくらいに大袈裟な広がり方をしている。そして腰はコルセットでも使っているのか、しっかりと引き締めて、くびれを作っていた。
そのドレス自体もサテンやリボン、レースで多少は装飾されている。
THE お嬢様。
そんなお嬢様がソルテールなんて片田舎に来るなんておかしい。
町の住民が珍しそうにするのも致し方ないだろう。
「………はぁ、きついー……」
「お嬢様、最近太ったのではありませんか?」
「失礼なこと言わないでくれるかしら! 鍛えてるんだから筋肉よっ」
きーきーと御者に言い返すお嬢様。どうやら馬車を操縦していたのは、その貴族令嬢の付き人―――使用人のようだ。
あの組み合わせは見たことがある。
紛う事なき令嬢とそのメイド。
あれはアイリーン・ストライドとそのメイドのリオナさんだ。
「……で、でたー……」
どうしよう。
とりあえず俺は木の裏に身を隠した。
ダリ・アモールでの別れ際、"貴族の嗜み"を学ぶために忙しくなると聞いていた。最後に見たときより、ずいぶんご令嬢らしい姿になっている。
本当にそういう訓練でも受けてきたようだ。ボリューム感のある黒い長髪は、毛先をくるくると巻いて肩に垂らしている。あの巻き巻きは、今までになかった髪型だ。
ゴージャスだ。
そして遠目で見ても美しいと感じる。
誰が見ても文句のつけようがない程に。
「ところで何でここの住民たちは私たちのことを見てるのかしら?」
「そうですね、おそらくお嬢様のような身分の方が訪れるのが珍しいのでしょう」
「んー……お忍び用に調度した馬車と服装だったのだけど……そんなに目立つかしら」
目立ちすぎてますけど!
一切合財、馴染もうという努力を微塵も感じ得ませんけど!
「確かにここは人目に付き過ぎるわね。さ、早いところジャックのところへいきましょう」
「承知しました」
やっぱり俺か。
俺に用があるのか。
無意識に俺は体を引っ込めた。見つからないように。
2人は再度、馬車に乗ってその先の道を走らせた。
坂道になっているが、立派にその馬は駆けていく。
何とかやり過ごしたが……さて、どうしようか。
リンジーにも先日言われたことがある。
―――そんな態度でいたら、女の子に失礼だぞっ。
俺の煮え切らない態度は身近な人から不幸にしていく。
俺にはシアという変人だが心優しいハーフエルフがいるんだ。
ちゃんと言葉にして伝えないとな。
俺はその馬車の後を追って、リベルタのアジトに戻ることにした。
○
後から馬車を追いかける。
リベルタのアジト前にその馬車が停留していた。
「だぁから、ジャックを出してって言ってるだけでしょう!」
「お帰りください。ロストさんはいないので……多分」
「多分なら確認するくらいしてきてよっ!」
「かなり確率の高い多分ですよ」
「じゃあいないってことでいいのね? どこに行ったのかしら?」
「知りません」
「知らないの? やっぱり貴方の想いはその程度ってことよっ」
「アイリーンさんと違ってこうして同居してますので、知る必要がないです」
「同居って、ただ2人揃ってアルフレッドさんの家に居候してるだけじゃないっ!」
あの2人のやり取りも懐かしいものだ。あそこまでぎゃーぎゃー騒がれると、後から登場しにくい。そしてアイリーンへちゃんと言葉を伝えるのも、あの威勢を前にすると出来なくなってしまうのだった。
俺は草むらの影に身を潜めていると、背後から背中をバシバシ叩かれた。
「お・に・い・ちゃんっ!」
リナリーが俺が身を隠している意図も介さず、堂々と声をかけてきた。
俺は振り返ってリナリーの口元に指を押し当てた。
