第五話『あなたの夢は何か、あなたが目的とするものは何か、それさえしっかり持っているならば、必ずや道は開かれるだろう。』
彼は落下していた。
周りは景色ではない。
視覚で捉えていいものなのかも分からない。
色々な色が混じった極彩色、オーロラだ。
そして、その光の奥を見てみると、映像が流れていた。
はたして映像なのか。映像はテレビやビデオなどの科学技術による創作像を指す。
これは、現実だ。現実を見ているのだ。
彼の目を通して見るなんら変わりない『今』だ。
『今』は彼が落ちると同時に見えなくなってしまう、当たり前だ。『今』はその場限りのものだ。
彼は落ちている。言葉にするのであれば、そう、『過去』に。
いくつか、例に挙げよう。
ビルに突っ込む飛行機。折れた高速道路。
倒れる鎌と槌の旗。月面着陸。二発の大爆発。
赤に染まった海辺。艦船が燃える湾。撃たれる一家。
鏡の間で響く宣言。戦場を駆ける皇帝。監獄への襲撃。
大国の誕生。落ちるリンゴ。宗教旗を掲げる人々。
海賊の虐殺。大航海。帝国の終焉。燃える少女。
踊り燃える人。聖地を目指す軍。大憲章。澶淵の盟。
大移動。黄巾の反乱。十字架にかけられた男。
まだまだ落ちる、加速する。
次第に見える『今』は、一瞬になる。
あらゆる『今』を見、人を見て。
そして、人はなく、猿が現れた。
すると落下は一旦止んだ。
本当に一旦だ。一秒かそこら。
周りは赤く、真っ赤。ひたすらに赤い。
熱を感じる熱さだ。これを間近で見るなど、普通ならできはしない体験。
そして一旦は終わり、次は、上昇を開始した。
再び様々な『今』が流れる。
落下が『過去』なら、上昇は『未来』か。
だが、今までとは違う。
文明の発展度も、歴史の流れも、全てが違っていた。
様々な出来事が流れていく。
その中で、弘乃は特に印象的な光景を見た。
なぜ、意識に残ったのか。何か因果があったのか、作用があったのか、今では分からない。『恐怖』を感じたから、が一番しっくりくるであろうか。
ただ、その二秒間、それは鮮明に彼の脳裏に焼きついた。
女だった。野原で横になる、女だった。
女は、泣いていた。ただ咽び泣いていた。
この世の全てを憎むように、泣いていた。
表情がそうだった。憎んでいた。
同時に笑っていた。
この世の全てを呪うように、笑っていた。
表情がそうだった。呪っていた。
身体は、裸だった。泥だらけであった。
空を見て、雨を見て、叫んでいた。
全身を震わせていた、腕には力がなかった。
―――視線が、こちらを向いていた。
―――充血した目が上へ昇る弘乃を凝視していた。
ゾッとする。
視線には、感情が込められていた。
視線に込めることが可能な感情、全てが込められていた。
憎悪、期待、そして謝意。
彼女だけが、明確に弘乃を捉えていた。
全歴史の中で彼女だけが。
そして、見えなくなった。
上昇は続く。
速度が落ちてきていた。下降は加速していったことから、目的地が近いのかもしれない。ただ物理的に加速していただけかもしれないが、この空間に物理法則を適応させて考えるなど不可能である。
そして、いく秒か経ち、光を感じた。
上に、微かな光を。
それは激しさを伴い始め、数秒後には、彼を包み込み―――
―――彼は、『今』に停止した。
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彼が最初に気づいたことは、呼吸ができることであった。
「……スァッッ!! ハァア!! ハァア!!」
当たり前を取り戻したことに、身体はご満悦らしい。全身を使ってその事実を礼賛していた。
地面に手をつけ膝をつけ、必死に何度も何度も酸素を取り込む。
まだまだ足りないと言わんばかりに、呼吸をひたすら続ける。
