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存在と証明

 アステリアス・ヴィリーと名乗った男に、少女はことりと首を傾けた。

 随分と長い名前なのだな、と感心したように告げる彼女は、ファミリーネームという概念を知らず、そもそも、家系や家族というものを知らないのだ、と言った。

 アステリアスはこの洋館に連れて来られて以来、記憶が酷く曖昧であやふやだ。

 解るのは、何らかの事情でこの国に足を踏み入れてしまった事と、魔物達に追われている内に気を失ってしまった事、そして、目を覚ましてから起きた事と、自らの名前だけ。

 自分が何処からやってきたのか、どのような存在なのか……、それら全ては、限りなく近い場所にある筈なのに、決して触れる事が出来ない蜃気楼のように、思い出せない。

 記憶が無い、という意味では、彼女と今のアステリアスは同じものであった。

 けれど、少女の場合は人としての生活や知識までをも極端に欠如していて、これではまるで、頑是無い子供のようだ、とアステリアスは思う。

 狂気に包まれてしまう筈のこの森の中でも、彼女はあまりにも純真無垢。

 軽やかに歩みを進める人であって、側に居るアステリアスにも、彼女の身の内にある溢れんばかりの光を感じている。

 少女は決して誰にも穢される事がなく、奪われる事のない、美しく澄み切った光を、その身に内包している。

 そして、この場にいる自分自身が狂気に呑まれる事がないのは、そんな彼女と共にいるからなのだろう、とも。

 彼女自身はそうした事を理解していないのか、何も気にする事はなく、ただ不思議そうに、家族とはどのようなものなのか、と問いかけている。


「家族って言うのは、ずっと一緒にいる、って約束している人達の事、かな」


 これは自分なりの考えだけど、と付け足したアステリアスに、彼女は理解が及ばないのか、眉間に皺を寄せながら、難しい関係なのだな、と呟いたものである。


「そういえば、君の名前を聞いていなかったな」

「私の……、名前?」


 問いかけに、彼女は酷くぼんやりと空中に視線を向けていた。

 何かを確かめるような、それでいて、其処には何もない、と知っているかのような。

 その様子に、砂を噛むような違和感を感じて、アステリアスは慌てて彼女に問いかける。


「そう、名前。魔物達に、いや、メイシアでもいい。彼女に呼ばれている名前だよ。教えてくれないか?」

「そんなものは存在しない」

「……え?」


 名前など自分には存在しないし、必要もない、と事もなげに言ってみせる彼女に、アステリアスは絶句した。

 彼女曰く、この場所には魔物以外のいきものは彼女だけしかおらず、彼女は人間だ。

 必要があれば「人間」と呼ばれるだけの事。

 その事に、彼女は何の疑問も浮かばなかったらしい。

 そもそも魔物達は家族という概念を持たず、深淵より生まれ出で、確固たる自己を形成していくだけの存在である。

 弱ければ消えていき、強ければ弱い者を従える事もままあるけれど、それらを家族や仲間とは決して呼ぶ事はなく、その必要を感じる事もない。

 その事実に、彼女は何の違和感も疑問も感じていないようだった。


「だから、私に名前は必要ない」


 魔物達にはそういった概念がなく、他者を庇護する事もないのだろう。

 その例外が先程のメイシアであり、彼女は魔物達の間でも一際変わり者と言われているらしい。

 そのメイシアでさえ名前の必要性を感じていないと言うのだから、少女が同じような考えになってしまうのは致し方ない事なのかもしれない。

 だけど。

 考えて、アステリアスは手のひらを握り締めた。

 だけど、そんなの、まるで存在していても存在していなくても構わない、と言われているようではないか———。


「そんなのはおかしい。名前がないっていうなら、拾ってきた奴がちゃんと名前を与えるべきだ!」


 アステリアスの主張に、少女は大きな瞳を瞬かせると、戸惑ったように首を振っている。


「アステリアス、君には名前があるから区別はつく。だから、私は別に構わない」

「構うに決まってるだろう! 君という存在を決める、大事な事だ。それを蔑ろにしてはいけないよ」


 アステリアスが両手を握り締めてそう言うと、彼女は狼狽し、そして、何故だか少し悲しそうに、視線を逸らしている。

 思いもよらなかった事で、きっと不安に思っているのだろう。

 アステリアスはそのほっそりとした白い手を揺らして、優しく笑いかけた。

 ——どうしてだろうか。

 彼女を見ていると、そんな風に、不安そうな、悲しそうな顔をして欲しくはない、と、思ってしまう。


「メイシアが君を此処に連れてきたのか? 彼女が君の保護者かい?」


 問い掛けると、彼女は躊躇うように口を開きかけては閉ざしていたが、アステリアスが視線を逸らす事なく真っ直ぐに見つめていると、観念したように小さく息を吐き出した。


「いや、此処に私を連れてきたのは……、グラムストラ、という男だ」


 彼は魔物であり、この屋敷の主人であり、この国と全ての魔物を統べる者。

 彼女の言葉に、アステリアスは何度か小さく頷いて、ことりと頭を傾けた。

 その男が少女を此処へと連れてきたというのならば、その責任がある筈だ。


「グラムストラ? じゃあ、そいつに名前をつけてもらおう!」


 さあ、と掴んだ手を引き、暗い廊下を飛び出すと、少女の戸惑うような声が聞こえる。

 酷く懐かしく、それでいて、そんな事があるわけがない、という、曖昧で矛盾した気持ちに、アステリアスは耳元で揺れる石飾りをそっと撫でていた。

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