白い結婚の食卓で三度夕食を断られた新妻の献立札は、侯爵が待ち続けた恋文でした
「下げてくれ。今夜は食べない」
私の両腕に、焼きたての若鶏一羽分の重みがのしかかった。
皮は飴色、腹には香草、切れば肉汁が流れる。奥様が厨房へ三度も足を運び、旦那様の古傷に障らぬよう香辛料まで減らした、結婚後初めての夕食である。
それを、食べない。
では、この鶏は誰が責任を取るのだろう。私ではない。たぶん。
「奥様がお待ちです」
「同席も断ってくれ」
長卓の上座に立ったまま、旦那様は正面の椅子を見なかった。
そこは奥様の席だ。磨いた皿、左側へ寄せた杯、まだ折り目の硬い真新しい卓布。用意だけは完璧で、座る人だけがいない。
「理由をお伝えしても?」
「待っている人以外の食事は受け取れない、と」
結婚三日目の夫が妻へ運ばせる言葉としては、かなり良い切れ味である。鶏を切る大包丁にも見習わせたい。
私は盆を持ち直した。その拍子に、皿へ添えてあった小さな献立札が滑った。
若鶏の香草焼き。蕪の薄いスープ。焼き林檎。
料理名の下に、細い字が二行。
『右腕を高く上げさせないこと。杯は左へ』
差出人の名はない。
旦那様の手が伸びた。
「それは置いていけ」
「お料理は?」
「下げてくれ」
鶏は拒み、札だけ胸元へしまった。
これは冷遇である。しかも献立札だけ回収するという、厨房には理解しにくい種類の冷遇だ。奥様の字を後で赤く添削するおつもりか。そんな趣味なら鶏を食べてからにしていただきたい。
私は料理を食堂の外へ運んだ。扉脇で待っていた奥様は、戻ってきた鶏を見て、ほんの少し顎を引いた。
「旦那様は」
「待っている方以外のお食事は受け取れない、と」
「そう」
奥様は笑った。
「では、明日は少なくしましょう」
ご自分の席へ着くと、皿から鶏肉を半分、給仕皿へ戻した。
「奥様まで減らしてどうなさいます」
「私だけ多くいただくのも、落ち着かないもの」
「空かない皿が二枚になるだけです」
「ハイケは正しいわね」
正しいなら食べてほしい。
奥様は蕪のスープを三口飲み、焼き林檎には触れなかった。
料理長は戻った鶏を見て、「温め直しは一度まで」とだけ言った。その横で菓子係が焼き林檎を見つめている。
私は言った。
「その菓子を食べないなら私が困ります」
半分もらった。
冷えた夫婦仲から得た最初の利益である。林檎は甘かった。ちっとも勝った気はしなかった。
* * *
二度目に戻されたのは、白身魚の包み焼きだった。
一度目と同じ廊下を通り、一度目と同じ扉を押し、一度目と同じ旦那様へ差し出した。違うのは料理と、旦那様の目の下に増えた影である。
「奥様が、香辛料と油を減らされました。こちらなら胃にも——」
「食べない」
早い。魚が包みを開かれるより早い。
「昨夜もお食事を抜かれたと伺いました」
「ザロメは」
「はい?」
「妻は食べているのか」
「召し上がっています」
嘘ではない。量を聞かれていないだけだ。
旦那様は盆ではなく、私の顔を見た。
「どの程度だ」
そこまで聞きますか。嫌いなら放っておけばいいのに。
「以前の半分ほどです」
旦那様の指が卓上を一度叩いた。
「今夜は食べさせろ」
「旦那様のお言葉として?」
「私の名は出すな」
面倒くさい!
