6.お仕事2・薬についての2つの改心(前編)
アリシアは緊張している。
今日はアリシアにとって初仕事の日なのである。
第1王子エヴァンの婚約者候補として初めてまともな善い行いを始める日であり、人生で初めて働き始める日でもある。
「おはようございます。今日からお世話になるアリシアです」
アリシアは緊張で強張った顔に笑顔を作り、診療所の扉を開けた。
庭師のエドの2度目のプロポーズは成功した。
あの日、数時間後に戻ってきたエドは満面の笑みであった。
その後、エドと共にミーシャの診療所へと行ったアリシアは、すぐにその仕事を手伝うこととなったのだった。
なお、エドには「わざと俺にきつい言葉を使って、お嬢様が諦めるなと言ってくれたおかげです」と感謝をされた。
ミーシャからは「エドにわざと厳しいことを言ってくださってありがとうございます。いざとなると弱気な人なので、もう待ってもダメかと思っていました」と言われ、深々と礼をされた。
感激した様子の2人にわざと出した言葉ではないとは、アリシアはとても言えなかった。
「おはよう。アリシアさん。今日からよろしく」
扉を開けると、ミーシャと数人の診療所の職員が迎えてくれた。
(よし、初めてだけど、精一杯やるわ)
アリシアの心は決意で満ちていた。
「怪しい男? どこですか?」
診療所の朝の準備中。
ミーシャの助手のシェリーがアリシアに掃除の仕方を教えている。
今は、外の掃き掃除をしている最中だ。
ミーシャとも相談した結果、職員達にはアリシアが貴族ということも無償で働くということも伝えられていない。呪い付きということも、伏せられている。
エドの遠縁の娘。農作業中、左手に傷を負ってしまい傷を手袋で隠している。そして病弱である為、街で働くことは初めて。
これが診療所でのアリシアである。
「あそこに座っている男よ。ほら、さっきからこちらを見ているでしょ? なんか変じゃない?」
シェリーは不安そうだ。
シェリーの見つめる先には、カフェがある。
カフェには屋外の席があり、そこに座っている人の様子が診療所の入り口から見えるのだ。
まだ朝早い時間だが、屋外の席には1人の男が座ってお茶を飲んでいる。
「そ、そうですか? こちらを見ている感じはしませんけど。も、もし不審な点があれば、親戚のエドを呼びましょう。ここは女性ばかりですし」
「そうしましょう。確かに今は、本を読んでいるみたいね。さっきはこちらを窺っているような感じだったのよ。あ、もう外は終わりのようね。あとは中の掃除をしましょう」
「はい」
そう答えながら、冷汗がアリシアの背中をつたう。
(なんとかごまかせた‥‥‥。あの男の人、エヴァン様よね? 今日は来ないで下さいと言ったのに‥‥‥)
男は商人風の服を着て、帽子をかぶっている。
しかし、帽子で隠したつもりの銀色の髪は遠目から見てもキラキラと光っている。
そして、チラチラとアリシアのほうへ向ける視線。
エヴァンに違いない。
診療所の中には職員以外は入れない。それに街中だ。
別の監視人もいることだし、さすがにエヴァン本人が監視人をするのはやめたほうがよい。
何か善い行いをしたと実感があったなら、自分からエヴァンが屋敷に来た際にも報告をする。
アリシアはエヴァンにそう言ったはずだった。
(一国の王子ともあろう方がいいのかしら? もしかして、私が思っているよりお暇なのかしら?)
