目的のための些細な犠牲
硬い床を、厚い靴底が何度も叩く音が聞こえる。
瞼が重い、体が動かない。
これは比喩ではなく、手首と、足首は、拘束され目隠しをされている。
肌を通した触覚からは、肌寒さだけを伝え、それまで感じていた布を纏う感覚は消えていた。
私は今何が起こっているのか全く分からなかった。
唐突に目隠しが外される。
「おはよう」
逆光で表情がよく見えないが、歪んだ口元だけは網膜に焼き付いた。
「君は──少しばかり人を信じすぎる、欠点だよ?これは」
私はただ混乱していた、思考は巡るばかりで答えに到達しない。
「名前も知らない他人に魔術をかけさせるなんて……お人よしが過ぎるんじゃあないかい」
興奮しているのか、その声はすこし上ずっている。
「少し体を調べさせてもらったが──、君には魔術回路も魔素も存在しない、興味深い──」
必死にもがく、手足の拘束が外れない。
「それにその胸元の呪印──、かな。奴隷刻印に似ているけれど、機能していない。あぁ、わからないよね」
失った記憶はどうなったんだ?どうして拘束されてるんだ?
「っ、おい!なんだこれ!?早く拘束を外せ!」
無力にも拘束された手足は、金具同士を打ち付ける音に霧散する。
聞く耳持たずといったような風体で、仰向けにされた私の腹部に手を這わせる。
「おいおい、君はもう客人じゃあないんだから言葉遣いは気を付けたほうがいいよ?」
何を──。
「私の専門分野は魔術ではあるが──、記憶に干渉する魔術は得意分野ではない、そもそも記憶操作…脳の再構築は魔術では不可能だよ、それはもはや魔法の域に達している」
ペラペラと知識を喋り、止まらない。
「私の専門分野はねぇ……、構造把握魔術及び四型移植魔術──それから催眠魔術」
無駄に長い解説で、混乱が覚めてくる。
「……どうするつもりだ、拷問か?それとも快楽殺人か?」
「フフフ……」
悪魔のような笑みを浮かべながら、割れ物を扱うように私の頬を触る。
「なに、簡単な事さ。ちょっとばかり私の研究に手を貸してほしいんだ。魔素欠乏症の話はしたよね……あれはね、病気の症状で死ぬのが6割、魔術回路の移植による拒否反応で死ぬのが3割、移植の後遺症で死ぬのが1割なんだよ」
何を言っているんだ、こいつは。
「私は、理不尽な病気で死にゆく人々を見てきたんだ。それはね──、ひとえに魔術研究への怠慢と、腐った組織による殺人だったんだ。助けられるのに、──私の弟は死んだ。」
彼女から表情が失われていく。
「君は少し、弟に似ている」
急に笑みが戻る。
「その後、私は破門されてね、今では後ろ盾も無いハグレの魔術師さ」
完全に自分の世界に浸ってしまっている、これではもはや独り言だ。
「最近、私の研究は停滞していてね……、どうしても定着後の拒否反応が緩和できないんだ」
漠然とした恐怖。こいつの思考回路が全く見えない。
「そこで、視点を変えて魔術回路の存在しない屍鬼に移植してみたんだ──そうしたらね、なんと!成功したんだよ。後遺症も発現しなかった」
「でも、屍鬼は腐り続けていたから、処置後の反応を見ることは、ほとんどできなかったんだ。最後は自分の魔術で消し炭になっちゃって、魔術回路も保存できなかった」
屍鬼……?ゾンビか何かなのか……?
「だからね、キミみたいな魔術回路が元から無いのに生きてる人間は私にとって奇跡みたいな存在で──」
それまで、虚空に向けて喋り続けていた女は、急にこちらを向く。
「これまで頑張ってきた私へのご褒美なんだって思ったんだよ」
うすら笑いの表情は、私にとって悪魔の表情に酷似していた。
独りよがりな自分語りを聞かされながら、不安が脳裏にこびりついて離れない。
「助けてぇ!誰かぁ!助けてぇぇぇ!」
必死に叫ぶ。
この部屋の、白く厚い壁に阻まれて、悲鳴は霧散する。
「助けてぇ!ああぁ!」
拘束具の金具が金属音を発し、反響する。
「【シェルベール・セイレント】……これから、よろしくね」
上唇と、下唇が、意識を拒み。閉ざされる。
口が縫い付けられ、必死に叫ぶも体内で反響する。
「騒ぐ以外なら喋れるようにしてあるから。……体の異変が起きたら口頭で伝えてね」
「んん゛んんん゛んん゛!」
絶対にヤバい、逃げないと、実験動物にされて、捨てられる。
必死に叫び続けた。
それから、何度叫んだのだろうか。
心が折れるのに、そう時間は必要じゃなかった。
恐怖に心を潰されそうになると、呼吸が荒くなり、奥歯を噛みしめて耐える。
なんとか解決策を模索し、虚無感にとらわれる。
それの繰り返しだった。
「さて、準備ができたよ。魔術回路をキミの神経に癒着させるから、少し痛いかもね。我慢してがんばろっか」
「……」
もう抵抗する余力は残っていない。
「術式解凍。使用するのはヴェリチア系パレンティア人の38型魔術回路、及び中期型リミン骨髄液。触媒にソーサリー、胤式魔鉱石」
何色かに煌めく粉末を、体の隅々に噴霧される。
「滑車の臓物──、胡椒を砕きて──、始まりの洞を転導す。……魔力伝達」
私の中身が透き通り、四肢に無数に這う紅い螺旋が輝く。
胸元のキズが、煌々と光る。
「……この呪印の術式が、もともと存在しない魔術回路を這っていたのか」
ぶつぶつと呟いている、声は私の鼓膜を震わせるが、言語野には到達しない。
「移植開始」
彼女は手をかざし、瞼を閉じる。
【ネビュラス・イデュリア・フェレメンティア】
私のみぞおちに、手のひらを落す。
彼女が私に触れると、細い糸が私の肌を這い始める。
そして、糸たちは私に溶け込もうとする。
肌が糸を避けるように、体に埋没していく。
体内に異物が入る感覚。
寄生虫に、体内を食い散らかされるような、歪な感覚。
骨を這い、肉をちぎり、血管を巡る。
脳が異物を追い出そうと、内なる悲鳴が鳴りやまない。
ビクビクとのたうち回る様子は、まな板の上の魚を思わせる。
瞳が、瞼が、口が、喉が、異常に開き、狂う。
「……ぁ………、ぅ…ぇ……」
声が出せない。
息ができない。
苦しい。
感覚が鈍くなる。
何も考えられなくなる。
鈍い痺れ。
体が弛緩する。
色が消える。
意識も消えた。