第一話『他者に最も有益である者がすべての中で最も優れているべきだということである。』
一話は少し長めです。
人は勤勉な生き物である。
毎朝律儀に目を覚まし、自然由来ではない『社会』のためにせっせと朝から働いているのだから、これを勤勉と言わずしてなんと言おうか?
いや、『社会』というものは人に付随して生まれる概念であるのだから、自然から与えられたものだとも言えるかもしれない。それでも人が勤勉であることについては衆口一致とするところであろう。
アリストテレス曰く「人間は社会的動物である」。
この世界を探しても、これ程までに規則正しく、密に集団を形成している生物など見つからない。
まさに『一蓮托生』という言葉がピッタリと当てはまる。
この社会の中で生きるからこそ、人は互いに支え合い、輝く明日へと一歩踏み出すことができるのだ。
そう、『支え合う』。ここが大事だ。
大人になれば仕事を請け負う。
工事、運営、介護、営業、そして教育。
これは社会に生まれた者としての『義務』であり、これを放棄することは最終的には人々を裏切ることに帰結する。
『義務』は互いに支え合うための確認証なのだ。
自分が困れば、社会が助けてくれる。他人が困っていれば、同じ社会に生きる者として手を差し伸べる。互恵の関係である。
社会に貢献しているからこそ、相手も貢献してくれる。これが『支え合う』。
『義務』を果たしていない者は、当然社会からも見放される。困っていても誰も助けない。
破門だ。
実に素晴らしい概念と呼べるだろう。それに社会は優しいことに、これらを成し遂げるための準備期間を存分に与えてくれる。
これほどまでに施しを受けた上で、グチグチと文句を言い続けることなどできようか?
いやできまい。
それでもなお文句を言う者がいるとすれば、それはもはや忘恩の徒と呼ぶほかあるまい。
だから毎日、社会に感謝をし、恩を返すために朝早く起きる。不満は言わず、黙って尽くす。
それが人としての務めであり、自分与えられた使命だ――
そんな自らのポリシーを、今年三十六歳になる加藤恩逍は、眉間に皺を寄せて、噛み締めるように思い返していた。
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兵庫県川西市。
大阪府との県境に置かれた住みやすい町である。
交通の便はしっかりとしているし、美味しい店も点在する。パチンコだってある。そして何より、自然と建物のコントラストが美しく調和している。新しい住宅地の間には神社がひっそりと佇み、身近な山々は町の喧騒を和らげるように見守っている。
そんな町の北側、山々に囲まれるように建っているのが、川西緑ヶ丘高校である。
穏やかな住宅街に挟まれたその高校はそれなりに長い歴史を持っており、グラウンドは田舎の方というのもあってか広々としている。校舎はそれなりに古いながらも改修工事を繰り返しているため、一目見ただけではその築年齢に気づくことはないだろう。
学校へは最寄りの山下駅から徒歩二十分程度で着く。しかし、駅からはなかなか手強い坂道を登らなくてはならない。
夏場は汗をかき、冬場は寒さを震わせながら坂を登る。
学力はおおよそ中の上といったところか。
特別高いわけでもなく、特別低いわけでもない。
しかし大学受験の際はしっかりと向き合ってくれる、通うのなら申し分のない学校である。
そんな高校の端っこ。
一階の、保健室と隣接するように置かれた一室。
そこが、進路指導室である。