同じ屋敷の同じ食卓まで、伝言に匿名性を求めないでほしい。侯爵家の給仕係は、すれ違う善意を盆に載せて運ぶ職ではない。少なくとも雇用時には聞いていない。
旦那様は魚を戻した。それでも献立札には手を伸ばす。
『白身魚は蒸気を逃がしてから。杯は左へ』
その一文を見た途端、札を持つ指が止まった。
「この言葉は、誰が考えた」
「奥様です」
「先代夫人の書き残しを写したのではないのか」
「さあ。ズザンネ様から教わったことはおありかもしれません」
旦那様の顔から色が引き、次いで、きつく眉が寄った。
「そうか」
札はまた胸元へ入った。
魚は戻ってきた。
料理長は包みの端を押さえ、「これは温め直せる」と言った。よかった。夫婦仲は直らなくても魚は直る。
奥様へ報告すると、今度は旦那様のことを尋ねられた。
「昨夜は、何時間お休みになったの」
「寝台へ入られたのは夜半です。灯りが消えたのは明け方前でした」
「二時間もないわね」
奥様は左手でご自分の袖口をつまんだ。
「次は、もっと消化のよいものにします」
「またお作りになるのですか」
「食べられない方へ、食べられない料理を出し続けるわけにはいかないでしょう」
「旦那様は奥様の皿を増やせとおっしゃいました」
袖口をつまんでいた指が止まる。
「……そう」
「ただし、ご自分の名は出すな、と」
「そう」
「お二人とも、まず同じ部屋で相談していただけませんか」
奥様は答えず、白身魚を一口だけ召し上がった。
その夜、奥様の皿は半分残り、旦那様の寝室では朝まで灯りが消えなかった。
そして三度目の夕食には、とうとう旦那様が食堂の扉で膝をついた。
* * *
「旦那様!」
食堂の扉へ駆け寄ったとき、旦那様の片膝はもう床についていた。
指が扉の縁をつかみ損ねる。肩が壁へ当たり、ずるりと身体が傾く。私は盆を卓へ投げ置き、腕を伸ばしたが、一歩足りない。
正面の扉から入ってきた奥様が、先に旦那様の身体を受け止めた。
「アルノルト様。私の声が聞こえますか」
「……食事を」
「今は返事だけで結構です」
奥様の腕は細い。旦那様を支え切れるはずもないのに、膝を床へつき、倒れる向きだけを変えた。右肩が床へ打ちつけられないよう、ご自分の腿へ頭を預けさせる。
「ハイケ、椅子を。背の低いものをこちらへ。呼びに行く前に、窓を閉めて」
「はい」
「水差しではなく、ぬるい湯を。杯は取っ手のないもの」
「はい!」
私は走った。
何しろ、二晩食事を拒んだ人が、今夜の粥を前に倒れている。驚きはした。だが同時に、鶏と魚と今夜の粥が、そろって犯人の顔をして脳裏に並んだ。食べないからです、旦那様。厨房一同の総意です。
窓を閉め、椅子を運ぶ。奥様は旦那様の上着の釦を外し、ご自分の袖を肘までまくった。留め具を口にくわえ、片手で髪を後ろへ払う。
白い手が旦那様の手首を取った。
二本の指が、内側へ触れる。
押し込まず、離れず。
旦那様の閉じかけていた目が、その指へ向いた。
「速いわ。熱もあります。ハイケ、もう一脚。右ではなく左へ置いて」
私は椅子を旦那様の左側へ寄せた。
奥様は旦那様の背へ腕を差し入れた。右肩には触れない。左の脇だけを支え、少しずつ身体を起こす。旦那様の右腕は膝へ載せたまま、肩を動かさず、椅子へ移した。
一手。
息を待つ。
もう一手。
旦那様の踵が床へつくまで待つ。
「杯を」
渡すと、奥様はご自分では飲ませなかった。旦那様の左手を取り、その掌へ杯を置き、底だけを支えた。
「一口でよろしいです。急がずに」
旦那様が喉を鳴らした。
湯が半分に減る。
「もう一口」
「ザロメ……」
「喉へ入ってからお話しください」
これは給仕係として支持したい。食べながら話す方は多いが、飲み込めない方の演説は聞く側の寿命を縮める。
旦那様は二口目を飲んだ。奥様はそこで杯を離した。もっと、と言われても渡さない。
「空腹のあとに一度に入れると戻します。今夜は粥を薄くしましょう。乳は使わず、塩も半分に」
奥様は私を振り返った。
「紙と筆をお願い」
