4.お仕事1・振り上げた拳を下させる(後編)
グレースは、祖父がエヴァン王子の婚約者候補の辞退を認めない理由を話した。
悲しさがこみ上げるのか、時折、グレースの目は潤む。
グレースとドミニクは元々は幼馴染だ。
成長した2人は当たり前のように恋人同士となった。
2人はヘンデル公爵家、マーシャル公爵家、両家公認の仲であった。両家は、2人の仲の良さから婚約は結婚の少し前でいいと考えていた。そして学園卒業後すぐに正式に2人の婚約と結婚の話を進めようとしていた。
しかしその話は先日、保留となってしまったのだった。
その理由は単純なものだ。
2人の祖父が仲違いをしたからである。
未だ現役のヘンデル公爵とマーシャル公爵、グレースとドミニクの祖父同士は古くからの友人同士だ。親友とも言える関係で、今でも月に1度は酒を一緒に飲む間柄である。
しかし、それぞれジルベール王国の名門貴族に生まれた2人は、友人同士でありながらライバルでもあった。
ヘンデル公爵家は、先々代の王弟が臣籍降下した家柄。領地に鉱山を持つ裕福な貴族である。
一方、マーシャル公爵家はジルベール王国で最も有力な貴族だ。
マーシャル公爵の息子、ドミニクの父は若くして宰相を務めている。娘は現王リチャードの正妃である。
リチャード国王は側室を持たず正妃を溺愛しているという。だから今後も、マーシャル公爵家は貴族の中で強い立場を持ち続けると思われる。
なお、ヘンデル公爵家には数代前に側室となった娘はいるが、正妃はまだ出したことが無い。
そんな両家の関係もあってか、ヘンデル公爵は常日頃からマーシャル公爵にこう軽口を叩いていた。
「相変わらず赤子も泣き出すような顔だな。私に娘がいれば、私によく似た天使のような顔立ちで今頃は正妃だったであろうに」
強面のマーシャル公爵をからかう言葉だが、ヘンデル公爵にはどこかにマーシャル公爵家を妬ましく思う気持ちがあったのだろう。
2人が仲違いした日。
それは、自分達の孫同士が正式に婚約すると聞いた2人が前祝だと言って酒を飲み交わしていた日であった。
2人の喜びは大きく、酒はいつも以上に進んだ。
酔ったマーシャル公爵は、いつもは笑って流すヘンデル公爵の軽口に深い意味はなく答えた。
「そうは言ってもお前の孫も正妃にはなれなかったな。つまり私の血筋のほうが顔がいいってことだ」
この言葉が、ヘンデル公爵の癪に障ったのだった。
ヘンデル公爵は「孫を嫁にもらうのは、正妃になれなかったと哀れんでのことか。正妃になれないほど容姿が悪い孫をもらってやるとでも言いたいのか」と怒鳴った。
ひとしきり、2人は言い争った。
しかし、収まりはつかず、ヘンデル公爵は「孫はお前の家には嫁がせない。王子の正妃に必ずしてみせる」と捨て台詞を放って屋敷へ戻ってきたのだった。
「そんなことがあった数日後に宮殿から使者が来たのです。まさか本当に私がエヴァン殿下の婚約者候補となるなんて。当然、お爺様はドミニク様のことは忘れろ、何がなんでも婚約者になれと‥‥‥」
「なるほど。確かにお2人が望んでも、婚約者候補の辞退はできない状況ですね」
目を潤ませながらグレースは頷いた。
「父も祖父も、ヘンデル公爵に何度も面会を申し出た。お詫びとグレースとの婚姻を望む気持ちをしたためた手紙も何度もお送りしている。だが、返事はいただけていない。父はわざわざ陛下にも婚約者候補の辞退について再確認し、手紙を出したのだが」
ドミニクは慰めるようにグレースの肩に手を置いた。
「それは、どういうことですか?」
「宰相である私の父も、謁見まで候補者が誰かを知らなかったらしい。審査があることは知っていたそうだが。候補者にグレースが含まれていたことに驚いた父はすぐに陛下に聞いたそうだ。本当に婚約者候補を辞退してよいのかと‥‥‥」
「それで、陛下は何と?」
「アリシア嬢が陛下より聞いた通りだ。だから王命だから断れないという問題も確実にない。グレースには辞退をして欲しい。今でもマーシャル公爵家、いや私は、グレースを妻へと望んでいるというのに」
ドミニクの言葉には悔しさがにじんでいる。
しかし、その言葉にアリシアはひっかかりを感じた。
あの場では深く考えなかったが、本来、王命であろう第1王子の婚約者候補を辞退して良いというのはどういうことだろう。
それも候補に選ばれてすぐに辞退しても構わないという。
考えれば考えるほど、不思議なことばかりだ。
1年間の審査の件もそうだが、宰相にも知らせずに4名もの婚約者候補を決めたのは何故だろうか?
