ボロアパートの王子様
うちのアパートは築四十年のボロ屋だ。
とてもボロすぎて、六つある部屋のうち、人が住んでいるのは三部屋のみ。
二階に住むオカリナ吹きのおじさんと、一階に住む僕、そして僕の隣の部屋に住む黒服の男。
僕の隣の部屋から出てくるその男は、気のせいかもしれないがいつも別人に見える。
皆喪服のような黒いスーツ姿なのだが、どことなく姿形が違うのだ。
そんなある日、隣の住民が引っ越すのでと挨拶にやってきた。
「こんにちは。お隣の者ですが、明日引っ越します。お世話になりました」
「はあどうも」
お世話をした覚えはなかったのだが、とりあえず菓子折りを受け取った。
僕はその人の顔を見たが、何時も見ていた人たちの誰とも記憶が一致しない。でもそんな事気にしたら負けだと思う。どうせ明日には出て行く人だ。
翌日、ガタガタ、バタバタという音で目が覚めた。
引っ越しの作業だろうと、外に様子を見る事もしなかった。
二度寝して、日が高くなった頃に外に出てみると、二階のオカリナおじさんがいつも座っていた椅子が消えている事に気付いた。
おじさんは二階の廊下の端に椅子を置き、夕暮れ時にオカリナを吹くのだ。なのにその椅子がない。
僕は気になって、おじさんの部屋のドアを見た。
おじさんの部屋は僕の部屋の斜め上だ。
あまり喋ったことはないけど、オカリナの音色は美しく、僕は何時も心地好く感じていた。
なんだか寂しくなって視線を落とすと、隣の敷地に住む大家のお婆さんの姿を見つけて声をかけてみた。
「こんにちは。僕の隣の人、引っ越したんですね」
「あらこんにちは。引っ越したのは二階の人よ。とうとうお宅だけねえ」
僕は驚いた。
二階のということはオカリナおじさんが引っ越したのか?でも昨日来た人は「隣の者」って言ってたのに。
「オカリナおじさん、行っちゃったんですか?」
「オカリナ?ああそうね。ハヤタさんのことね。そうよ。なんだかお迎えが来たんですって」
「お迎え?」
「ええ。お家の方がね。いらしたみたいよ。なんでも遠い所の出で何年もお迎えを待ってたんですって」
「そうなんですか。良かったですね。お迎えが来て」
僕は何となく空を見上げた。
僕がハヤタさんが何者だったか気付いたのはそれから三十年後、アメリカのある文書の公開の後の話になる。まあ、黒服の人たちの中にウィル・スミスはいなかったのが残念だ。
了