厨房へ走らせるためではない。卓の端に用意していた献立札を取り、奥様はその場で書き始めた。
米の薄粥。白身魚のほぐし身を匙に半分。柔らかく煮た蕪。
紙を押さえる左手が、わずかに震えていた。筆は止まらない。
『右肩を起こさず、杯は左へ。三口ごとに息を待つこと』
「蕪は潰しましょうか」
私が尋ねると、奥様は旦那様の顔を見た。
「噛む力はありそうです。細かく刻むだけで」
旦那様は奥様ではなく、札を見ていた。
正確には、最後の一文字。その払い。
胸元へ手を入れる。最初の夜の札、二度目の札、そのほかにも古びた紙片が数枚、引き出された。
古い札は何度も開かれたらしく、角が丸い。新しい札と並べると、旦那様の人差し指が文字の一画に触れた。
奥様がもう一度、旦那様の手首へ二本の指を置く。
旦那様の目が、その指から顔へ、顔から札へ戻った。
一往復。
奥様が脈を数える。
二往復。
左側に置かれた杯の水面が、小さく揺れる。
三往復目で、旦那様の息まで止まった。
「息をなさってください」
奥様が言った。
旦那様は大きく息を吸い、咳き込んだ。
「この指……」
「動かないで」
「昔も、そうした」
奥様の指先が一度だけ脈を外れ、すぐ同じ場所へ戻った。
「熱のある方は、似た脈を打ちます」
「杯も左だった」
「右肩がお悪い方へ、右からお渡しはしません」
「三口ごとに、息を待てと」
奥様は答えなかった。
旦那様は古い札を一枚、新しい札の横へ置いた。名前はどちらにもない。料理と、身体の扱い方だけが書いてある。
「療養中、ズザンネがこれを運んできた。書いた者は名を明かしたくないと言っている、と」
「はい」
「私は礼を言うために探していた。何年も」
「存じています」
「なぜ、君が知っている」
奥様の唇が開き、閉じた。
旦那様はその顔を見上げた。熱で赤かった頬から、今度は血の気が引いていく。
「ザロメ」
「まず、お食事を」
「君なのか」
返事はない。
けれど奥様の二本の指は、旦那様の手首から離れなかった。
鶏と魚が、頭の中でもう一度、食堂から戻ってきた。
なんという豪快な自爆。犯人は旦那様ご本人である。
食堂へズザンネ様が入ってきた。私が医師を呼びにやった小間使いから話を聞いたらしい。老女官は旦那様の前に並ぶ札と、奥様の二本の指を見た。
「ズザンネ」
「はい」
「これを書いたのは」
旦那様はそれ以上を言えなかった。
ズザンネ様は奥様を見た。奥様が目を伏せる。そこで初めて、ズザンネ様は小さく頷いた。
「ようやく、ご本人へお礼が言えますね」
旦那様は札へ目を落とした。
古い紙を持つ指が震える。
「なぜ、教えなかった」
「名を出さない約束でした」
「婚姻が決まったあとも?」
「ご本人の了承はいただいておりません」
ズザンネ様の声は穏やかで、それだけだった。
旦那様は奥様を見ようとした。
目が途中で止まった。
札へ戻る。
もう一度上げかけて、今度は左側の杯へ落ちた。
待ち続けた恩人を、自分で二晩も食卓から追い出した男の顔は、熱だけでは説明できない赤さになっていた。
私は笑わなかった。今はまだ。
「ハイケ」
奥様の声で、私は背を伸ばした。
「厨房へ。粥をお願いいたします。お医者様が来るまでは三口だけ」
「魚は?」
「今夜は使いません」
「蕪は?」
「細かく」
「塩は半分」
「ええ」
料理は待ってくれない。
私は札を受け取り、食堂を出た。
扉を閉める直前、旦那様の声がした。
「ザロメ。君は、私と知っていて婚姻を」
「そのお話は、食べたあとになさってください」
今度こそ、厨房一同の総意だった。
* * *
薄粥を三口召し上がった旦那様は、医師に寝室へ押し込まれた。
奥様は寝台の右側へ回らず、左から杯を渡した。旦那様はそのたび、杯より奥様の指を見ていた。見すぎて飲むのを忘れるので、私は三度、咳払いをした。
「奥様はお休みください」
夜半を過ぎた頃、旦那様が言った。
「熱が下がったら」
「私はもう平気だ」
「先ほど立てなかった方のお言葉とは思えません」
「……君も食べていないだろう」
奥様の手が、湯で濡らした布の上で止まった。
