婚約破棄してくれたので、ようやく好きに生きられます
「エレノア・ベルモント! お前との婚約を破棄する!」
王都の劇場で開かれた春の夜会。
伯爵令嬢である私は、婚約者のロベルトから大勢の貴族たちの前でそう宣言された。
彼の隣には、可憐な顔立ちの男爵令嬢、リリアが寄り添っている。
「私はリリアを愛している。お前のように愛想もなく、何を考えているのか分からない女とは暮らせない」
会場がざわめいた。
なるほど。
私は三秒ほど考えてから、そのまま優雅に一礼した。
「承知いたしました」
「……は?」
「婚約破棄ですよね、かしこまりました。謹んだお受け致します」
ロベルトは拍子抜けした顔をした。
てっきり私が泣き叫び、彼に縋りつくと思っていたのだろう。
残念ながら、その期待には応えられそうにない。
──なぜなら、私は喜んでいるのだから。
ただ。
一つ言っておくことがある。
ぽかんとしている彼に告げる。
「ただし、ロベルト様」
「……なんだ。今さら謝っても遅いぞ」
「いえ。ひとつお願いがございます」
「お願い?」
「──今後、私をあなたの婚約者だった女性として紹介しないでいただけますか?」
ロベルトは眉をひそめた。
リリアも困惑している。
「どういう意味だ」
「そのままの意味です。そこだけお願い致しますね。
……では、あなたのお隣に立つ役目を、ただいまをもってお返しいたします」
私はもう一度礼をして、その場を離れた。
すると、背後からロベルトの嘲笑が聞こえた。
「負け惜しみを! お前には俺以外に相手などいないだろう!」
そのとおりかもしれない。
だって今の今まで婚約者が居たのだから。
普通は居ないだろう。
……あなたは、いらっしゃいましたがね。
けれど、それは今日までの話だ。
少なくとも、私はもう彼の隣に立つためにドレスを選ぶ必要がない。
それだけで、明日が少し楽しみになった。
◇
翌朝、母は朝食の席で頭を抱えていた。
父は既に相手の家に話を聞きに、早々に出て行った。
「エレノア、あなた、本当に婚約を破棄されたの?」
「ええ。大勢の方がいらっしゃるところで」
「どうして止めなかったの!」
「……止める理由がありませんでしたから」
「あなたという子は……!」
母の言いたいことは分かる。
ベルモント伯爵家にとって、ロベルトとの婚約は悪い話ではなかった。相手は公爵家の嫡男で、家柄も財産も申し分ない。
ただし、それは彼がまともな結婚相手であった場合の話だ。
「お母様。私はロベルト様と結婚したくありませんでした」
母が言葉を失った。
……今更そんな表情をするんですね。
散々、説明したんですけれどね。
あなたは「忙しいから」と言ってまともに取り合ってくれませんでしたけれど。
母がゆっくりと喋り出す。
「……あなた、そんなことを思っていたの?」
「はい」
「でも、婚約者なのだから、一緒にそういうところも考えないと──」
「存じております」
私は母の話を遮ってから、紅茶を一口飲んだ。
ロベルトは、私が笑えば「媚びている」と言い、黙っていれば「陰気だ」と言う人だった。
私の選んだ服は地味だと笑い、流行の服を着れば浪費家だと責めた。
彼が望む女性像は、彼自身にもよく分かっていなかったのだと思う。
だって言っていることが矛盾だらけだったから。
そんな相手と一生暮らすくらいなら、婚約破棄のほうがずっとましだ。
「ですが、今後の縁談はどうするのです?」
母は心配そうに尋ねた。
「しばらく結婚は考えません」
「そんな悠長な!」
「──今はそっとしておいてくれませんか?
