第二話『ある朝の少年N』
「ん、んぅ...」
中津弘乃の朝は早い。
毎日必ず六時半には起床し、起きた瞬間にドタバタとベッドから起き上がる。
目覚まし時計は必要ない。毎朝決まった時間に、差し込む日光で目を覚ます。
まだ眠気が残る中、足元に注意しながら下のリビングへと降りていく。彼の部屋は二階の突き当たりにあるので、リビングへ向かうには階段を降りるしかなかった。
「あら、おはよー弘乃」
「うん、おはよー」
母親と朝の挨拶を交わした後、弘乃はソファに寝転がり、再び寝る。早めに起きた意味がないかもしれないが、彼にとってこの時間は少しだけ幸せを感じられる一時なのであった。
『――結核は過去の病気と思われがちですが、今もなお年間数千人が発症する感染症です。発熱や咳が長引く場合は――』
「まぁ。弘乃の学校だけじゃなかったのね。私も注意しないと」
少し眠った後、母親がつけたテレビの音で目を覚ます。
ここまでくると、弘乃もさすがにしっかりと起床する。
母親もそれをよく理解しているため、彼が起き上がったのと同時に朝ご飯を机に並べるのだ。
「お父さん、もう仕事に行った?」
「ええ、今日は大事な会議があるからって、三十分前に出ていったわ」
「そっかぁ、進路について色々聞きたかったんだけどなー」
モグモグとパンを頬張りながら、弘乃は何気ない様子で会話を続けた。
母親も食器を洗いながら弘乃の言葉にしっかりと返答した。父親のものであるのだろう。洗っている食器は、今弘乃が使っているものと同じ種類であった。
ちなみに中津家の朝ごはんは基本的にパン類だ。母親の職場近くにパン屋があるのも相まって、多種多様なパンに牛乳を添えて出されることが主である。
「お父さんは、大学に行けって言うんじゃないかしら。そっちの方が勇者にもなりやすいでしょ?」
「うーん、まぁそうなんだけどさ。お母さんはどう思う?」
「えー、ワタシぃ?」
弘乃の母は困ったような笑顔を浮かべた後、仕事を終えたのであろう、食器を乾燥機に入れて弘乃の向かい側の椅子に腰掛けた。
「ワタシも大学に行って欲しいかなー。だってせっかく勉強できるのに勿体無いじゃない?
それに、勇者になりたいんだったら、尚更行くべきだと思うけどなー」
「……まぁ、やっぱりそうだよねー」
そこまで真剣に聞いたわけでもないのだろう。
中津は少し母親の顔を見た後、再びテレビに目を移した。
『次のニュースです。
先月、ロシアのフェイシング選手、ダニイル・グリゴーリエヴィチ・ヴェルイチ容疑者がドーピング検査で陽性反応を示した問題について、関係当局は本日未明、ヴェルイチ容疑者の逮捕を決定しました。
この事件により、ヴェルイチ容疑者は国際的に大きな波紋を呼んでおりーー』
「あら、結局逮捕されちゃったのね。やっちゃいけないことだけども、なんだか可哀想だわ」
テレビは最近ネットを賑わせているヴェルイチ選手に関するニュースを報道していた。
先月行われた国際大会でのドーピング検査で、どうやら陽性反応が確認されたらしく、世界中で大炎上する結果となってしまった。
ネットでは必要以上にヴェルイチ選手を叩いていたのもあって、インターネットリテラシーの点からも何かと話題になっているニュースである。
「ヴェルイチ選手の記事とかインスタを覗いても酷いコメントばっかり。お母さんなんだか人間が恐ろしいわー」
「仕方ないよお母さん。ネットなんだから。彼らも真面目に言ってるわけじゃないだろうし」
「えー? そうかしら?
どう見ても悪意マシマシに見えるけど」
「まぁ、叩くのが当たり前な雰囲気になっちゃうと、みんなつい便乗しちゃうよねー」
中津弘乃は最低限のフォローを入れながら、いつの間に食べ終わったのか、食器を台所に運んで二階に制服を取りにいった。
さっき寝ていた部屋に戻って、クローゼットの持ち手にかけてあるハンガーから制服を取り出し、慣れた手つきでパパッとすぐに着替えた。
そのままクローゼットを開ける。
プラスチックの収納ケースから二番目の箱を引き出し、一番上の靴下を手に取る。
すぐに箱を戻し、クローゼットを閉めた。
これで完了。彼の中では、ここまでが一連の動作だった。
後、この部屋ですることは鞄を持って部屋を出ることだけである。教材に関してはほとんど学校のロッカーに置いてあるので心配する必要もなかった。
再び下に降りると、母親はすでにパートに出かける準備をしていた。駅の近くにある百貨店だ。二人の出る時間は大体かぶることが多い。
弘乃はテレビ付近にかけてあるマフラーと手袋を手に取り、机の上に置かれた弁当をバックに入れて、一足先に玄関口に向かった。
段差に腰掛け、それなりに履き慣れた靴に足を通していく。紐を結ぶのは面倒くさいので、すでに結ばれている状態から履くのが普通であった。
くるっと、後ろを振り返る。
玄関から見て右側の扉がリビングのものであるが、母親が出てくる気配はなかった。
「お母さん、先に出るよー!」
「えぇ! 鍵は掛けとくから!
気をつけてね! 行ってらっしゃい!」
「行ってきまーす!」
玄関越しに会話をして、いってきますの合図を終える。特段珍しいことでもなく、何気ない日常の一コマだ。
そうして弘乃は、ガチャっと扉を開けて、まだ少し暗い空を見上げた。時間にして七時半、授業が始まるのは八時四十分であるので余裕を持って登校ができる。
「まったく、秋とはいえ少し寒いな。まぁ上着を取りに行くのは面倒だし、別にいいか」
そんなことを喋りながら、黒く光沢された門扉を開く。柵と繋がったそれのすぐ横には車があった。弘乃の一家は三人家族なので小型のものだ。しかしここら一体は入り組んでいるため、このコンパクトさが何気にありがたいものであった。
そしてそんな車の前には自転車が一台。
高校入学と同時に買ってもらった電動自転車である。
駅からでも通えるが、定期代がかかる上に、自転車の方が時間の節約になる。実際、生徒の大半が自転車通学を選んでいる。
学校までおよそ三十分。坂道はあるが、それでも自転車の方が快適だ。
手に持っていた手袋を装着し、マフラーも首周りに三回転。そして自転車のロックに鍵を差し込み、グルリと半回転させた。少し錆びて動きにくいのはご愛嬌だ。
「ふぅ……」
弘乃は軽く息を吐き出しながら、目下に広がる街並みを一望した。
中津家は川西市のメインターミナル、川西能勢口駅から北西の方にある山の上付近に住宅を構えていた。
ここら一帯は開発が進んでおり、自然を残したまま住みやすい住宅街を形成している。
弘乃が今やっているように、街を一望できることも売りであり、天気のいい日には大阪が見えることだってあるのだ。
「さて、じゃあ行くか」
ガチャン、と自転車を動かしてスイッチを入れる。
そうして、家の前の平坦な道を軽く漕いでいき、下り坂に差し掛かったところで、彼は一気に駆け降りていった。