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潮騒の浴槽

 海の匂いがする。

 それを知っている筈がないのに、少女はそうだと言い切れる程に、確信を持って感じていた。

 少女は、この国を治める男に拾われる以前の記憶を持たない。

 冷たい雨が降りしきるある日。

 気が触れてしまいそうな程の暗闇に満たされた森の中であの男に拾われ、此処へ連れてこられるまで、少女は感情さえ持つ事はなかった。

 だから、この国以外の事は何一つとして知らず、知りたいと思う事すらなく、海というものが何なのかも解らないというのに、その香りもその波音も、少女は何故か知っていたのだ。

 空っぽの部屋の中央、たった一つきり置かれた猫足のバスタブには、暗闇より深い黒に満ちた液体がたっぷりと満たされ、無数の腕が蠢いている。

 少女が近づくと、その腕はまるで嗤うように痙攣し、液体を波立たせていた。


「クエラド」


 少女が声をかけると、ごぽりと泡が浮き上がる。

 それは一つ、二つ、三つ……と少しずつ増えていくと、次第にバスタブいっぱいに広がり、蠢く腕を掻き分けるように、その中から長い髪の女の頭が現れた。

 深海のように暗い色の髪から覗く青い肌、金色に光る瞳、耳の辺りまで裂けた口には、尖った歯がびっしりと生えている。


「潮騒が、聞こえる」 「聞こえるわ」


 クエラドと呼ばれたその女の唇は一つきりなのに、耳の中で無数の声が響いてくる。

 水の中で音が届く時のようにはっきりとしない、それなのに何故か反響する、奇妙な囁き声。

 その声は少女にとって、波音のように優しく穏やかに聞こえる、とても心地良いものだ。

 少女は小さく笑みを浮かべると、引き摺っていたものをそっと傍らに置いた。


「クエラド、頼みがある」


 その言葉に呼応するように、腕は少女に纏わりつくように伸ばされる。


「嗚呼、知ってる」 「知ってるわ」


 幾つもの濡れた指先が頰に触れていても、少女は嫌がる事も怖がる事もなく、女のされるがままにしていた。

 そして、引き摺っていたものに視線をやると、困ったような笑みを浮かべて、言う。


「怪我を治して貰いたい者がいるんだ」


 腕はまるで頷くかのように小刻みに動き、それを指差したり、伸ばして触れようとしているので、少女はその布の塊をバスタブのすぐ近くにまで引き摺った。

 きつく縛っていた布を解くと、中から呻き声が響き、怯えながらも好奇心に溢れたように伸びていく腕達は、布の外側へそっと触れている。


「そう、痛いのね?」 「痛いの?」

「ああ、そうだ。痛がってる」


 肯定すると、女は口元だけをバスタブに満たした液体の中まで潜らせると、無数の泡を生み出した。

 泡はバスタブいっぱいに満たされ、やがて容量を超えて縁から零れ落ちると、その布袋を覆うように、流れていく。

 その様子をじっと見つめていた少女は、呻き声を上げていた布の中身が静かになるのを確認すると、そっと息を吐き出した。

 クエラドはその泡を使って傷を癒す事が出来る。

 少女は幾度となく、彼女の力に助けられてきたのだ。

 この屋敷に連れて来られ、住まう事を許されていながら、少女はいつも魔物達に傷つけられてきた。

 少女は決して無抵抗でいたわけではなく、元より彼らに対抗するだけの力を持っていたが、それを軽々しく使用する事も良しとはしなかった。

 それは、こうして少女に手を貸す事を厭わない者がいたからで、少女はそれをとても快く思っていたからだった。


「ありがとう、クエラド」


 少女がそう言えば、バスタブから顔を出した女は、蠢く腕の一つをその幼く丸みを帯びた白い頬へと押し付けた。

 海の香りと、生温い水の温度、さざめくような音が、少女を酷く懐かしく、穏やかな心地にさせてくれる。

 まるであやされているようで柔らかく微笑むと、クエラドは酷く悲しげな声で言うのだ。


「可愛い子、どうか泣かないで」 「泣かないで」


 少女が頰を拭うような指先に触れると、腕達は力尽きるように、ひとつ、ふたつ、と次々にバスタブへと沈んでいってしまう。

 最後に残ったひとつの手を掴んだ少女は、労るようにその手を優しく包み、ゆっくりと撫でた。

 濡れた腕は青白く、触れるとぬるりと滑るような、不思議な感触がする。

 記憶にない筈のその肌の感触は、けれど、少女にとって酷く懐かしく、優しい何かを思い出すかのようで、離すのが名残惜しく惜しく感じられた。


「泣いてはいないよ。有難う」


 そう言うと、その手も惜しむように少女の指先をなぞり、そしてバスタブに沈んでいってしまう。


「また来るよ」


 少女は布の端を掴み、この部屋を訪れた時のように扉の前へと引き摺ると、もう一度だけバスタブを振り返った。

 小さく笑みを浮かべると、少女は再び廊下の奥の暗闇へと、布の塊を引き摺りながら、ただただ、真っ直ぐに前へと歩いていく。


「嗚呼、可愛い子」 「可哀想な子」


 ごぼりと音を立てて、女の頭は再びバスタブに沈んでいった。

 泡は消え、静かな海が、バスタブの中に広がっている。

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