忘れじの七小節
聖なる夜も更け、世の子供たちは寝静まり、カップル達もお楽しみを終えたといった時間。
俺はようやく見えた自分の部屋に、痛む足に無理を押して早足で向かっていた。
年内最後の業務という事で、作業を残す事のないようにと、常に暇そうにしている上司からお達しがあり、俺が作業を終えた頃には既に終電の時間は過ぎていた。
そういう訳で、仕方なしに数時間かけて歩いて帰ってきたという次第だ。
部屋に入るとすぐ、スーツに皺が出来るのもお構いなしにベッドに倒れこむ。
汗の不快感も疲れからくる睡魔には勝てず、俺の意識は深みに落ちていった。
◇
彼女との思い出は、その多くが茜に染まった音楽室の中にあった。
放課後の静まり返った校舎。
その静寂に響き渡るピアノ。
手先の不器用な彼女の、拙い旋律が俺達の合図だった。
多くの事を語った。
学校生活の事。私生活の事。将来の事。
些細な事から大切な事まで。
どんな事でも、二人で話している時はとても楽しかった。
この時間がずっと続けばいいのに。
俺たち二人は、そんな夢物語のような事を当たり前のように思っていた。
尤も、その時語った将来の夢は、俺も彼女も叶う事はなく、どちらもつまらない仕事をしている訳だが。
◇
遠くからピアノの音が聴こえてくる。
あの頃と何も変わらない。
拙くて暖かい旋律。
急速に意識が戻ってくる。
目を開くとベッドの横、備え付けられたピアノを弾く彼女がいた。
――――――おはよう、よく眠れた?
幾分か大人びたが感じるものは変わらない。
あの日の茜によく似た眩しい笑みが、俺に向けられていた。
それだけで、疲れなんて全て忘れてしまえる。
夢は叶えられなかった俺達だけど。
一番大切なものはずっと続いている。
あの頃の思い出も、今の生活も。
このピアノの旋律を合図に進んでいる。