第八話『世界には、きみ以外には誰も歩むことのできない唯一の道がある。その道はどこに行き着くのか、と問うてはならない。ひたすら進め。』
「私のはおしまい。次は貴方の番よ」
「え、あぁ。そうか、そういうふうにしてたね」
あまりの単純脳に呆れたのであろう。少女は眉をハの字にして、軽くため息を吐いた。
弘乃はそれには気づかない。気分がよさそうな顔を保ったまま、一つの質問をした。
「じゃあまず一つ。この世界の名前は?」
「……?」
少女は訳がわからないといったふうに首を傾げた。
その様子に弘乃もついに表情を変えた。同じく訳がわからないといったふうである。
「どういうこと? 世界の名前?」
「そう、世界の名前だよ、なんて言うんだ?」
「……質問を返すようで悪いけど、貴方の世界に名前なんてあった?」
「え、あ……」
弘乃はここで、自らの浅知恵を恥じることになった。
まさに青天の霹靂だった。
彼がこれまで見てきたアニメや漫画の世界には、必ずといっていいほど名前がついていた。しかし、それは物語を盛り上げ、特色を出すための演出にすぎない。
現実的に考えれば、その世界の住人にとっては、そこが唯一の世界であり、ほかに比較すべきものは存在しない。差別化を図るための名前など、つけるはずもなかったのだ。
「……大丈夫よ。それに、よく考えれば名前をつけておいたほうが、どちらの世界を指すのか分かりやすくて便利だしね。」
フォローなのか、本当なのか。
少女はそういうと、一つの呼び方を提案した。
「じゃあ、こちらの世界を『異世界』、そちらを『現実世界』、と呼ぶでいいかしら? こちらからすればそっちが異世界だけども」
「あ、あぁ、それで構わないよ。ありがとう」
「どういたしまして、じゃあ次」
面倒くさいのだろうか。
少女はぼんやりと前髪に意識を向け、右手でそれを弄び始めた。左手は頬杖をついたまま動かない。
「この世界に、竜とかはいるのかな? 魔法はある? 多種族は?」
「質問が多いわね……竜はいるわ。魔法もある、というか知ってるのね、魔法。魔素を知らなかったから魔法も知らないんだろうって判断したんだけど。多種族、というのは、人種の括りよね? あるわよ。森人、魔人、黒人、白人、東洋人。このくらいかしら?」
「え、マーマンとかドワーフは?」
「……あんなもの伝説上の存在でしょう? いないに決まってるわよ」
弘乃の中で、少しずつ情報が形を持ち、一つの世界像を形成していく。
まず、ファンタジーを地でいくような世界ではないこと。竜や魔人といったものは存在するようだが、自分が想像するような生き物ではないのかもしれない、と弘乃は考える。
二つ目は、現実世界と同じで、肌の色での人種分けはあるということ。差別があるのかどうかも考えたが、普通に考えればないはずもなく、弘乃はそれで納得をした。
「なんだか、異世界の理想が崩れていくな……」
「どうせ御伽話みたいな場所だと思ってたんでしょう? 悪いけど、こちらからしてみれば、そっちの方が摩訶不思議よ。貴方の普通に当て嵌めないでもらえる?」
「はは、ごめん」
弘乃は困ったように笑う。
それを見て、少女は再びため息をついた。
「……ほら、何か他に質問は?」
「……このペンダントはどういった仕組みで?」
「魔法よ。説明しても分からないだろうから言わないけど。頭に『勘違い』を起こさせてるとだけ言っておくわ。よく見てみると、口の動きと違うのよ?」
本当だ、と弘乃は純粋に思った。
少女の口は確かに動いているものの、喋っている日本語の発音の動きはしていなかった。
「どうやって召喚を?」
「……これも分からないだろうから言わない。でも、いつか教えてあげる」
「……なぜ俺を召喚したのかな?」
「それも今は説明しない」
「魔王ってなんなんだ?」
「同じく、説明できない」
「……ここは?」
「漁村、とだけ言っておくわ」
「……」
「他には?」
「……聞きたいことは山ほどあるよ。具体的に教えて欲しいことがたくさん。でも……」
弘乃は窓の外を見た。
雪は降り続けている。しかし、その先の暗闇は、純白の雪さえも飲み込まんとするほどの深い恐怖を纏っていた。
暖炉の炎は先ほどより勢いを失い、燃え尽きかけた木材が静かにくすぶっている。部屋の明るさも、わずかに落ちていた。
弘乃の周囲にあるすべてのものが、一日の終わりを告げていた。