(いけない。今はグレース様とドミニク様の問題に集中しないと)
アリシアは深い疑問に引き込まれそうになるが慌ててグレースに視線を向けた。
「グレース様のご家族はどうなのですか? お爺様と同じご意見なのでしょうか?」
「いいえ。お父様もお母様も、想い合う者同士が結婚するのが最も良いと。辞退できるなら婚約者候補は辞退して構わない、私の幸せが一番だと言ってくださっています」
「では、お爺様、ヘンデル公爵が良いとさえ言えば、婚約者候補を辞退できてお2人は幸せになれるということですね?」
「はい。ただ、何度お話しても必ず正妃になるのだとしか‥‥‥。実は、マーシャル公爵家へのお詫び状が破り捨ててあるのをお爺様のお部屋で見たのです。そこには「結婚」「許可する」という字が読み取れました。本当はマーシャル公爵と和解したいお気持ちも私達の結婚を許可してくださるおつもりもあるはずなのですが」
「なるほど。振り上げた拳が下ろせなくなったということでしょうね。こじらせてしまったとも言えますがか‥‥‥」
「えぇ。私もそう思います」
「では、課題に真面目に取り組まず、審査に落ちることとしてドミニク様に1年待っていただくのはどうでしょう?」
「私達もそれを考えました。でも、1年は長すぎますわ」
「父にも祖父にも1年後は無い、グレースを妻に望むなら今すぐにでも婚約者候補を辞退してもらい、ヘンデル公爵から結婚の許可をもらわなくてはいけないと言われているのだ」
どこか諦めたような表情が2人に浮かぶ。
2人は、1年の長さをよく理解しているのだろう。
マーシャル公爵家が急いでグレースとの婚約、結婚を望んでいるのには理由がある。
貴族の婚約者探しは学園を卒業する年である16歳までに終えることがほとんどだ。
ドミニクとグレースのような親公認の恋人同士は例外として、良い家柄の貴族ほど早く婚約者を決める。
時間が経つほど、マーシャル公爵家、そしてドミニクと釣り合うような家柄や年齢の娘の婚約者が決まってしまっている可能性は高い。
そう考えると16歳であるドミニクには1年待つという選択は無い。
つまり、ドミニクがグレースと婚約、結婚ができないのなら、早く違う女性を探す必要があるという事なのだ。
「我が国の決まりでは互いの家の当主の許可なしには結婚はできない。祖父は長年の付き合いから、ヘンデル公爵がマーシャル公爵家にグレースをわざわざ嫁がせてやるのだと言える理由があればいいと言うのだが‥‥‥」
「私達にはそれが浮かばないのです‥‥‥。もう、諦めようかとも思っています」
その時、グレースの瞳から堪えていた涙が溢れた。
1年後、例えエヴァン王子の婚約者となったとしても、ならなかったとしてもグレースには望まない結婚が待っている。
ドミニクはやがて婚約者を決めなくてはならないのだから。
そんな結末を想像して堪えきれなくなったのに違いない。
その涙で、アリシアの中にいる情に厚い小さなガキ大将が完全に目を覚ました。
もう、学園の令嬢、令息達の前で猫を被る必要はない。
何か自分が2人の為にできることはないだろうか。
(女に涙を流させる男、じじいは最低だな。単純な話なのにこじらせやがって。あたしがなんとかしてやろうじゃないか。‥‥‥学園で気を遣う必要はもうないんだ。どうせなら、散々、噂されてきた呪い付きの話と貴族の噂好きを利用してやろう)
アリシアは、よし、と気合を心の中で入れる。
良い考えが浮かんだのだ。
「少々、手荒いですが手っ取り早い方法があります。これならヘンデル公爵がグレース様を嫁がせてやるという方向にもっていけるかと‥‥‥」
小声でアリシアは自身の計画を話した。
ドミニクもグレース同様に呪いについての知識があったので、話は早かった。
話を聞いた2人は目を合わせて一瞬黙り込む。
内容が内容だ。迷うのは無理はない。