『どのくらい酸素を取り込んでいなかったのであろうか』と弘乃は考えて、一分にも満たなかったことを知った。体感では五分ぐらいであった彼であるが、もし本当にそのくらいまで呼吸ができていなければ、今頃意識を失っていただろう。
次に、臭いに気づいた。
カビ臭い。湿った木材の臭いだ。
キャンプ場の木製トイレのような臭い。
しかし、汚い環境ではないようで、不快感は少しだけしかなかった。
弘乃は、濛々とする視界の中、呼吸を少しずつ整えていった。正常なものへと少しずつ近づける。長距離走の後みたいに少しずつ。
そうして、酸素が全身に行きたわり、呼吸をある程度取り戻してから、視覚、触覚、聴覚の使用を開始した。
小さな部屋であった。弘乃の自室より少し広いくらいの部屋だ。住む分には十分かもしれないが、周りに散乱した木箱や紙のせいで、暮らすスペースは実際の大きさの半分以下になっていた。
近くの紙を触る。木皮によるものではないのが分かった。ザラザラしており、少し分厚い。羊皮紙だ。
紙には魔法陣のようなものが複数描かれている。周りには数式のような文字が隙間なく埋められており、メモ帳のように使われているのだと分かる。
壁にはそのような紙がズラリと貼られており、本棚に並べなれた本にすら貼られていた。
そう、本だ。本もあった。
大人二人分の大きさの本棚が二つ。
本は合計で四十冊程度であろう。
一冊か二冊がいくつか抜き取られた形跡がある。しっかりと使用されたものであるようだ。
灯は天井からかかったものが二つ。
炎を使ったランタンだ。ボウボウと燃え、消えかけることも、激しさを伴うこともなく、安定して燃えていた。そのまま天井をなぞるように目を動かすと、隅っこの方に雨漏りを見つけた。ポチャンと、一滴落としたところであった。これが、湿った臭いの原因か。
背後には暖炉があった。
赤レンガで造られた簡易的なもので、煙突もしっかりと完備されているようである。しかし、簡易的と言った通りに、完成度はお世辞にも職人のものとは言えない代物であり、素人が頑張って造ったような造形をしていた。
暖かさに気づいた。
彼は防寒着を着ていたためか、暑いぐらいである。
そして、本来ならばここは寒いところであるのだと気付いた。そしてその寒さが、暖炉によって打ち消されいるのだと、弘乃は知った。
そして、弘乃は最後に、カリカリっと音を聞いた。
音の方を見る。机だ。こちらに向いた机が、彼の正面に立っていた。さながら面接中とでもいうように、それはポツンと立っていた。
机があれば使用主もいる。
カリカリとした音はそこからのものだった。
女だ。少女、といった方が正しいか。
首あたりまで伸びた髪は、白のようでいて薄い青色をしていた。雪色、と言うのが最適であろう。
身長は低めのようで、座った椅子から伸びるブーツを履いた足は地面についていなかった。
服装は地味なもので、おしゃれをしようとする気概は一切しない、機能性だけを追求した代物。だが、粗末なものではなく、見ただけで温かいのだろうなと感じれる一品であった。
目線は下を見ている。
ペンを動かしていたのだ。
何を書いているのか、こちらに目もくれず、ただペンを走らせている。少し見えた顔は、冷たい印象を抱かせる顔つきをしていた。
「……」
弘乃は、声を掛けていいのか、悩んでいた。
聞かねばならないことがたくさんあった。
なぜ森からこのような場所に飛ばされたのか。
なぜ自分に気づかずメモを走らせているのか。
一体誰なのか。自分に何があったのか。
前の少女が知っているのかどうかも分からないのに、弘乃は混乱から、直感的に行動しようとしていた。
そして、一言目を発しようとして、身体を前のめりにしたその時。
少女は視線に、そしてその動作に気づいたように、書き連ねていたペンを止め、弘乃のそれに応えると――
「...Kuinka voit?」
――訳のわかない言葉を、弘乃へと投げかけた。