私も『忙しい』ので」
母は口をつぐんだ。
少々意地悪だったかもしれない。
けれど、私の人生について、私以外の誰かが決めるのはもう終わりにしたかった。
◇
それから半月後。
私は友人のマリアンヌに誘われ、王都の小さな菓子店を訪れていた。
そこで、思いがけない人物と再会した。
店に入ろうと、取っ手に手をかけた所だった。
「エレノア?」
ロベルトだ。
隣にはリリアがいる。
彼は私を見るなり、露骨に顔をしかめた。
「こんな店に来ているのか。相変わらず地味──」
「こんにちは、ロベルト様」
私は彼の言葉を遮って挨拶だけした。
その後、店に入ろうと扉を開けたら、どこか苛立ったような表情をしたロベルトが更に話しかけてくる。
「……お前、俺に未練はないのか?」
何を言い出すのかと思ったら。
「ございませんが」
「強がるな。俺ほどの男を逃したんだぞ?」
私は思わずマリアンヌと顔を見合わせた。
彼女は私と彼が話し始めた段階で空気に徹していたが、目を合わせてみると、口元を押さえて震えていた。
「ロベルト様。婚約を破棄したのはあなたです」
「だからといって、すぐに忘れる必要はないだろう!」
「忘れるというより、もともと楽しい思い出が少なかったものですから」
リリアの笑顔が引きつった。
ロベルトは顔を赤くした。
「お前、言わせておけば……!」
「ロベルト様」
リリアが彼の袖を引いた。
「もう行きましょう。私、こちらのお店のお菓子は好きではありませんの」
「そうか。では別の店に行こう」
彼はすぐに機嫌を直し、リリアを連れて出ていった。
その背中を見送って、私はため息をついた。
「……あの人、本当に変わらないわね」
マリアンヌが肩をすくめる。
「変わらないからこそ、あなたは別れられてよかったのよ」
まったく、そのとおりだ。
◇
ところが、ロベルトの不運はそれで終わらなかった。
さらに一か月後、マリアンヌから聞いた話では、リリアは彼との交際をやめたという。
理由は単純だった。
彼女が新しいドレスを欲しがれば、ロベルトは「無駄遣いだ」と叱る。
自分が友人と飲みに行けば、彼女が不満を漏らしても「男の付き合いだ」と譲らない。
自分の都合は通すくせに、相手の希望は認めない。
それがロベルトという人間だった。
リリアは、彼が私にしていたことを、自分がされて初めて理解したのだろう。
彼女は彼に別れを告げ、別の男性との縁談を進めているらしい。
そしてロベルトは、何故か私のもとへ手紙を送ってきた。
そこにはこう書かれていた。
もう一度、話がしたい。
あのときは感情的になっていた。
君の良さを理解できるようになった。
そんな言葉が並んでいた。
私は手紙を読み終え、封筒に戻した。
返事は書かなかった。
彼の言葉が本心かどうかなど、私には関係がない。
彼が変わったのだとしても、それを確かめる義務は私にはなかった。
◇
夏の初め、私はマリアンヌと一緒に海辺の町へ旅行に出かけた。
婚約者がいたころは、旅行先ひとつ決めるにもロベルトの顔色をうかがっていた。
今は違う。
行きたい場所へ行き、食べたいものを食べ、疲れたら休む。
そんな当たり前のことが、こんなにも楽しいとは知らなかった。
「エレノア、あなた、最近よく笑うようになったわね」
海を眺めながら、マリアンヌが言った。
「そうかしら?」
「ええ。婚約していたころは、いつも少しだけ困った顔をしていたもの」
私は波打ち際を歩きながら考えた。
ロベルトと結婚していたら、今ごろ私は何をしていただろう。
彼の機嫌をうかがい、彼の望む妻を演じ、彼が満足するまで自分を削っていたのかもしれない。
もちろん、結婚そのものが悪いわけではない。
誰かと人生を歩むことは、きっと素敵なことだ。
ただ、その相手はロベルトではなかった。
「ねえ、マリアンヌ」
「なあに?」
「帰ったら、新しいドレスを仕立てたいわ」
「いいじゃない! 今度はどんな色にするの?」
「そうね……」
私は海を見つめた。
「誰かに似合うと言われるためではなく、私が好きな色にするわ」
マリアンヌは笑った。
私も笑った。
婚約破棄された女に、輝かしい未来が約束されているわけではない。
次の結婚相手がすぐに見つかる保証もない。
けれど、少なくとも私は、自分の人生を誰かの許可なしに選べるようになった。
それだけで十分だった。
ロベルト様。
あなたは婚約を破棄して、私を捨てたつもりだったのでしょう。
でも、ひとつだけ教えて差し上げます。
あなたの隣に立つ役目を失ったのではありません。
私は、自分からその役目を辞めたのです。