「ハイケ」
「はい」
「奥様の夕食は」
「薄粥を二口です」
奥様がこちらを見た。だが量を正確に報告するのは給仕係の務めだ。夫婦の秘密より食事量。ここは譲れない。
「二口」
旦那様の声が低くなる。
「三口です」
「いま増えましたね」
「これからいただけば三口です」
「では、私も四口目を食べる」
「旦那様は医師の指示が三口までです」
「ザロメが食べるなら——」
「交渉材料にしないでください」
奥様が薄粥の椀を持ってきて、寝台脇の椅子へ座った。
一口。
旦那様が見ている。
二口。
奥様が旦那様を見返す。
三口。
ようやく旦那様は枕へ頭を戻した。
嫌い合っている夫婦だと思っていた。実際は互いの食事量を人質にしていた。どちらが扱いやすいかといえば、鶏のほうである。
翌朝、熱が下がると、旦那様は食堂へ出ると言い張った。
医師と奥様と私の三人で止め、昼まで寝かせた。昼食には柔らかい蕪と粥を五口。奥様も隣室で同じものを五口。夜にはそれぞれ一椀を空にした。
その次の朝、旦那様は自分の足で食堂へ来た。
奥様の席は、長卓の正面にある。結婚初夜から、ずっとそこだった。
旦那様は椅子の背へ手をかけた。
「ハイケ、手を貸してくれ」
「まだ重い物はお止めしたほうが」
「だから頼んでいる」
二人で椅子を持ち上げる。
「どちらへ?」
「ここへ」
旦那様は自分の右隣を示しかけ、肩を見て、左隣へ変えた。
杯を左へ置かれる人の隣なら、奥様はそのまた左がいい。やっと食卓の配置まで話が通じ始めたらしい。
奥様が食堂へ入り、動かされた椅子の前で足を止めた。
旦那様は立ち上がろうとして、奥様に肩を押し戻された。
「座ったままで」
「しかし」
「熱が戻ります」
「では、座ったまま言う」
旦那様は奥様の顔を見上げようとした。
また途中で目が落ちる。
昨夜からこれである。待ち続けた方が目の前にいるのに、まともに顔を見られない。匿名の恩人への一途さを貫いた結果、その恩人本人を拒絶したのだから当然かもしれない。忠義が丸ごと自分の足へ刺さっている。
「私は、待っていた人を食卓から追い出していた」
旦那様の手が、椅子の背を握った。
「料理を返し、君を一人で座らせ、眠らせなかった。礼を言う資格も、許しを求める資格もない。だが、まず謝らせてほしい」
奥様は動かない。
「申し訳なかった」
「私も、名乗りませんでした」
「約束があった」
「それだけではありません」
奥様は隣へ移された椅子を見た。
「昔の恩を使って、婚姻を得たと思われたくなかったのです」
「私はそんなことを——」
「思わないと、私は知りませんでした」
旦那様の口が閉じた。
奥様は胸元から今朝の献立札を出した。
「それに、昔の献立は昔のものです。今のアルノルト様には、今のお身体に合うものが必要です」
札には、熱が下がったあとの食事が細かく書かれている。
油を戻すのは明日から。肉は刻む。右肩がこわばる朝は、皿を左へ寄せる。
札の墨は、まだ指につきそうだった。
旦那様はそれを両手で受け取った。
「これも、もらってよいか」
「召し上がるなら」
「食べる」
「眠ることも」
「眠る」
「お医者様のお許しが出るまで、お酒は」
「飲まない」
ずいぶん素直になった。発熱には人を正直にする効能があるらしい。薬瓶へ書くには長いのでやめておこう。
奥様はまだ座らなかった。
スープ椀を取り、旦那様の前へ置く。湯気が二人の間へ上がった。
「まず、温かいうちに」
旦那様は匙を取った。
一口飲む。
奥様が見ている。
二口目。
旦那様は空いていた左隣の椅子を見た。
「ザロメ。ここへ座ってくれないか」
「三口目を飲んだら」
旦那様はすぐに飲んだ。
奥様が隣へ座る。
その朝、二人の皿は初めて同時に空になった。
食後、旦那様は寝室へ戻り、昼まで眠った。奥様も自室へ下がり、昼の鐘まで起きなかった。
昼の鐘まで、廊下を歩く者はいなかった。
厨房では料理長が三晩分の献立を並べ、温め直しの順を考えていたからだ。
* * *