「今日は、やめておくよ。疲れたし。明日もあるんだろう? だったら急ぐ必要はないよ」
「……えぇ、そうね。外ももう暗いわ。私も疲れたし、今日は休もうかしら」
そう言うと、少女は机に手をつき、再び立ち上がった。
椅子は先程と同じように、ズズッと後ろへと下がる。
しかし今度は、立ち上がるや否や机の下に手を入れ、どこかへ移動させようとしていた。
この机は、弘乃と話すために設置されたものだ。
話がまとまれば元の位置に戻すのは、自明の理である。
そうして、少女が机を持ち上げようとした瞬間――
いつも以上の軽さが、彼女の身体に伝わった。
何ごとかと正面を見ると男の胸があった。
見上げれば、そこには垂れ目の少年が一人。
弘乃はいつもの通り、困ったように笑った。
「俺が持つよ。君には沢山迷惑をかけたろうから」
「……いや、迷惑をかけてるのは断然こちらだと思うんだけど」
「はは、そうかもね」
弘乃は表情に見合わず強かな男であった。例え相手が助けを求めていなくとも、有無を言わせず必ず助けていた。電車で席を譲った際、断固として座らなかった老人を無理やり座らせたこともある。
今回もそうであった。少女からテーブルを軽々と取り上げると、その上に椅子を置いて少女の正面に立った。椅子で顔が隠れてしまっているため、少女から弘乃の顔は見えない。
「どこに置けばいい?」
「……私の部屋よ」
「部屋? ここ以外にあるの?」
「えぇ、地下にね。貴方の寝床はここの階よ。言いたいこと分かる? 部屋には入ってほしくないの。だからそれは私が運ぶわ」
「いや、でも俺が持っちゃってるし、交代するのめんどくさいでしょ?」
「……はぁ」
少女は少し嫌そうに深いため息をついた後、暖炉の方へ二、三歩歩き始めた。弘乃は椅子の隙間からそのようすを見ている。どうやら地面に紐があるようで、そこを引っ張れば開くようになってるらしい。
少女は少しのとっかかりを感じながらも、慣れた手つきで紐を上げ、床下にある階段を現出させた。
そこまで長い階段ではない。木造りのものであり、段差もほんの十段半ば程度であった。側面は石造りであるらしく、少しゴツゴツした黒い岩肌が光に反射している。
弘乃は足元を気をつけながら、ゆっくりと降りていき、少女が扉を開いたのを確認した後、中へと入っていった。
部屋を言い表すのであれば、無機質であった。
『女の子の部屋の匂い』といった表現をよく耳にするが、それといった甘い香りもしない。
掃除はしっかりとされていた。隅々まで行き届いており、暮らす分には十分であろう。大きさは上の部屋より少し小さいぐらいで、大の大人が十人は余裕を持ってはいれるぐらいの大きさはあった。
左を見てみれば、二つのベッドがあった。
一つはずっとここに置かれているのだと、見た瞬間に判断できるような定位置にあるものだ。
もう一つのベッドは、あまり使われていなかったのだろう。少し古っぽさがあるもので、しかし、疲労を取るには十分なものであった。つい最近出してきたばかりのようで、部屋の隅に、適当に置かれていた。
定位置にあるベッドの上にはいくつかの羊皮紙が散らばっていた。櫛やインク入れのようなものもある。
(そうか、机を移動させていたから、上にあったものを全部ベッドに置いてたんだな)
「そこの端っこに置いて。紙がいっぱい貼られてる場所。そう、そこよ」
弘乃は言われた通りに壁に寄せるようにして机をドッサリと置いた。そして、椅子を上から下ろすと、その下に設置し、スライドさせて机の下へと動かした。
「ふぅ、よし」
「ありがとうとだけ言っておくわ。じゃあ次はベッドね。そこにあるやつを動かすから。貴方はどいていて」
「え、いや。これこそ俺が持つべきだよ。それか二人で。大人一人分ぐらいの大きさはあるし」
「いいから。運べるからこう言ってるのよ。お願いだから言うこと聞いて」
「いや、俺がやるよ。俺は『勇者』なんだし、このくらい朝飯前に――」
瞬間、部屋全体に突風が巻き起こった。
弘乃は突然の衝撃に、腕を交差させて怯んでしまう。前髪が風に乗せられたようにふわっと持ち上がった。
ベッドに置かれていた羊皮紙も、全てが上空へと吹き荒らされ、ひらひらと一枚ずつ地面に落ちていった。
急な風の発生源はどこなのかと、弘乃は辺りを見渡す。地下室なのだから、外の風が入ってくるはずもない。ましてや上の階も扉をしっかりと閉めていたのだから尚更だ。