しかし、すぐに決意がこもった声が返ってきた。
「わかった。ヘンデル公爵さえ首を縦に振ってくれるなら私は何でもする」
「ドミニク様‥‥‥。私もです。別の女性と踊るドミニク様を見るのはもう嫌です。私もアリシア様の考え通りにいたしますわ」
「では、実行いたしましょう。‥‥‥ったく、年寄りが。振り上げた拳は自分で下ろせよな」
「アリシア様?」
アリシアの口からは気持ちが昂ったせいか思わず地の言葉が出てしまった。
グレースは涙で濡れた瞳を不思議そうに瞬かせた。
「な、なんでもありません。人通り的に今がよいはずです。人が少なすぎてもダメですし、多すぎても大事になるかと。先ほどお話した通りにお願いしますね」
2人はうなずき、計画通りの位置へとつく。
グレースはベンチの上にぐったりとした様子で下を向く。
ドミニクはベンチから少し離れた位置の木の陰へ。
アリシアは立ち上がり、左手の手袋を取ると素早くパーティバッグの中にしまった。
「あら、グレース様、ご気分が悪いのですね! 大丈夫ですか!」
周囲に聞こえるような大きな声でアリシアは叫んだ。
その声で、裏庭にいた生徒達が話をやめ、アリシアのほうを見た。
おおよそ14、5人くらいだろうか。
十分な数だと思いながらアリシアはまた叫ぶ。
「あぁ、誰か! グレース様が!」
何事かと、生徒達はアリシアとグレースの近くへと集まり出した。
その様子を横目でチラリと見ると、アリシアは大げさな動作で左手を高く上げた。
「あれ、あぁ、手袋が木に引っかかってはずれてしまったようですわ! どうしましょう!」
左手の手袋はカバンの中だ。
わざと左手の甲、逆五芒星が見えるようにすれば、誰もグレースを助けには入らないだろうとアリシアは考えていた。
逆五芒星を見ると不吉なことが起こる。
逆五芒星が人の体に触れれば、魂が穢れて死後に神の元へと行けなくなる。
そんな噂が囁かれているのだから。
逆五芒星を見た生徒達はどよめく。
中には目を逸らす者もいる。
そんな時、木の陰に隠れていたドミニクが2人の傍へと駆け寄る。
「グレース、大丈夫か!」
「あぁ、ドミニク様。助けてください。グレース様のご気分が悪いようで。あれ、安心したら立ち眩みが!」
アリシアの言葉はまるで芝居の台詞だ。
台詞を言い終わったアリシアは、ふらふらとドミニクのほうへと歩み寄り、手の甲を胸に付けるようにドミニクの体へと倒れこんだ。
「あぁ、私、呪いの印でドミニク様に触れてしまいましたわ。グレース様、どうしましょう」
再び芝居がかった口調の大声が周囲に響く。
アリシアは同じ口調で言葉を続ける。
「いいことを思いつきましたわ! グレース様、元々は貴女を助けようとしてこうなったのです。呪いで穢されたかもしれないドミニク様と結婚して差し上げればよいのです」
次に言葉を発したグレースもまた、令嬢らしからぬ大声である。
「そうですわね。私、エヴァン殿下の婚約者候補を辞退して、ドミニク様と結婚いたします。呪いで穢れてしまったかもれしれないのですね。これは、ドミニク様を助けるためですわ。呪いで穢れたかもしれないとなれば、結婚相手を探すのに苦労されるでしょうから」
「まぁ、さすがヘンデル公爵家のご令嬢ですわ。なんてお優しい」
「グレース、ありがとう」
ドミニクとグレースは手を取り合い見つめ合う。
これで計画は終了である。
(よし、邪魔も入らずうまくいった。あとは、こいつらが噂を広げてくれるのを待つだけだ)
アリシアの心の中で満足そうに小さなガキ大将が頷いた。
「では、後はお2人で。‥‥‥グレース様、お爺様にこれを理由に拳を下ろすように仕向けてください」
「はい」
「ドミニク様は、お爺様、マーシャル公爵にヘンデル公爵が温情でグレース様を嫁がせてやると言ってきたら話を合わせるように、状況によっては、ご自身から穢れた孫と結婚してくれと言ってもらうよう頼んでくださいね」