見た感じではこじんまりとしているが、中に入ると奥の方に吹き抜けがあり、二つの部屋で一つの扱いなのが分かる。その片方の、生徒が出入りするエントランスのような役目の部屋には、長机が横に設置されており、その上には先生達が取り寄せたのであろう新聞紙が乱雑に置かれている。
両側の壁にはぎっしりと本棚が並び、並ぶ本はすべて古今東西の過去問。いわゆる赤本が隙間なく詰められていた。
そんな部屋の中、長机を境に向かい合うように、一人の教師と、一人の生徒が座っていた。
「...うーむ。」
窓側に座る教師、加藤恩逍は悩ましげに声を唸らせた。右手にはペンを握り、敷かれた紙の上でテンポよくトントンと叩いている。インクが紙に付着しないよう、ペン先はしまい込んだままである。
「...うーーむ。」
唸り声は二度続く。
こめかみを抑えながら、自分が今どうするのが最善なのか、頭の中で吟味を繰り返す。
外からは練習に勤しむ野球部の熱苦しい声が聞こえてきて、折衷しようとする思考に、嫌でも入り込んでくる。
彼はこの緑ヶ丘高校の教師である。
担当科目は社会科。世界史、日本史と基本どの教科でも教えられるが、彼自身は政治経済を任されることがほとんどであった。
社会科を教えているだけあって、彼は仕事というものに対しては前述のような考えを持っていた。
もちろん、学生時代に大学の講義だけを受けて満足していたわけでもない。
『リヴァイアサン』、『資本論』、『大衆の反逆』、『国富論』、といったふうに世界の社会学的著書を読み漁り、許される限り、余すことなく勉強に時間を注ぎ込んだ。
つまり、彼は社会学のプロフェッショナルであり、社会に対する一種の信仰者なのであった。
そんな彼は『義務を果たし、支え合う』という信念のもと、人生を社会のために捧げてきた。
そして自らの『教師』という職業に並々ならぬ誇りと感謝を抱いていた。
なぜなら、公務員として国家に属し、社会に根ざした職業であるし、これから社会で支え合うことになる人材を育成することができる職業であるからだ。
彼はそれこそが自分に今課せられた使命なのであり、社会に貢献する最前線に立っていることを自覚していた。
社会で生き抜いていくための力をつけ、毎日社会に感謝することができるような実りある精神を育み、彼らの将来に正面から、真摯に、打算なく向き合う。
彼は今までこの精神で教師を続けていた。
そう、だからこそ受験生に対しては手厚いサポートをする。
これは自らの信念に則れば当たり前のことであり、大変ながらも絶対に完遂しなければならない仕事。
だと、そう考えていた彼は、人生最大のピンチにぶち当たっていた。
「...これは本気で言ってるんだな?」
ペンを叩く動きがピタリと止まった。
恩逍は下に向けていた顔を目の前に座る生徒に向け、全身を机にぐっと寄せた。小太りの腹が縁と接触して、ローラー式の椅子がわすがに後ろに押し戻されていく。
そんな彼を見つめるように、生徒は姿勢よく、反対側の椅子に座っていた。
身長は少し低めであろうか?百七十センチに、ギリ到達していないぐらいの高さだ。しかし普段から姿勢がいいためか、実際の身長よりは高く見られることがほとんどであった。
髪の色は黒く、純日本人らしさを感じるものであり、前髪は右側に流すように整えられていた。しかし髪質が固いものなのであろう。サラッとしているわけではなく、所々主張激しく毛先がピンと張っていた。
「はい、本気です。先生」
聞いた者に優しさを感じさせるであろう声が、静かな進路指導室の中に響き渡る。特徴的な垂れ目が、目の前の教師の瞳を射抜いていた。
「うーん、そう、か。うーん」
恩逍は再び思考する。だが、彼の中で考えはまとまりつつあったのだろう。先程までよりかは時間がかかることなく、再び生徒の顔前に臨めた。
