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邂逅と暴食

 此処は一体、何処なのだろう。

 眼を覚ました男は、震える息を吐き出して視線を彷徨わせる。

 暗闇の中、朧げな暗い緑色の灯りが見えるけれど、身体は酷く重く、鈍い痛みに満ちていた。

 冷たい雨に打たれながら、暗い森の中で魔物達に追われていたのは、覚えている。

 まるで狩りでもしているかのように、悪戯に魔物達になぶられ、なりふり構わず逃げていた為に、靴が脱げてしまった足は鋭い石や細い枝葉で傷ついて腫れあがり、それでも逃げなければ、と両手で這いつくばり、やがて爪も皮膚も破れて剥がれ落ち、激しい痛みが全身を覆い尽くすかのように満ちていて、最早声を上げる事ものたうち回る事すら出来なかった。

 その筈だった。

 ゆっくりと首を傾けて、痛みが広がらない事を確認してから、指先、手首、腕、と、順番に身体を動かしながら、呼吸を整える。

 筋肉が強張っているような鈍い痛みは感じるが、何故だか森で逃げていた時より随分と回復している、と男は思い、ゆっくりと上体を起こした。

 横たわっていたベッドは質の良い木材を張り合わせて作られたもののようで、深い飴色のヘッドボードには、花や蔓を模した銅の飾りが取り付けられている。

 シーツや毛布はとても清潔で、微かに花の香りが鼻腔を擽るが、決して心休まるようなものではない。

 あまりにも異質。あまりにも異常。

 腹の底が煮え滾るような不快感に、荒くなる呼吸をどうにか抑え込みながら、部屋の中をぐるりと見回した。

 窓は一つ、扉も一つ。

 ベッド以外の家具は無く、壁には暗い緑色の炎が灯る燭台と、埃を被ってはいるが、豪奢な金のフレームの鏡がかけられている。

 音を立てぬよう、慎重に近づいた窓には格子が嵌め込まれていて、触れるとひんやりと冷たく、その向こうは果てのない森が広がっていた。

 森での出来事を思い出しそうで、途端に背筋に悪寒が走り、男は手のひらで腕をさすった。

 一体、どうすれば良いのだろう。

 森に戻ればまた魔物に襲われてしまう。

 だが、此処が安全か、と問われれば、男は直ぐ様否定したに違いない。

 どう考えたとしても、此処は異常だ。

 抑えようとしていた筈なのに、どんどんと荒くなる息が、震えが止まらなくなる手足が、言う事を一向に聞いてはくれない。

 早く何とかしなければ、と窓から離れると、何かの声が鼓膜を震わせた。


「きひ、きひひひ」


 幼い子供のような、若い女のような、それとも違う老人のような、まるで判別のつかない不気味な声が、背後から聞こえてくる。

 暗闇を微かに照らす燭台の炎がゆらゆらと揺れていて、それに合わせて酷く鼻をつく腐敗臭が、嗤い声と共に少しずつ部屋の中に広がっていた。

 恐怖で心臓が掴まれたかのように一際大きな鼓動を打ち鳴らすと、益々呼吸は荒くなる。

 そうして、指先、腕、頭、首、の順番に這いずる様に出てきたものは、想像を絶するいきものだった。

 白いコック帽を被った頭部は三つもあり、そのどれもが性別や年齢がわからない程に腐り、崩壊していて、まるで泥のようだ。

 コック服を着た大きな身体はぼこぼこに膨れ上がり、幾つものナイフやフォーク等のカトラリーが、手足の代わりとしてそれを支えている。

 あまりの姿に叫び出しそうになった男の声は、しかし上手く音を発する事すら出来ずに、酸素を求めて喘ぐような無様な呻き声を上げていた。

 震えで動く事さえままならなくなっていた身体は、ずるずると床へと崩れ落ちてしまう。


「うまい、うまあい、ディナーをたべよう!」

「うまい、うまあい、おにくをやこう!」

「うまい、うまあい、ごちそうたべよう!」


 数人が勝手気ままに話しているかのような声に、カトラリーの金属音が重なり、酷い腐敗臭が辺り一面に漂っている。

 思わず口や鼻を塞いでしまいそうになるが、身体に溢れる恐怖で、男は指すら動かす事が出来なかった。

 いっそ、気が狂ってしまった方が余程マシだ。

 噛み合わない歯ががたがたと震え、カトラリーの金属音が、少しずつ近づいてくる。

 冷たいフォークが目の前に差し出され、見開いた瞳を品定めするように近づいて、いて。

 此処で終わるのか。

 そう男が考えた瞬間、凛とした声が部屋に響いていた。


「ボルタパ、待ってくれ」


 白銀の長い髪、白い肌、奥底まで見通せてしまいそうな程に澄んだ青い瞳。

 突然に現れた少女のあまりの美しさに、男は思わず息を飲んでしまいそうになる。

 少女は男を一度だけ見やると、庇うようにその前へと立ち、手にしていた白い包みを不気味ないきものに差し出していた。


「これをやる。だから、彼には手を出さないで欲しい」


 白い包みを開いた少女は、そっとその中身を魔物に差し出した。

 それはどうやら手のひらに乗るほどのスコーンのようで、それを見た化け物の目は大きく見開かれ、うっとりと笑顔を浮かべている。

 匂いを嗅ぐ事もせず、引ったくるような勢いで少女から奪い取ると、化け物は大きく口を開けて——信じられない事に、頭の半分がぱっくりと開いている!——飲み込むと、身体中のカトラリーを揺らして大きく頷いていた。


「これはこれは! きひ! うまあい! うまい、きひ、ひひ!」


 不気味な金属音が響く度に神経が刺激されているようで、思わず男は顔を歪めてしまう。


「さあ、今の内に」


 今までその場に縫い取られてしまったかのような足は、しかし彼女が手を引いた瞬間に、面白い程簡単に動き出して、本来の働きを取り戻していた。

 目の前で髪を揺らした少女の歩みは少しも迷いがなく、広い屋敷の中をひたすらに進んでいく。

 ほっそりとした白い指先、暗闇でも尚、眩さを失わない白銀の髪、しなやかな背中……、その皮膚から伝わる温かさは、確かに自らと同じものなのだ、と男には感じられる。


「君は、人間?」


 言いながら、こんなにも美しい少女が何故このような場所にいるのだろう、と男は思う。

 まさか魔物が姿を変えて化けているのだろうか、とも疑ったが、彼女は視線を床に落として瞬きを繰り返すと、小さく頷いていて。


「私は此処に住んでいる人間だ。人間は私だけだが、此処は安心していい」

「こ、こんな場所に、人間が住んでいる……?」


 魔物が蔓延る暗闇の森、そしてその中にある屋敷に住まう何かが居るというのなら、それは魔物達以外に他ならない。

 その森の中では、人間達は精神をまともに保っている事が出来ずに発狂してしまうと聞く。

 だとしたら、彼女が人間である筈がない。

 信じられない、と呟けば、少女は小さく笑みを浮かべている。


「私も、私以外の人間を見るのは初めてだ」


 それは何かを諦めているような、それでいて、未知のものに対する嬉しさを含ませているような、酷く曖昧な笑顔だった。

 男が動揺して足を止めると、彼女は歌うように滑らかに、言う。


「人には睡眠と食事が必要なのだろう?」


 さあ、行こう。

 再び手を引かれて、男は歩き出した。

 暗闇の奥は、まだ見えない。

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