ふぅっとため息をつき、アリシアは中へと入った。
エドが言っていたように診療所は猫の手も借りたい忙しさだ。
朝からひっきりなしに患者が訪れ、受付も診察室もてんてこ舞いの様子である。
古くから伝わる薬草や知識で病や怪我を治すのが診療所だ。
そこは医者のもとで修業を積んだ者が営む施設である。
資格という考えはこの国にはないから、修行を積んで師匠が独立して良いと言えば独立ができるといった感じだ。
診療所にも貴族向けのもの、平民向けのものという2種類がある。
平民向けのものでも、当然、施設の大きさや医者の経験、格によって料金が大きく異なる。
ミーシャが営む診療所は、貧しい人々のためのものだ。設備は簡素で、安価な治療費と薬代で患者を診ている。
ミーシャは貧しい人々を助けたいという一心で家を出て、数年修業をして、この診療所を開いた。
「朝からこんなに人が‥‥‥」
待合室を覗いて、アリシアは驚きの声をあげた。
アリシアがいるのは薬の調合室だ。
調合室と待合室、診察室は扉でつながっている。
「ここは、他の診療所より薬も診察代も安いからね。そうそう、調合室で働いてもらうわけだから伝えておくけど、実は最近、ちょっと心配なことがあるんだよ‥‥‥」
アリシアに答えたのは薬師のルナだ。
年配の恰幅のいい女性である。
アリシアは薬の調合室で、薬師のルナの手伝いをすることになったのである。
農民の子ども達と育ったアリシアは草にはめっぽう詳しい。
熱冷ましに使える薬草。すりおろして傷口に貼る薬草。遊びながら覚えたものだ。
もちろん、山菜が一番知っている草であるが。
こういった知識をミーシャに話したところ、ルナの手伝いをすることになったのだ。
「心配なこと? どうされたのですか?」
「ここ半年ほど、薬が盗まれているみたいなんだ。 乾燥させた薬草や煎じた薬はあの棚に保管してある。でも、どうも減りが早い」
声をひそめてルナは言う。
そして、調合室にある引き出しがたくさんある大きな棚に目をやった。
「泥棒ですか?」
「あぁ。最初は、半年くらい前に辞めた見習い薬師の仕業だと思っていたんだ。腕は良かったし、才能もある娘でね。だけど、よくここの給料の安さを愚痴っていたから、こっそりと薬を売っているのかもしれないと思っていたんだ。でも、彼女が辞めた後も薬が減っているんだよ」
「‥‥‥職員の方の仕業ということですか?」
「多分ね。診療所の鍵はミーシャ先生しか持っていないから」
「皆さんに確認は? 鍵を持っているのが1人なら、診療所が開いている時間に1人になる時間がある人が犯人なのでは?」
困った顔をしているルナを見て、アリシアの心はうずく。
危うく、「そいつは大変だ。犯人を見つけてやろうか」と言うところだった。
「‥‥‥実は、あたしは疑っている人間がいるんだ。でも犯人にも何か事情があるのだろう、改心してくれるのを待とうとミーシャ先生が言うからね。だから、この事はあたしとミーシャ先生しか知らない。あんたも犯人探しはしたらいけないよ。調合室にいる時間が長いだろうから、教えておくだけだ。絶対に他の職員に言ってはダメだよ」
「はい。それにしても、ミーシャ先生らしい言葉ですね‥‥‥」
ミーシャがそう言うなら、自分の出る幕ではないだろう。
アリシアは今すぐに犯人を探し出したい気持ちをぐっとこらえた。
その時。
「うぁーん!」
診察室から大きな泣き声が聞こえる。
4.5歳の女の子だろうか。
「苦いのは嫌」「お母さん」と泣き叫んでいる。
「まただよ。毎日のことだ。近所のミコという子だよ。気管支が弱くてね。すぐにゼイゼイと息が苦しくなるらしい。それで喉の薬をいつも出すんだが、苦いと言って吐いて泣き叫ぶんだ。親も匙を投げていてね。毎日、薬を飲ませて欲しいとここへやって来るんだ」
「あぁ、あれですか‥‥‥。たしかに苦いですね」
確かに、いくつかの薬草を煎じた喉の薬は苦い。
アシリアも苦い薬は苦手で飲めず、よく母親に怒られたものだった。
「ルナ、喉の薬を余分に作って。ミコちゃん用に多めに」
そう言い、扉を開けたシェリーの声で2人の会話は終わり、アリシアはルナの手伝いに没頭した。
昼休み、持参した弁当を食べながらの休憩中。
シェリーはまだ不安そうだ。
「やっぱりあの男、怪しいわ。もしかしたら、この診療所に盗みに入るつもりの下見じゃない? よく考えたら数日前から見かけたかも」
シェリーはしきりに今朝、カフェで見た男、エヴァンのことを話題にしている。
昼休みに弁当持参なのはシェリーとアリシアだけ。
残りの職員は毎日、近くの食堂へ食べに行っている。
(数日前からいるはずはないわ。あの人、エヴァン様だもの。私を監視人として見ているだけだわ。それにさっきはいなくなっていたから、公務で宮殿に戻ったはず)
そう思いつつ、アリシアは言った。
「あの、シェリーさん。何故、そう思うのですか?」
「だって、このあたりでは、ここが一番、貧相な造りじゃない。鍵もすぐに壊せそうだから、すぐに盗みに入れるわよ。もしかしたら、合い鍵を作っていたりしてね。ここに高い薬草もあるのを知っているんじゃない? 前にいた薬師見習いの女の子も結構高い薬草が置いてあるって言っていたわ」
「もしかしてモモの種とかですか?」
「そうそう、良く知っているわね。最近、この国でも育てられはじめたけど、元々は東の大陸の果物なのよね」
東の大陸から伝わったモモの種は薬になる。
だが、ジルベール王国ではモモの栽培は盛んではない。
外国からの輸入がほとんどの為、あまり市場でも売っておらず、高価な果物であり薬である。
「明日、あの男がカフェに座っていたら、捕まえて問いただしてやろうかしら?」
シェリーが物騒なことを言い出した。
しかし、あの方はこの国の王子ですよとは言えない。
アリシアは苦笑いをしてごまかした。
その時、アリシアはふと、あることに気が付いた。
だが、犯人が改心してくれるまで待つ、ミーシャの言葉が胸をよぎり口を閉ざした。
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