「先生な。お前達の進路には、どんな選択であれ心の底から賛成したいと思ってる。みんなそれぞれ自分の将来に向かって走り出す準備をしているわけだからな。先生みたいな大人がその道を否定しちまったら、誰がお前達の背中を押すんだって話だろ」
彼が理想の教師だと言われる所以である。
教え子達の中でも、彼に対する悪印象は皆無と言っていいほどであり、卒業生の飲み会があったとしても悪口ではなく、恩逍にしてもらったことを各自が自慢していくといった有様であった。
「ま、つまりだ。俺はお前の道を否定するつもりはない。なんなら立派すぎて、いたく感動しちまってるぐらいだ。しかしだな...」
そう生徒への想いを述べた後、恩逍は話を切り替える。それと同時に、先程までペンで叩いていた紙を、目の前の生徒に見せるように片手で掲げた。
「この進路はちょっと心配だ。
もっといい選択があるように思えてならない」
恩逍が掲げたのは、志望校についてのアンケートであった。内容は至ってシンプルであり、記述しなくてはいけないところは、氏名、クラス、番号、就職か進学かの選択肢、第一から第二の志望校の五点だけである。
氏名の欄には、それなりに整った字で『二組十九番』と書かれており、そしてその横には中津弘乃、とその生徒の名前が記されていた。就職か進学か。この選択肢には『就職』の方に丸がつけられていた。
しかし、問題なのはその下にあった。
一番下の欄。
進路の欄には、端のほうに『勇者』、と簡潔に書かれていた。
「あぁ、違いますよ。先生。ここに書いてあるのは先生が想像してるような勇者ではなくて、もっとこう……ボランティアみたいな、世界中の人々を助けにいけるような――」
「そんなこと分かってる。もし本当に伝説の剣を抜いて冒険したいとか言ってたんなら、さすがの先生も病院を勧めていたよ」
訂正を途中で止められて、弘乃は困ったような表情でぽりぽりと右頬を掻いた。
いや、それは必ずしも困っているわけではない。彼は笑う時、どうしても困ったような表情になってしまうのだ。そのせいかここの学校の生徒の間では表情が可愛いといたく評判であった。
「……なぁ、中津。考え直してみないか?」
少しの間があってから、恩逍が再び話し始めた。
「この『勇者』って道は、別に大学に行ってからでも実現可能だ。なんなら、そこで学んだノウハウを活かして、もっと大きい事業のもと、夢へと手を伸ばすことだってできる」
「そんなんじゃ遅いってんなら、大学でボランティアのサークルに入ればいい。おっと、サークルだからって甘く見るなよ? 一年に数回、資金を集めて海外に飛ぶことだってある。インドネシアだのフィリピンだのにな。サークルがなければ自分で作ればいい」
恩逍は否定と取れるような言葉が口から出ないように意識しながら、慎重に説得を続ける。
「それに、お前は成績もいいだろ。五教科全て文句なし、社会教科に関しては花丸だ。体育も美術も、自分にできる最大限のことを全てやって、しっかり成績を収めてる。こんだけありゃ、関関道律ぐらいなら簡単に合格できるはずだ」
弘乃はニッコリした表情で、恩逍の話に耳を傾ける。事実、恩逍のいうことは的を得ていた。
中津弘乃の成績ならば、必ずいい大学に行き、人々に手を差し伸べる大きな力となれる。
そんな確信が恩逍にはあったし、何よりも愛する生徒ができるだけ明るい道へと進んで欲しい、という想いがあった。
「……なぁ、中津。なんで先生がここまで言うか分かるか?
お前のことが好きだからだよ。先生だけじゃない、他の先生も、生徒達も、みんなお前のことが大好きだ」
「お前が、学校中のみんなを助けているからだぞ?