「リナリー、しー! 今は、しー、だ!」
「なんで~?」
「お兄ちゃんはタイミングを見計らってるんだ。物事には常にタイミングってものがある。それを見誤ると大変な事になるんだ。たとえば今……今この瞬間、俺が家に帰るとする。するとどうなるか? 板挟みだ。板挟みに遭うんだ」
「いたばさみ?」
「板挟みは怖い。挟まれたら洗濯挟みの百倍は痛い」
「えぇっ! それは痛いねっ」
リナリーは俺の適当な言葉を鵜呑みにして縮み上がった。
というか、洗濯挟みに挟まれる痛さを知っていたのか。
「誰が洗濯板ですか?」
背後から、シア・ランドールの冷たい声が響く。
後ろを振り返ると、誰もいない。
誰もいないと見せかけて、少し時間が経つと空圧制御の力を解いて、目の前にシアが出現した。
姿を消せるって恐ろしい。
盗聴し放題じゃないか。
それにしても直前までアイリーンと言い合いしていたはずなのに、いつの間に近づいていたんだろう。アジトの方を見るとアイリーンは、リンジーと世間話をしている様子だった。―――という事は、シアだけ俺を探しに家を出たという事だろうか。
「いや、ハサミ。俺たちはハサミの話をしていたんだ」
「意味が分からないです。ハサミで切られたいと?」
「……チガイマス」
俺の視線はちらりとシアの胸元へと移った。
シア、その貧相な胸のこと気にしてるのか……。
○
貴族の持て成し方なんて知らないが、とりあえずアイリーンとリオナさんを家の中へ通してリビングのソファに座ってもらった。リンジーが紅茶を出して盆を下げる。
「お気遣い、よろしくてよ」
「よろしくてよ? なんだ、その言葉遣い……」
「わたくし、これでもストライド家の長女ですのでー」
アイリーンの言葉遣いには違和感があった。
これが実家に帰って鍛えられた"貴族の嗜み"だとでも。
覚えたての事だから、習慣化して馴染ませようとしているのかな。
だがいつでも無鉄砲なアイリーンらしくない。
「その貴族の御方が今日は何の御用でしょうか?」
シアの皮肉がその気取った御令嬢に見事に突き刺さる。
アイリーンも眉間に皺を寄せてシアを睨んだ。
「ふんっ……お生憎様だけど、貴方には関係ないのっ」
そう言うと脇で整然と立ち竦んでいたリオナさんが、どこからともなく三つ折りの紙を取り出し、目の前のテーブルに丁寧に広げ始めた。紙の皺を2、3回払うという丁寧っぷりだ。
「ありがとう、リオナ。ほらジャック、これを見て頂戴」
俺を見つめ、その書面を見るように視線で合図した。
その紙を覗き込むと、どうやら招待状のようだった。何やら難しい言葉が並んでいて適当に読み飛ばした俺だったが、最後の署名に背筋が凍りつく。
"―――親交厚き隣人 イザイア・オルドリッジ"
と、そう書かれていた。
その名前にだけ目が留まり、俺は視界がぐらぐらと動転し始めた。
「イザイア……オルドリッジ……」
「どうしたの、ジャック? 大丈夫?」
何故。何故ここで突然、こいつの名前が。
幼少期の悲惨な日々を思い出す。
これは俺の中のトラウマだ。
荒療治と思って無理やり屋敷に足を運んだときも示したこの反応。
体はぶるぶると震えて冷や汗が出てくる。
「なんか、様子が変だけど……大丈夫かしら?」
「あ、あぁ……大丈夫」
俺は汗を拭って平静を装った。
ここで異常な反応を示しても仕方ない。名前見ただけで震えてたらいつまで経っても親子の感動の再会が果たせないぞ。感動なんて間違ってもしないだろうがな。
「そっか……そうよね。ジャックもわたしに婚約の影が出来るのが不安なのよね?」
ん!?
どういう事だ?