では隙間風か? と彼は考えて、辺りをぐるっと見渡した。見渡して、発生源を発見した。
「しつこい男は嫌われるわよ。
それに、ね? 言ったでしょ。こっちの方が楽なのよ」
「……初めて見たよ。いや、凄いな、本当に……」
発生源は、少女の右掌であった。
レストランのウェイターが食器を持つように掲げられた右手からは、白い謎の塊がコマのように回転していた。風だ。風が視覚化し、掌に顕現していたのだ。
こんなことができる技術は一つしかない。
機械や兵器を使わずにできる技術は一つしかない。
「――これが、魔法か」
「ほら、近づいても大丈夫よ。魔法の腕は確かだから、余波だったり誤射だったりはあり得ない。でもベッドには近づかないで。制御が難しいし」
そういうと、少女はベッドに向かって両手を掲げて、それなりの重さがあるそれを軽々と持ち上げた。
そのまま、扉の方へと歩いていく。
横向きだったため、扉に引っかかりそうであったが、向きを縦にすることでなんなく通過していく。
弘乃は少女の後ろについていかながら、魔法を興味深そうに観察していた。
どういった原理なのか、自分にもできるのか。
先程とは違う、人間が備え付けた知的好奇心からなる疑問に打ち震えていた。
そう考えながら移動しているうちに、ベッドが置かれるであろう場所に到着した。暖炉から見て左側の空間だ。窓が上にあり、光が差し込むようにしてくれていた。少女は片手でベッドを制御しながら、邪魔な木箱をベッドとは逆方向へと移動させていく。
その途中で、弘乃は最初に自分が立っていた場所を見た。よく見ると巨大な魔法陣のようなものが描かれている。薄く、白かったため気づかなかったのだ。
一旦意識してしまえば目に止まる。
そのまま眼で線をなぞっていくと、なんと天井にまで到達していた。よく見ると、壁にも描かれており、この一室が丸々、魔法陣として使われていたことに気づいた。
少し冷や汗をかきながら呆然と眺める弘乃に声がかけられる。
「ベッドの設置も終了したわ。これで全て終わり。私も今から下で寝るから、何かあったら呼んでね」
気づけば準備が全て終わっていたらしい。
弘乃は下の階への階段に向かっていく少女を見て、聞き忘れていたことを思いついた。
「あ、ごめん。最後に一ついいかな?」
「……何?」
「名前だよ。名前。君の名前を知りたい」
少女はパチクリと瞬きをし、『あぁ、そういえばしていなかったな』といったふうな表情を浮かべた。
そうして、すぐに少女は弘乃に向き直る。
出会って一時間が経とうとする中、少女は初めて自らの情報を開示した。
「――私はコゼット。コゼット・モヴォワザン。以後よろしくね。ナカツ・ヒロノ」
コゼットはそう言うと、すぐに階段を降りていき、階段への入り口をバタンと閉じた。
「……」
静寂が、弘乃の全身を包み込んだ。
こちらの世界に来てから、ずっとコゼットといたのである。初めての孤独に、弘乃は少し身体を震わせた。
見てみれば、暖炉の火は先程よりも弱くなっている。
チリチリと力なく燃えるそれは、彼の今日一日の疲れを示しているようであった。
「……暖炉は消さなくていいのかな? いや、確か寝る前は自然消滅を待つのが普通だと聞いたことがあるな。このままでいいか」
弘乃はそういうと、朝起きた際に寒さに打ち震えないよう、念には念をいれて防寒具をきたままベッドに潜り込んだ。
夜の静けさはその日の振り返りを強制してくるものである。弘乃は数奇な運命を辿った自分に再び驚き、あり得ないような現状にまた驚いた。
実感が湧いてきたのだ。異世界転移などという、馬鹿げた話に自らが巻き込まれたという事実が、彼の心を襲っていた。
そして、思い起こされるのは、家族や友人のことだった。とくに両親からすれば息子が森に登って行方不明という形になるのだ。二人のことを思い浮かべただけで、心が握り潰されるような想いになった。
きっと悲しむ、悲しんで、人生を投げ打ってしまうかもしれない。そう考えて、弘乃は、先程の舞い上がった自分を恥じた。恥じて、夢をすぐに終えて現実世界へと帰ることを覚悟した。
例え、時間の進む速さが違うかったとしても、例え、魔王討伐に幾十年かかったとしても、家族に、友人に会いにいくことを、決意した。
そう考えているうちに、眠気が彼を襲った。
これ以上、深く考えたくない彼は、その眠気を両手を広げて受け入れ、涙と共に深い眠りについた。
――翌日、弘乃は高熱を発症していた。