職員室から教材を運ぶときも真っ先に動いてくれるし、去年の体育大会、リレーで転けて擦りむいちまった遠藤を即座に保健室に連れていってくれた」
「校内だけじゃない。近隣住民の方々からも、荷物を持ってくれた、道を教えてくれた、猫を見つけてくれた、って感謝されてるんだ。この前に表彰されていたのだって地域ボランティアのものだったのを、俺はしっかり覚えてる」
そう、中津弘乃は人助けをよくしていた。
困っている人を見つければ、必ず手を差し伸べる。
そして助けた後も、さも当然のことだと困ったように笑うだけ。見返りも、何もいらない。
ただ、感謝さえされればそれでいいといったふうな人間であった。
誰が言ったか『勇者聖人』。
彼は愛称としてそう呼ばれていた。
「だから、考え直してみてくれ。お前にとって一番いい道を。『勇者』ってのになるために最適な選択を」
「…………」
沈黙の中、恩逍は、痛いほどに気持ちが籠った瞳で、弘乃を見つめる。それに対し、弘乃は先程とは少し違うものの、特段変わらない穏やかな顔で恩逍の目を見返した。しかし、弘乃は何も考えていないわけではなく、どうやら頭の中で思考を繰り返しているようだ。
「……加藤先生」
数十秒の沈黙の後、弘乃はゆったりとその口を開いた。
「俺のために、ここまで真摯になって考えてくれて、本当にありがとうございます」
「教師として当たり前のことだ」
「えぇ、でしょうね。先生はそう思ってらっしゃるでしょうし、そう言い切ると思っていました」
突然の信頼に、恩逍は少し照れ臭そうに、立派に蓄えられた顎髭をゴシゴシと撫でた。
「でも、先生。それは俺も同じなんです」
「何?」
「俺にとっても人助けをすることは当たり前のことなんです。それが、俺がこの世界に生まれた意味であり、与えられた使命であり、絶対に揺らぐことのない信念なんです」
弘乃は思案するように自らの右手の掌を見つめ、逡巡するように語る。まるで過去に想いを馳せるように。どこか優しく、悲しい瞳で。
「でも、俺は、俺に向けられる感謝に対しては真摯に受け止めます。人助けは善いこと、それは、揺るぎのない事実ですから。俺は人々からの感謝を力に、また新しい人助けをすることができる。人々の想いは『力』なんです」
ですから、と弘乃は続ける。
「先生も自らに向けられた感謝には、当たり前のことでも受け止めてください。それが明日を生きる糧になるし、感謝に対して『ありがとう』と言ってくれた方が、感謝した側も嬉しいものですよ」
「……」
恩逍を思いやった、優しい言葉。
恩逍は弘乃の言葉を静かに噛み締めた。
それは、生徒から教師への、ある種の励ましにも似た優しさだった。
まるで、恩の内側まで見透かしたかのような、穏やかで包み込むような言葉。
「…………」
恩逍はゆっくりと息を吐き、腕を組んで目を閉じる。
(中津弘乃。こんなにもできた人間は、そういない。俺が見てきた生徒の中でもダントツだ)
(だが、何故だ……?
何か違和感がある。入学当初からそうだった。
こいつは優しい、それは疑いようのない事実だ。
だが、それでも――何かおかしい。
何か、中津の言葉の奥に――)
「――先生」
弘乃の声かけに、恩逍の意識は思考の海から引き上げられた。
ハッとして、弘乃を見る。
なんと弘乃はドアノブに手をかけて帰ろうとしているではないか。
「え、ちょ、お前」
「俺、帰りますね。
帰りにちょっとお使いを頼まれているので」
「ちょ、おい! 進路は!?」
「あぁ、進路については、先生の話を聞いて少し考えが変わりました。確かに大学に行った方が幅も広がりますし。とりあえず今決めれることではないので、また後日、俺の方から伝えに行きます。さよならー」
「え、あ、あぁ、さよなら……」
パタンと、静かに扉が閉まった。
残されたのは、驚いた勢いで立ってしまった恩逍と、放課後の終わりを知らせる夕日の光だけであった。
「……」
恩逍は重い身体を動かして、ゆっくりと窓の近くまで移動する。
見てみれば、なるほど、確かに話を始めてた頃に比べて空もオレンジ色になっている。
グラウンドを見れば、野球部もダウンのランニングを終えた頃であった。
窓の近くに植えられた紅葉は、その黄金色に輝く葉を一枚、また一枚と落としていた。
「……もうこんな時間か」
壁にかかった時計を見ると、時計の針は五時四十分を指している。すでに下校時間直前であった。
冬場は一日が長いため、下校時刻も必然的に遅くなるのだが、秋というまだ微かに夏の面影を残す季節なのも相まって、下校時刻は夏場と同じ六時ということになっていた。
「……中津。お前の将来が、先生はどこか恐ろしいよ。お前がじゃない、お前が迎える未来が、恐ろしいんだ」
そう呟きながら、恩逍は、先程生徒を疑った自分を責めつつ、重い足取りで部屋の扉を閉めた。
――部屋に残された紙の「勇者」という文字が夕日に照らされ、黒鉛色に鈍く光り、ぎらついていた。