「わかった」
小声でそう話した後、アリシアは2人に背を向けた。
集まった生徒達は、しばらくひそひそと話をしていたが、アリシアが去るのを見て騒動が収まったと思ったのか、その場から散って行った。
明日には、貴族社会にグレースが呪いで穢されたドミニクの為に第1王子エヴァンの婚約者候補は辞退するというような噂が広がるだろう。
(呪いの穢れは嘘だけど、例え噂でも温情でマーシャル公爵家と婚姻を結ぶのだ言えるような状況を作れば、ヘンデル公爵も拳を下ろせるでしょう)
ふぅっと深呼吸をして歩き出したアリシアの前にふいに1人の男性が立った。
「ひどい茶番だったな。しかも3人とも大根役者だ」
「エヴァン殿下‥‥‥どうして‥‥‥」
突然現れたエヴァンにアリシアは驚いた。
この場にいるはずもない第1王子である。
彼はパーティ会場で令嬢達の視線を浴びながらにこやかな笑みを浮かべているのが似合っている。
(な、何の用だよ! 茶番だと!)
驚きのあまり地の言葉が飛び出しそうになり、アリシアは口を押えた。
そんなアリシアの様子をエヴァンは気に留めるでもない。
先ほどの出来事を自分が見ているのは当然だという態度だ。
「でも、なかなか良い考えではある。グレース嬢が温情で穢れたドミニクと結婚をしてやるという噂がヘンデル公爵の耳に入れば、あの老人はにやりと笑い拳を下ろすだろう。彼は魔法にも呪いにも詳しいはずだしな。アリシア嬢、先ほどの茶番の意図はそういうことだな?」
「は、はい。その通りです。あの、いつから見ていらしたのですか?」
「アリシア嬢とグレース嬢が会場を出てからずっとだ。では数点、確認させて欲しい」
「確認? 何でしょうか?」
「マーシャル公爵家が不利益を被るとは思わなかったか? 穢れていると噂が立つ可能性がある。ドミニクの出世に影響が出ることを考えなかったのか?」
「それは‥‥‥、呪いは他人に影響は無いと魔法使いも神官も言っています。その言葉より噂が強いだけですから。それにこの国で最も強いお立場の貴族、マーシャル公爵家のこと。良くない噂が立ったとしても影響はないかと思いました。不利な噂など消すことができるお立場ですから」
「では、ヘンデル公爵家が穢れを嫌がる可能性は?」
「それは無いと思いました。グレース様はお爺様の影響で呪いを怖がっていないとおっしゃっていました。むしろ、殿下が先ほどおっしゃったように本当に振り上げた拳を下ろしたいのなら噂を利用されるかと思いました」
「あともう1点教えて欲しい。アリシア嬢が非難されることは考えなかったか? 呪いでは穢れない、嘘を言っていることになる」
「私達は、呪いで穢れたかもしれないとしか言っていません。何かあれば、小娘が焦ってそう口走ってしまったと言い訳するつもりでした。見た目はわざと行った行為ではございませんし、本当は穢れないのですから非難はされないかと。また、非難されたり罰せられた場合はマーシャル公爵側が呪いの穢れを認めた事になりますから、それもないかと」
「なるほど。少々、詰めが甘い気もするが咄嗟に考えてのこと。さすが、学園を首席で卒業するだけのことはある。うむ。よくわかった。愛し合う者同士を正しく結びつける、これがアリシア嬢の考える善い行いということか」
「えっ?」
「この件は、国王陛下へ報告をすることとする」
「あの、何なのでしょう? エヴァン殿下はどうして、このようなことを?」
「それは、私がアリシア嬢の監視人だからだ。婚約者候補が行った善い行いを確認し、報告する義務がある」
「‥‥‥!」
第1王子エヴァン本人が、自分の監視人。
そんなことがあるとは微塵も思っていなかったアリシアは絶句した。
お読みいただきありがとうございました。