「大丈夫、わたしはこれからもジャックのものだから!」
「意味がわからないぞ……」
「だから、この招待状に書いてあるでしょう!」
内容は全然見てなかった。
何だろう。あらためて内容を見返したが、招待状の表現が遠回しすぎて何を書いてあるのか、結局のところさっぱり分からなかった。
「要するにどういう事だ?」
「だからー! もう!」
そしてアイリーンは手短にまとめてこの招待状に書かれている事を要約してくれた。
この招待状はオルドリッジ家の長男の誕生日パーティーの招待状だった。
つまり、俺を散々いじめてくれたあの兄貴の祝い事があるということだ。魔法大学を卒業して最近実家に戻ってきたらしい。そのお祝いも兼ねているとか。
アイリーンが言うには、ここまで正式な書面で招待されるパーティーという事は、至る所の貴族たちにも声を掛けているに違いないという事。そしてその意味するところは、今回長男の婚約者探しも兼ねているだろうという事だった。書面にはそんな事一切書かれてなさそうだが、貴族の社交とはそういうものらしい。アイリーンのもとにも声が掛かったという事は「花嫁候補としてお越し下さい」という意味合いを含んでいるとか。
あぁ、そうか。
俺がもう15歳……直に16歳になる。ということは、上の兄たちもけっこう良い歳になってる。一番上がこれで20歳、その下が18歳。良い歳した大人だ。俺の中の兄は、弟を苛めるだけの悪ガキのイメージしかない。血を分けた肉親の祝い事といっても、まったくめでたいと思えなかった。
今回のように、貴族というのは適齢期を迎える誕生日には盛大な祝典を開いて、そこをある種のお見合いの場にする慣例があるそうだ。魔術師は晩成であるために30手前でようやく結婚するケースが多いようだが、兄貴の場合はかなり早いようだ。魔法を究めるのが早かったのか、あるいは諦めるのが早かったのか?
どちらにしろ俺を実験台にして魔法を練習してたくらいだ。
さぞ魔法の成熟は早かったのかもな。
俺はその招待状をテーブルに放って、他人事のように振る舞った。
「それで、この貴族のお祝いがどうかしたのか?」
「ジャックにも付いてきて欲しいのよ……」
アイリーンは薄ら頬を染めながら、ぼそりと呟いた。
俺は驚きのあまりに前かがみになる。
「なんで!?」
「そ、それは察してよっ……」
「なにを!? どう!? どう察しろと?」
俺は自分でも驚くほどに狼狽した。
付いてこい、という事は俺にあの実家へ踏み込めと言っているって事だ。
それはトラウマを克服しろと言っている事と同じ事。
アイリーンがその事情を知らないにしても、無理なお願いであることに変わりない。
「ジャック様、後ろから失礼します。私が代弁させて頂きます」
アイリーンの不筋な話をフォローするのはリオナさんだった。
ソファの脇に立ち、黙って控えていたが、前に出て発言する。
「アイリーンお嬢様の"察して"というのは、ジャック様に婚約者として一緒に来てほしいという事をお伝えしているのです」
「はぁ!?」
いつから俺たちは婚約者になっていたのか。
唖然としてアイリーンの顔を見返したが、頬を染めてそっぽを向いているだけ。今まで積極的だったくせに何故こういう時にはそんな初心な態度を出すのか。
それもあれか。貴族の嗜みか。
恥じてこその乙女心だと主張したいのか。
「お独りですとオルドリッジ家のご子息、ならびに婚約を見越した他の貴族男子に目をつけられる可能性がございます。お嬢様がいくら他のご令嬢よりも筋肉質で野蛮な肢体をお持ちでも、そのお顔の見目麗しさに関して言えば一目を置かれる事でしょう」
「それ、誉めてるのか貶してるのか分からないわねっ」
アイリーンが筋肉質なことは頷くが、野蛮というほどでもない。細身に引き締まっていて戦士目線で言えば、鍛え抜いた良い身体をしていると思うが。
「……こほん。ですので、ジャック様を想うお嬢様の願いは、婚約者役を演じ、候補から除外されるように振る舞ってほしいという事です」
「なるほど」
あくまで婚約者"役"か。
「役じゃないわっ! 本当に婚約者として登場してくれてもいいのよ」
やっぱりそういう意図もあるようだ。
俺は隣に座るシアと顔を見合わせた。
彼女もあまりに突拍子なことに整理が追いつかないようだ。
目をぱちくりさせて何事かと不思議がっている。
ダイニングには玩具で遊ぶリナリーとそれを見守るリンジー。
俺はリンジーの方に視線を送り、意見を求めた。
呆れたように首を横に振るリンジー。
「まぁ俺は―――」
「―――と、言うのはお嬢様専属メイドとして、お嬢様の意見を尊重する私からのお願いではございます、が………正直に言うとジャックくんにはこれを断ってほしいかな?」
「ちょっと、リオナ! 何てことを言うのっ」
俺が返事をしかけた途端、被せるように話し出したリオナさん。メイドモードを切った途端に口調ががらりと変わり、姉のように意見を告げ始めた。
「アイリーンお嬢様、ご当主様にも言われているようにジャックくんとの婚約は認められないわ」
「なんでよ」
「んー……絶対に駄目じゃないとはいえ、貴族と結ばれることをご当主様も望んでるの」
貴族は貴族同士で、ということか。
身分制度が絶対ではないが、そういう風潮があるのも否定できない。
「むしろお嬢様には、これを機にオルドリッジ家のご子息様と婚約を交わしてほしいとも思っているみたい。私もその方がいいと思うのだけど……」
「イヤっ!」
アイリーンは頑なだった。
考え得る策を提案していくしかない。
俺も一つ提案してみる。
「嫌なら体調不良で欠席すればいいじゃん」
「ダメよ、大事な社交の場で欠席なんてしたらストライド家の名が落ちるわっ」
その程度で?
