プロローグ
『勇者』というものが存在する。
英雄と、あるいは希望と呼んでもかまわない。
広義ではだいたい同じ意味であるのだから、細かい区分は無粋というものだ。
いや、だからこそ、ここで混同せずに区別するべきなのかもしれない。
ドイツの哲学者カントは、かつて曖昧になっていた哲学分野を細かく分け直して、道徳判断を含むさまざまな概念に明確な基準を設けた。
「う、ぅう...」
彼の言うところによれば、『部門が混在してしまえば、いつまで経っても進歩することがなくなってしまう』ということであるらしい。
「はぁ、はぁ」
仮に『勇者』や英雄といったものも、この括りに入るのであれば、一体何をして区別できるのであろうか?
徳があるか否か? それとも為した行為によるものか?
これらを整理するには、ここはあまりにも手狭すぎるであろう。
「う、うぅ...」
力なく立ち上がる少女。
彼女は『勇者』について深く考えたことはなかったが、それでも確かに、その存在と密接に関わっていた。
だが、今、この場所に勇者はいない。
あるのは崩れた煉瓦の壁、砕けた瓦礫、そして燃え尽きた灰の山だけだった。
彼女はふらつく足で周囲を見渡す。
見渡して、何もないことを知った。
崩れた建物の間、路地裏に倒れていたのだから当然だった。
無論、崩れてしまっているため、壁はところどころ剥がれている。『路地裏』と言うには、いささか差し込む光が多すぎるであろう。
去年、この一帯は空襲に焼かれ、長年の歴史を刻んだ建物は、ものの見事に全て、灰と化した。
焼死体の処理もまだ終わってはいない。
悲劇を乗り越えようとも、この地には今なお深く、強い悲しみが根付いていた。
「そ、そうだ。パーツ……パーツは……」
ふと、少女は何かを思い出したかのように周囲の瓦礫を掻き分け始めた。
探しているものが、あるのであろう。
意識はまだ朦朧としていながらも必死に手を動かす。
埃をかぶった顔には、焦燥の色が滲んでいた。
目の焦点は合わず呼吸は荒くなっていく。
嗚咽が胸の辺りに篭り、白い頬にはじっとりと汗が滲んでいた。
疲れた身体に鞭打っているためか、はたまた見つからないが故の焦りか。
そして、数分かけて辺りを探し、数十分かけて歩き続け、最後には自らの衣服の中を探した――
――それでも、探し物はどこにもなかった。
「……い、行かなきゃ」
少女はその脚で瓦礫を踏み締め、希望を求めて歩き出す。勇者が今はいないのだとしても、託されたものを、その全身を使って成し遂げるために。自らの贖罪を果たすために。
焼き焦げた衣服に、少しのチョーク。そして一冊の本を携えて。少女は勇者を求めて、廃墟の街を進んでいった。
これは、勇者と魔女の一族が織りなす詩。
彼方の、明日の、いつかの、どこかの貴方に捧ぐ詩。
ーー『勇者』が生まれる、それまでの物語である。




