第七話 夢と現実の狭間で
ふと目を開けるとフィーナは水の上に立っていた。
足元から水の波紋が幾度も広がり、彼方に見える闇に溶ける様に消えていく。
寒くも温かくもなく、音も無く風も無く、自分と水面以外動くものは見当たらない。
―――どこだろう、ここ。
水の上に立っているというのに不思議と疑問も恐怖も感じない。
ただ、見下ろす自分の身体が透けている事が寂しく、切なく思えた。
―――だれか、いませんか?
果ての見えない空間に向かって問いかけてみたが予想通り返事はなく、もう一度周りを見渡してから足を一歩踏み出してみる。
触れた足裏からはまた新しい波紋がいくつも広がり始めるだけで、身体が沈むわけでも水面が大きく揺らぐわけでもない。
触れているはずの足裏にも水の感触は感じられず、冷たささえももなかった。
どうしようと考えあぐねていると、どこからか神妙だが軽やかな声が聞こえてきた。
「ここに来てはだめよ。」
―――え?
突如聞こえた女の人の声に辺りを見回すが、誰もいない。
「上よ、上。」
―――上?
声に従って上を見ると、遥か上空に丸い穴がぽっかりと浮かんでいた。
穴の向こう側が明るいせいで声の主の姿は光に溶けて見えないが、微かに笑い声が聞こえてくるからあそこに誰かいるのは間違いないだろう。
―――あなたは誰?ここはどこですか?
問われたその人は笑うのをやめて楽しそうな声で答えてくれた。
「私はここの守人。ここは聖なる神域。さしずめあなたは侵入者ってところかしら。」
大人びた話し方をしているけれど、声の高さはまだ幼い子供のもので違和感を感じずにいられない。
侵入者と呼ばれた事は自覚がないだけに納得がいかないけれど、声の調子からして彼女が怒っていない事がわかる。
―――ごめんなさい。気づいたらここにいて、どうやって来たのかも出るのかもわからないの。ここから出してもらえませんか?
「……呼ばれたのね。」
―――え?
「…いいえ。あなたの意思で来たのでないなら、しょうがないですね。帰して差し上げます。」
―――ありがとう!。
ポツリと呟かれた言葉は私の耳には届かなかったけれど、帰してくれるという言葉でささやかな疑問は吹き飛んでしまった。
誰かわからないけど帰してくれるというのだから悪い人ではないのかも。
満面の笑みで感謝を言うと、コロコロと鈴の音を鳴らすように軽やかに笑われてしまった。
どんな子なんだろう。
フィーナの中では可愛らしい、けれど大人びた10歳くらいの女の子のイメージが出来つつあった。
助けてくれるというのだから、何か引き上げてくれる縄を下ろしてくれるとか他の出入り口を教えてくれるとかを想像していたのだけど、上を見上げているフィーナの元にシャボン玉のような半透明で虹色に輝く小さな球がふわりと降りてきた。
―――??
その球は重力とは関係なく、操られているように目の前にすっと降りてくると一気に膨れ上がってフィーナの身体を包み込んでしまった。
―――わっ!!
未知なものに包まれて驚いたけど、おそるおそる手を伸ばして中から球に触れるとすべすべとした感触が伝わってくる。
シャボン玉のように触れたらパチンと壊れてしまうかと思いきや存外に頑丈なものらしい。
「今はまだ、ここに来る時期ではないの。…時が来たら招待状を送りますね。」
ほのかに球が光りだす。
「また会いましょう。フィーナ。」
―――なん…!!
で私の名前を知ってるの?と続くはずだった言葉は割れるように弾けた球と同時に宙に消えた。
気づいた時には私の意識は現実に戻っていて、今体験した事の現実味の無さを実感する。
(あれ………………夢?)
行った事のない場所だったけど不思議と懐かしさを感じる場所だった。
あの女の子(女の人?)も私の事知ってるようなこと言ってたし。
本当にまた会えたらいいけど…。
思い返しているとだんだん意識がはっきりしてきたので、ゆっくりと目を開けてみる。
視界が塞がれていてもいまだ荷馬車の中にいて、時折雑に揺れる振動から街中を走ってないのだとわかる。
(今どのへんだろう。どのくらい眠ってたのかな。)
そんなに長く眠った気はしないけど実はもう真夜中だったりしたら冷や汗ものだ。
馬車の中の様子だけでも知りたくて、頭に被せられている布袋をそっと取ろうとしたらゆっくりと馬車が止まった。
(どこかに着いた?)
どうやら目的の場所についたらしく、中にいた男達が足音荒く出て行く音がする。
やっと馬車が止まったのは新緑の香りを強く感じるところで、鳥の声も街中より多い気がした。
私も外に出して欲しくて布袋の中できょろきょろしていると、頭に被せられていた布袋がいきなり抜き取られる。
「わっ!」
驚いて見上げた先に布袋を投げ渡してきた四人目の男が立っていた。
呆ける私の膝の上から箱を取り上げると腕を掴まれて乱暴に身を立たされる。
「出ろ。」
「きゃっ!」
腕を掴まれたまま引きずられるように馬車の外に出されるが、暗闇に慣れた目に外の光はつらい。
ついでに掴まれた腕も痛い。
女の子なんだからもう少し優しく扱えないの!?
男にムカつきながらも、とりあえず状況を把握しようと周りを見渡す。
やっぱりまだそんなに時間は経っていないみたい。太陽が昇りきっていないし、森の香りにも朝露の匂いが残ってる。
目の前にある大きなお屋敷も森に囲まれてはいるけれど、続く道はある程度整備された道だから街からもそんなに離れてはいないはず。
だからといって歩いて簡単に帰れる距離でもなさそうだけど…。
逃げた場合の逃走方法を考えて溜息がでる。
馬でも奪わなきゃダメかな。
「ほら、歩け!」
止まって考え込んでいた私を歩かせようと男が腕を引く。
(ムカッ)
パンッ!!
我慢も限界で、女性への礼儀知らずな男の手を振り払ってしまった。
男は怒って何かを言おうと口を開いたが、それよりも前に男の目を睨んだまま口元に微笑を浮かべ普段よりも低く冷たい声に怒りをこめて話す。
「失礼。子供ではないのですから腕を引かれずとも自分で歩けます。それにその箱も私がもちましょう。鍵を四つもかけるほど繊細なものが入っています。あなたが持っていって、万が一依頼主という方が中身の損傷をあなたのせいにしてもお嫌でしょう?」
問われた男は威圧する話し方と、正論を問う内容に口ごもり迷っている。
「道もわからずこんなところに連れて来られて、今更逃げ出そうなんて思ってませんから。」
言いながら男の手から箱を取り返す。
そのまま屋敷の入り口へ歩き出すと、男が焦った声を出して追いかけてきた。
考えたところでなるようにしかならないし、この人たちの事を知ってから計画を立てよう。
まだ時間はあるみたいだし、アステルやレインもきっと助けに来てくれる。
それまでに情報を手に入れて、出来ることはやっておかなくちゃ。
荷馬車の中で軽く睡眠をとって気分がすっきりしたのか、変にやる気に満ちていた。
この時、城のみんなの助けを黙って待つという選択肢はまったく私の中にはなかったのだった。