旦那様が厨房へ現れたのは、熱が下がって三日目の夕方だった。
「三晩分の料理を出してくれ」
料理長は包丁を止めた。
「若鶏は焼き直します。魚は包みごと温め直します。粥は鍋へ移します」
「同じ献立にしてほしい」
「三皿とも召し上がるおつもりで?」
「私が運ぶ」
厨房の全員が旦那様の右肩を見た。
旦那様は少し小さな声で付け足した。
「運べる重さに分けてくれ」
成長である。
一皿目は若鶏の香草焼き。
旦那様は自分で厨房から運び、食堂で蓋を開けた。奥様は左隣に座っている。私は二人の後ろへ控えた。
「最初の夜、君が考えた料理を、理由も聞かずに返した。申し訳——」
「旦那様」
「なんだ」
「お口に物が入っています」
若鶏を飲み込んでから、旦那様は言い直した。
「申し訳なかった」
「はい」
奥様は承諾ではなく、鶏肉をもう一切れ旦那様の皿へ載せた。
二皿目は白身魚の包み焼き。
旦那様は厨房へ戻り、温めた皿を運び、包みを開いた。湯気を逃がしてから、魚を口へ入れる。
「二度目の夜、君の食事を案じながら、自分の食事を拒んだ。私は——」
「謝罪は噛み終えてからどうぞ」
旦那様が黙って噛んだ。
一回。
目を伏せる。
二回。
奥様を見る。
三回。
飲み込む。
「私は、愚かだった」
「存じています」
奥様の一撃は、香辛料よりよく効いた。
旦那様は真っ赤になって、次の魚を口へ運んだ。反論しない。侯爵家の食卓に、ようやく平和が訪れつつある。主に咀嚼によって。
三皿目は、三度目の夜に食べ損ねた蕪と白身魚の粥だった。
今度は旦那様が厨房で鍋を火へかけた。料理長の指示どおり、底を焦がさぬようゆっくり混ぜる。奥様の分も別の椀へよそう。
「これは君も食べていない」
「三口はいただきました」
「二口から増えた三口だろう」
「覚えていらしたのですね」
「忘れられると思うか」
旦那様は二つの椀を盆へ載せた。ご自分の右肩をかばい、左腕へ重みを寄せる。
「私がお持ちします」
「いや。これは私が運ぶ」
食堂へ戻ると、旦那様は奥様の椀を先に置いた。杯は左。匙は取りやすい向き。三晩目に奥様が動かしたとおりである。
二人で粥を食べる。
旦那様が一口。
奥様が一口。
また旦那様。
皿の底が同時に見えた。
「三度目の夜、君に支えられた。昔も、今も」
旦那様は匙を置いた。
「礼だけでは足りない。謝罪だけでも足りない。だから、これからの食事を私に分けてほしい」
奥様の指が椀の縁へ触れた。
「婚姻を、最初から選び直したい。私の妻でいてくれと、改めて求めさせてほしい」
三皿目を前にして求婚を始めるのは構わない。
ただし厨房としては、冷める前に口を動かしてほしい。
幸い、皿はもう空だった。
奥様は旦那様を見た。それから、三枚並んだ空の皿を順に見た。
「返事は、明日の皿を空にしてから」
「明日の朝か」
「朝食とは申しておりません」
「では昼食か」
「さあ」
「夕食まで?」
奥様は笑った。
返事はしない。
そのとき食堂の扉が開いた。料理長が、柔らかく煮た根菜の皿を持って立っていた。
「三皿は胃に重いでしょうから、消化のよいものを追加します」
「追加?」
「四皿目です」
旦那様が私を見た。
私は料理長から皿を受け取り、旦那様の前へ置いた。
「厨房からです」
「いま求婚の返事を待っているのだが」
「こちらは待てません」
奥様が顔を伏せた。肩が揺れている。
旦那様は四皿目を食べた。
その夜はよく眠り、翌朝には、熱の前より顔色がよくなっていた。
私は朝食の支度を整え、奥様から新しい献立札を受け取った。
焼きたてのパン。卵。柔らかな葉野菜。温かい乳。
料理名の下には、短く一行。
『二人分』
承諾の言葉はない。
私は食堂へ運び、左隣に二人目の皿を置いた。旦那様は献立札を胸元へしまい、奥様の椅子を引く。
「ザロメ。これは返事と考えても?」
「まず、お皿を」
旦那様は席へ着いた。
昨夜四皿を空にした方の前へ、私は焼きたてのパンをもう一つ追加した。
返事が欲しいなら、朝食まで空にしていただこう。
厨房は恋より、焼きたてに厳しいのである。




