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第7話

 夜明け前の通い慣れた道を、ルイスは慌てて走っていた。

 しらみはじめた空が露わにしていく足元を、急ぎ踏み抜いていく。

 屋敷に続く公園を飾る花はいつの間にか完全に初夏のそれに入れ替わっていた。

 ルイスは玄関にはまわらず、直接いつもの湖畔に向かう。

 夜明け前のこの時間に屋敷の湖へ来るようユーウェルに言われたのは、なんとか期日間際で仕上がったドレスを届けた一昨日のことだ。

 遅刻すると何をされるかわからないので、わざわざ昨夕から小船を近くに停泊させていたのに寝坊したのは想定外だった。

 いや、こんな時間に呼び出す方がそもそも間違っている、とルイスはぶつくさ文句を言う。

 青みを帯びた日の出前の空に、薄紅が混ざり込みいっそう淡く染まってゆく。

 湖面が空に連なり色を変えはじめる。

 やっとの思いで湖畔に辿り着いたルイスは、現実味のない光景に心を奪われた。

「ルイス」

 高い空にぽかりと開いた扉の前で、あの淡青のドレスを着たユーウェルがルイスに向かって片手を振り上げていた。

 隣のニナもいつになく畏まったドレス姿で、危なげなく空に立っている。ユーウェルのものより格式張った正装な分、ニナの方がどこぞの貴人のように見えた。

 ユーウェルが何かをニナに耳打ちすると、ニナはルイスを一瞥した後、眩い燐光溢れる扉の奥にするりと消えた。

 驚く間もなく、ユーウェルが湖上の空の扉からルイスの方へ一足飛びに降りてくる。

 そこには確かに階段があるらしく、ユーウェルの爪先が触れる瞬間だけ、燐光が弾けた。

「来ないかと思ったよ」

「いや……は!? え!?」

 湖岸近くまで降りてきたユーウェルが、状況が理解できないでいるルイスを前に、してやったと言わんばかりにほくそ笑む。

 ルイスは、額の高さほどの空中に大したことでもないように膝を抱えてしゃがみ込んだユーウェルを見上げた。階段から零れた淡青のドレスの裾がしなやかな枝葉のように風を受けている。

「……どういう状態です、これ?」

「言ったろう。妖精の国に続く空の扉を見せてあげるって」

「冗談じゃなかったんですか?」

「本当だと言わなかったっけ? あいにく妖精の国(あちら)に連れて行ってあげることはできないけどね。……おっと、そうだ」

 忘れるところだった、とユーウェルはルイスに手を出すよう言った。

 怪訝に思いながらも素直に手を出したルイスの右手にユーウェルが手を重ね、反対の手で目元を覆われる。

「おめでとう。これで取引成立だ」

 手の温もりの薄がりの中、ユーウェルの気配が寄って、ルイスの瞼の奥でちかりちかりと光が弾けた。

「さぁ、両手で受け取って。約束のもう半分だ」

「は!? え、まっ……!?」

 繋いだ手の内から色とりどりの宝石が次々溢れ出す。両手ではとても受け取りきれず、慌てたルイスの手元から宝石が草むらに、湖に、音を立てて零れ落ちた。

 刹那、ユーウェルはルイスの手を離し、踵を返した。

 淡青のドレスを翻し軽々と階段をのぼっていく様は誰よりも妖精らしく、確かに空を飛んでいるようだった。

 辺りと同じ朝を迎える空の色の翅が、後方から差しはじめた朝日に照らされて、いっそう繊細にきらめく。

 階段の縁を滑る白いレースの裾に、翅脈の影が色ガラスを透かしたようにちらちらと落ちて重なる。

 目を離すとすぐにでも空に溶けてしまいそうだった。

「ユーウェル様!」

 ルイスは存在が定かでない階段に飛びついた。

 かろうじて手にしていた宝石までもが転がり落ちて湖に消える。

 ルイスはどうにかひっかかった腕を頼りによじのぼり、見よう見まねの危ない足取りで湖上の階段を飛びながら駆け上がる。

「忘れ、もの、です」

 息を切らし膝に手をついたルイスは、背筋の凍る高さを極力意識しないよう努めながら、上着の内側から仕上がったばかりのブローチを取り出した。

「朝露は無理だったんで、せめて形だけ」

 ユーウェルの菫色の目が、ブローチを映しわずか閃いた。

 手に収まるほどの小さなガラス製のブローチは花束を模している。以前、翅の簪をつくった職人に別口で依頼していたものだった。

 翅の時同様、精巧につくられた花びらの縁には、露を模したガラス玉がついていた。辺りの薄明かりを吸い込みながら朝露が優しく光る。

「存外かわいいことをする。さすがに甘くはなさそうだけど」

 指先でブローチを受け取ったユーウェルは、芳香を吸い込むようにガラス製の小さな花束を鼻に寄せた。

「ユーウェル様」

 ルイスは、ユーウェルの手を取る。

「今日もあなたがいちばん、特別お美しいですよ」

「言われなくても、そう思っているよ」

 ユーウェルが得意気に笑声を立てて、ルイスの励ましを請けおった。

「楽しんできてください」

 ルイスは、ユーウェルの手の甲を額に押しいだく。

「あぁ。行ってくるよ」

 手を緩めると、ユーウェルの手はするりと離れた。

 ルイスが見送る先で、最後の数段をのぼりきったユーウェルが、扉の縁に手をかけたまま振り返る。

「ルイス。君も急がないと、この階段消えちゃうからね?」

「は!? そういうことは早く言ってくださいよ!」

「だって、まさかのぼってくるとは思わない」

「え、ちょっと待ってください。まだ大丈夫ですよね!?」

 ルイスは慌てふためきながら、階段を走りくだった。

 落ちても湖とはいえ、これだけの高さから落ちたらどうなるかわからない。

「いってきます」

 朗らかな声が響いて、ルイスが首を巡らせた先で、ユーウェルは颯爽と扉をくぐった。

 一帯に満ちた澄んだ空気が、ユーウェルの翅を通して鮮やかに色を増す。翅の一部を成すレースの端が、翻って扉の奥に消える。

 同時に、ルイスは足場を失った。

 足から湖に落ちたルイスのまわりに泡が立ち上がる。初夏とはいえ、早朝の冷たい湖からほうほうの体で這い上がったルイスは、腕を投げ出し草むらに寝転がる。

 見上げた空は、もう見慣れた姿をしていた。

 空の扉など、どこを探しても見当たらず、つい今しがたの出来事なのに、夢から覚めた心地になる。

 遠くで塔の鐘が、一日のはじまりを告げていた。

 いつの間にか、辺りは青空に変わっていた。

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