貴族ってけっこう面倒くさいんだな。
「アイリーンさんはお留守番し、私とロストさんが2人で参列するというのも面白いかもしれません」
「意味が分からないわよっ」
シアもくだらないと判断したのか、適当な提案を言いだしている。
だが、アイリーンは俺たちの能天気さとは相反して深刻な顔をしていた。
膨れ上がったスカートの丈を握りしめている。
さらに目元も少し震えている。
涙目だ。
オルドリッジ家とくっつくのが、そんなに嫌なのか。
まぁ斯く云う俺もそのオルドリッジの人間なんだけど。
「アイリーンはオルドリッジの何が気に食わないんだ?」
面白がって聞いてみる。これは私怨が募る俺とはまた別の視点で、オルドリッジの評判を聞くことにもなる。さらに同じ貴族の立場ではどう思われてるか知るキッカケにもある。まぁ、裏を返せば俺に対する批判にもなるのかもしれないが……。
「だって、魔術師の家柄なんてみんなオタクでしょ?!」
「オ、オタ……」
想像していたものより重たい一撃が俺の懐に食い込む。
「毎日毎日、朝から晩まで本でも読んで、」
グサ。
「怪しげな魔道具でも溜め込んで部屋で眺めまわしたり、」
グサグサ。
「しまいには、そうやって誰とも喋らないから社交性も低いっ!」
グサグサグサ。
「そんな人と一緒になっても、つまらないに決まってるじゃないっ!」
つまらないに決まってるじゃない。
つまらないに決まってるじゃない。
つまらないに決まってるじゃない。
俺の中でアイリーンの最後の言葉が3回ほどループした。
「お、おぉ……おぉぉぉ……」
「ん? どうしたの、ジャック?」
それ、俺じゃん!
本が好きで悪いか!?
魔道具が好きで悪いか!?
社交性がなくて悪いか!?
「それ、ロストさんの事を指してますね」
「何言ってるのよ。ジャックは英雄なのよ。私を守ってくれるし」
シアはよく分かってらっしゃる。
そしてアイリーン、それを依怙贔屓というんだぞ。いくら卓越した戦闘技能を持っていても、日常生活はさっき挙げた三つにちゃんと当てはまっている。俺は詰まらない男に分類されるということだ。
総評して、俺はアイリーンと相性が悪い気がする。
今でこそアイリーンの夢見心地な恋で、追いかけ追いかけられの関係が成り立っているが、いざ一緒になった暁にはその俺のつまらない所が目について失望させてしまう事だろう。……これは今回のお願いも含めて丁重にお断りをした方が良い。
アイリーンの為にも。
そう、これはアイリーンの為でもある。
「パスだ」
「パス?」
「断る」
「なんでよっ」
「何はともあれ……俺は貴族じゃないし、招待もされてない人間がオルドリッジの屋敷に簡単に入れないだろう」
先日も「お引き取りください」と老け顔ギョロ目の男に門前払い食らった。何処ぞの馬の骨とも分からぬ男をそう易々と通さないって事だ。だから、誕生日祝いであってもそう簡単には入れないさ。
入ろうとしても入れないんだからな。
……入ろうとしても。
ん?!
