20 師匠の薫陶は守らねばなりませんので
その錬金術師は、一か月だけの師匠だった。
けれど、私が珍しく親のように感じた人だったかもしれない。
そもそも私の両親は基本的には放置だった。
でも幼少期は、乳母がいた。
たぶん私の中の母親像は、乳母なのだと思う。
乳母は優しかった。
けれど、人からの紹介で雇ったことで、そこそこ発言権があったからこそ給料を削るわけにもいかなかったせいか、両親はうとましく思っていたらしい。
私が九歳ぐらいの時、乳母は解雇されて追い払われてしまった。
それから結婚するまでの間、なんとかやってこられたのは、最初は抵抗していた乳母が、とうとう最後の二年ほどはあきらめた末に、私に自力でなんとかするための力をつけさせようとしたからだと思う。
使用人達が減っていく中、乳母は古い実母のドレスや父の衣服をこっそり売り払い、私が使えるお金を作った。
乳母の給金は、外の人間から文句を言われるので手を付けられなかった分、私に対してはお小遣いがなくなっていったからだ。
そして、そのお金で店での買い物をすることを教えた。
さらには最後まで残っていた料理人に交渉し、簡単な料理を覚えさせることさえした。
「私はいずれ、追い払われてしまいます。その前に、少しでも食べ物と服を確保する術を覚えましょう。それがだめだった時のために、平民の生活を学んでおくのです」
乳母も貴族の出身だ。
だから平民の生活を細かくは知らなかったから、ほとんど二人で町の人の生活を見て、農民の畑を見学し、火の起こし方とか掃除の仕方とか、そういう物を覚えていった。
本に興味を持ったのも、乳母が高く売れると言ったからだ。
両親が気づいて本を売ってしまった後でも、食べ物に困窮しないように、自室に重要な本を確保するように言われたから。
そのためにも、高い本を選ぶための知識を与えてくれた。
物語は意外と欲しがる人が多いのだと聞いたのもその時。
どんな内容か知りたくて、乳母がいなくなった後も読み漁った。
おかげで、自分の知らない世界のことを沢山知ることができたのだ。
一方で、絶望もした。
自分は物語の中の人達みたいに、自由に駆け回ることなんてできない。
金策のため、自分を逃すわけがないからだ。
結婚させて、婚家からお金を引き出すための金蔓。
自分がそう思われているのだと、様々な本を読んで気づいた。
だから、お金がかかって邪魔な娘でも、捨てずにいるのだと。
そして余計なことをしたり、逃げたりしないように、むしろ何も教えないように家庭教師すら雇わなかったのだということも。
文字は乳母が教えてくれた。
歴史の手ほどきも。
初歩的な計算の方法も。
でも、乳母にできたのはそこまでだ。
彼女も、貴族の子女だったから。
「私が家庭教師ができるほどの知識を持っていたら、シエラお嬢様がこの家を建て直せるように導けたかもしれないのに……」
乳母がそんな風に、悔しがっていたのを知っている。
それは、収支計算や土地の税金のこと、法律のことまで覚えなければならないせい。
だから私は、乳母がいなくなった後でそういった本にも挑戦した。
ちょっとだけは読み進めることができた。
知識がないから、教えてもらえる人がいないから、どうしてもわからないところも多くて全てはわからなかったけど。
家令はむしろ主人の一族が、目覚めてくれると妄信している人だった。
だから「いつか旦那様が、お嬢様に教えてくださるまでは……。預かった者として余計なことをするわけには……。先代様に申し訳なく……」
と言って、頑なだったから。
そのうちに、使用人が激減し、家の収支も放置気味になっていった。
家令がようやく子爵家の収支について教えてくれたのは、結婚の一年前。
とんでもない借金ばかりの状態を知っていく度に、私は家を飛び出して平民になりたかった。
でも……。
「現実を想像できすぎたから。むやみに飛び出して、誰かに救われたり、偶然なにかを見つけられる人なんてほとんどいない」
そもそも平民は、みんな10歳ぐらいから仕事を覚え始めるのだ。
弟子にでもならなければ、職人達は自分達の技術を伝えることはしない。
だからといってお針子なんてのも無理。
自分では、とてもお針子ほどの美しい縫い目にはならないし、センスもない。
多少の計算はできるけど、そういった立場を任されるのは、長年その店で働き続けた人ばかりで……。
「借金をあちこちの店にしているような親がいる私を、雇うわけもなかったわ」
だから結婚をした。
それしか、家を出て生きていける術がないと思ったから。
そんな私の、師匠になってくれた人。
錬金術という特別な知識をくれて、手に職をつけさせてくれたのは師匠だ。
師匠は技術的な知識だけではなく、私の事情を知ると親のようにあれこれと言うようになった。
もし離婚後に平民として生きたいのなら、夜は出歩かないように。
あそことここのような場所は、どこの町にでもあるから近づかないように。
なんて平民の暮らしに必要なことまで教えてくれた。
さらには私のお忍び衣装にまで口を出し、とどめは結婚相手にまで注意は及んだ。
「良いか、もし次に結婚するのなら……」と。
一方で、貴族として中途半端な育ち方をした私が、今回のように結婚したことについては、「いい判断だった」とほめてくれた。
何かしら後ろ盾になってくれる人間もいないままの娘は、平民の間でも生きていくのは難しい。
町に住む人は、意外とみんなどこかで繋がりがある者ばかりらしい。
異邦者はすぐにわかるし、避けられる。
その人のことを知っている誰かがいて、その誰かが信用できないのなら、もしかすると盗みをするかもしれないし、盗賊の一味かもしれないと思うからだ。
だから家を飛び出して、しかも女性が一人で生きていくのは難しかったはずだと。
手に職もなければ、なおさらすぐに強盗に殺されたり、誘拐されて売り飛ばされたかもしれない。
「かしこい選択をしたな、シエラ」
師匠はそう言って、私の頭をなでてくれた。
そんなことをするのは、親だけだと思っていた。
だから私は、師匠を父親だと思って、その注意を聞くようになったのだ。
本当の父も母も、そんなことは一切してくれなかったから……。
そんなことを思い出しているうちに、私は深く眠っていたようだ。
ふと目を覚まして、眠っていたことに気づいた。




