おれがドッペルゲンガー :約2000文字 :霊
「っ!?」
おれは思わず声を上げそうになった。
トイレのドアを開けたら、そこにもう一人おれがいたのだ。
ズボンを膝まで下ろし、便座に腰掛けたままこちらを見上げている。目をこれでもかと見開き、口をぽっかりと開けていた。きっと今のおれもまったく同じ表情をしているに違いない。まるで鏡を見ているかのようだ。
おれはそのままトイレの中に足を踏み入れた。
「……いや、なんで入ってくんだよ」
もう一人のおれがぼそりと言った。
おれは何も答えず、ドアを静かに閉めた。無意識のうちにそうしていたので、答えようがなかったのだ。
「おまえ、ドッペルゲンガーなのか……?」
おれはごくりと唾を飲み込み、そう訊ねた。芳香剤の甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐり、妙に現実感が増していった。
「いや、それはお前のほうだろ……」
もう一人のおれが震えた声で言った。
……やはりそうか。ドアを開けた瞬間に見せたあの呆けた顔。とても演技には見えなかった。そして、ドッペルゲンガーに会うと死ぬという話を思い出したのだろう。顔が青ざめ、膝は小刻みに震えていた。
おれがドッペルゲンガーなのだ――。
トイレに入る前の記憶が曖昧で、頭の奥に薄い靄がかかっているような感覚がある。だからこそ間違いなさそうだ。ということは……おれは消えるのか?
途端、背筋が寒くなり、ぶるりと震え上がった。「あ、あ、あ」と言葉になり損ねた声が勝手に喉から漏れた。
「な、何をする気だよ……」
もう一人のおれが怯えた声を漏らした。
おれが消える? 消えたらどうなる? 死ぬということか?
「で、出てけよ……頼むから……」
もう一人のおれが震えながら言った。おれが何かしてくると思っているのかもしれない。だが怖いのはこっちのほうだ。
消える。死ぬ。それはいつだ? このトイレを出た瞬間か? 消えたあと、おれはどこへ行く? またどこかに現れることはできるのか? そのドッペルゲンガーはおれなのか?
「ト、トイレ中だぞ……出てけよ……」
ああ、なんてことだ。じゃあ、おれは何のために生まれてきたんだ。
こいつがクソをしている姿を見届けるためか。ははは、まさにクソみたいな人生だ!
「な、何笑ってんだよ……やめろよ……ほ、ほら、おれ同士仲良くやろう。な? な?」
もう一人のおれが今にも泣き出しそうな声で言った。
さっきからうるさい。それにしても情けないやつだ。おれだったら……待てよ。
おれがこいつに成り代われないのか?
ドッペルゲンガーって、たしかそういう存在じゃなかったか。抑圧された欲望や押し込められた衝動が形になったものだとか。……よく分からない。知能や知識は本体に依存するらしい。だが可能性はある。
「はは、はは……そうだ、代わるか?」
もう一人のおれが引きつった笑みを浮かべ、腰を浮かせた。
「……ああ、そうだな」
おれはもう一人のおれをじろりと見下ろして答えた。
「あ、ああ。今どくから……」
「そういう意味じゃない……人生を代われ」
おれはもう一人のおれの首を掴んだ。もう一人のおれは仰け反り、背中を便器の蓋に強く打ちつけた。だがすぐに両手でおれの腕を掴み、抵抗してきた。
「やめろ!」
「お前が消えろ!」
「お、お前こそ出てけ! トイレ中だぞ!」
「まだ出してないだろ!」
「い、今から出す……とこ、なんだ……」
指が喉に食い込み、もう一人のおれの顔がみるみる赤く変わっていく。口の端から泡が滲み始めた。
ふと視線を落とすと、もう一人のおれのペニスはすっかり縮こまっていた。
おれはにやりと笑った。
「お前みたいに小さいやつより、おれのほうが――ぐっ」
もう一人のおれも片手を伸ばし、おれの首を掴み返してきた。喉を圧迫され、おれは小さく咳を漏らした。
「お前も……どうせ……小さい……」
「いや……お前のほうが……小さい……」
「お前……」
「お前……」
息が詰まり、言葉が出てこない。視界がじわりと白く濁り始めた――その瞬間だった。
突然、ドアが開いた。
おれたちは同時にそちらを見た。
そこに立っていたのは――おれだった。
今しがた帰宅したばかりなのだろう。肩から提げていたカバンがするりと床に落ちた。
次の瞬間、おれは自分が生まれた理由を悟った。
入口に立つおれのズボンの股間に、じわじわと染みが広がっていったのだ。そして、おれたちの体は薄れていき――