ちょっと待った。
「だからっ、婚約者なんだから入れるの! 異国の尊い身分だって名乗れば大丈夫よ。ただでさえジャックは遠目で見たら魔族に間違われることだってあるんだから」
アイリーンは目が泳いでいた。自分の思い描いていた通りにいかなくて動揺しているんだろう。だけど俺は直前までの考えとは正反対に、そのお願いを受けようという気持ちが湧いていた。
俺にはこのお願いを受ける理由が一つある。
―――オルドリッジの屋敷に、入れるんだ。
あんな固く閉ざされた門を開けることすら出来なかったのに、アイリーンに付いていって兄貴の誕生日祝いに参加すれば、意図も容易く屋敷に入ることができるんだ。それは俺にとって願ってもないチャンスだった。父親と母親にも、会いに行ける。
「お願いよ、ジャック。私はまだ結婚なんて考えたくないし、するとしたらジャックしかいないのっ!」
「お嬢様、ジャック様もこうして断ると仰ってるんですから……」
メイドの立場に切り替わったリオナさんがアイリーンを宥めていた。
「じゃあ、本当に婚約者役として! 役だけでいいわっ」
「―――そうであっても、貴族の婚約者として参加されるのです。社交の場でダンスくらいは踊れなければ不自然でしょう。ジャック様に舞踏の嗜みがあるのでしょうか?」
「そんなもの、数日練習すればできるようになるでしょ!」
俺やシアの事は置いておいて、アイリーンとリオナさんは2人で言い合いをし始めていた。リオナさんは冷静に努めていたが、聞き分けのない妹分を宥めるのも限界で怒りが爆発しかけていた。
アイリーンはとうとう、涙を溢していた。
泣いて懇願している。
俺はその論争の頃合いを見計らって、一言だけ口を挟んだ
「ちょっと考えさせてくれ」
「え……!」
アイリーンの表情はパァっと明るくなった。
期待を込めた目を輝かせて俺を見つめている。
「ちょっと、ジャックっ!」
そこに文句を言わんとばかりに立ち上がったのはダイニングテーブルに座るリンジーだった。事の成り行きを見守っていて、流れが変わったことに腹が立ったのかもしれない。
リンジーは俺の煮え切らない態度を許せないと思っている。隣にシア・ランドールという女がいながらも、こうして向かいの見目麗しいご令嬢のことを最後まで切れないところが男として間違っていると言いたいようだ。俺がこうして婚約者役を引き受ける事は、さらなる誤解を生む事になると感じたのだろう。
「ジャック、わたしの婚約者になってくれるのねっ?」
「だから、考えさせてくれ」
俺は両親に会いたい。
色んな事に遠慮して、自分の考えが足りなかったのはこれまでの反省点だ。流されるままに行動しても良いことはない。
何も成し得ないんだから。
シアにもリンジーにも、ちゃんと事情を話せばわかってもらえるはず。
「ジャック様……ひとまず私たちはこれにて失礼いたします。お嬢様のお願いを検討して頂くのは嬉しい事ですが………よくお考えになられてからの方がよろしいかと存じます」
突如として話を区切り、「それでは」とリオナさんはアイリーンを無理やり引っ張ってリベルタ邸を立ち去ろうとした。急に俺が前向きに考え始めて焦っているようだ。リオナさん個人の考えではアイリーンの為にも俺と良い関係になるのはよく思ってないという事は分かった。
それはそれでいい。
俺もそれを望んでいるわけじゃない。
「また返事を聞きに来るわっ! 大好きよ、ジャック!」
首根っこを引きずられながら、アイリーンはその場から立ち去った。俺は玄関先で無理やり馬車に乗り込まされるアイリーンを見送り、そして扉を閉めた。
―――バタンと閉まる扉。やけに家の中は静かだった。
「……ふー……」
俺はゆっくりとそのリビングの方に振り返った。そこにいたのは目を吊り上げて怒りを露わにするリンジーと、無表情だがどこか悲しげに佇むシアの姿だった。
さて、どう説明したものか。
もう事情を説明した方がいいかもしれない。
俺が、イザイア・オルドリッジの息子であるということを。




