こんなところに居たくない
眠気から目尻を擦ると、指が湿り気を帯びる。
瞼が涙で、濡れている。
「……泣いていたのか、私は」
女性特有の、艶のある透き通った声。
その声自体が、あの〝夢〝が事実であることを物語っていた。
───うるさい、黙れ。信じないぞ馬鹿が。
周囲を見渡すと、昨日から代わり映えのしない、うっそうと茂る木の大群。
立ち上がり、振り向く。
ぐに
つま先に、やわらかい何かが当たった。
異物を確認しようと、視線を下に向ける。
うっ。
……これ、は。
視界が揺れ、動悸が早くなり、顔が引き攣る。
目を逸らしてしまいたい。
見覚えのあるこいつは、この顔は。
それは見紛う事の無い、夢で見た。
自分自身の顔だった。
死んだように横たわる、その姿には現実感はくみ取れない。
こんなこと、有り得ない。
なんなんだよ!なんでなんだよ!?
おかしい、意味不明だ、理解不能だ、不条理だ。
夢なんて信じるな!
たまたまだ!偶然だ!ただの空似だ!
何度見たって結果は変わらない。こいつは、ただそこに在るだけ。
涙腺から、汗腺から、鼻腺から、口腔粘膜から、全てが流れ落ちる。
「んぅぐっ……あぅうっ……」
何度、こんな気持ちを味わえばいいんだ。
いったい何回、私は。
「やめろよォ!もうたくさんだァァッ!」
既に精神は崩壊の一途を辿っていた。ここには動物がいた。
絶叫で恐怖を振り払おうと、もがく。
「私は私だ!他の誰でもない!私が私なんだ!!!誰にも否定させないんだァッ!」
こいつが。
こいつがこいつがこいつが。
私を否定する、私が私である証明を覆す。
呼吸が荒くなる、唾液が気管に入りそうになって、むせる。
「うぁっぅぐえっ!ゲホッ……」
必死で呼吸をしようと、横隔膜を広げるが、十分な酸素は送られてこない。
「ぅうぅぅぅう……」
敬愛する神様が創造なさった、素晴らしき我が肉体です。賛美されるべきなのです。
決心した、決断した。
必要以上に腕に力が入り、首筋から添わせるように〝私じゃない私〟の首を掴む。
血管の脈動を、手のひらに感じる。
……ふざけるな、私が苦しんでいるのにこいつは!
こいつはのうのうと生きていやがる!!
締める力に、およそ全ての。全身全霊を込める。
馬乗りから膝立ちになり、腕に体重をかける。
奥歯を噛みしめる、荒い呼吸で汗と唾液が飛び散る
〝私じゃない私〟が鯉のようにパクパクと口を開閉させ、虚ろな目が震える。グルんと一回転し、上を向く。体が痙攣している、上を向いた眼球の目元には、涙が溜まっている。だらしなく開いた口元から泡が吹き出し、力なくこぼれる。
私は神の従順な下僕、全てを捧げるために生きなければならないのです。
木々のざわめきが聞こえ、感覚が鋭敏になり、自分を遠くに感じる。
私は恐怖と興奮の中、正常に呼吸できなくなっていた。
「っ、っは、はぁぁ、はぁ、うぁ、ん、うぐ、ぁ、ぁぁあっ……」
殺した
絶対に死んだ
いつの間にか手のひらから感じる脈動が消えていた
反射的に手を放す
呼吸を必死に整える
「っん、ぅぐっ、はぁ、はぁ、はあぁ……」
腰が抜ける。受け身を取る腕に、枯れ葉が被る。
……死体が失禁していた。
死んだ。
殺したんだ、殺しちゃったんだ。
熱っぽい頭から、高ぶった血が、スーっと抜けていく。
アドレナリンが切れると、現実に気づかざるを得ない。
「あ、ぁ」
殺したんだ、人を、命を。奪ったんだ。
最低だ……。
「っ、ぅううぅぅうぅぅ……」
頭を抱える、ぎゅっと目を瞑る。
違う私は悪くない、仕方ない、嫌だ、怖い、ふざけるな。
私は私だ、私は生きてるんだ。これは偶然だ、不条理だ。責任は無い、こいつは死んで当然なんだ、全部世の中が悪いんだ。
私は自問自答から逃げるように、言い訳の言葉を連ねる。
そんなことをしても、罪の意識からは逃れられない事は自分が一番知ってるのに。
必死に逃げる。
「……違う!違うちがう違うちがうゥ!私は悪くないんだ!!しょうがなかったンだッ!」
弁解する相手もいないのに、必死に言い訳を繰り返す。
「私は悪くないッ!私は悪くないッッ!」
子供の様に、論理の破綻した言い訳を叫ぶ事で、精神を保とうとしている。
「……そうだ!そうなんだよ、こいつは生きてる!生きてるンだッ!!」
死体に近寄り、生死を確認する。
そんなのは無意味だ。確実に死んでいた。生きているはずがない。
数十分間首を絞めていたんだ、死んでいるに決まっている。
死体の脈に触れる。
───少し生暖かい。
「……ぇ」
脈がある。ドクドクと、一定のリズムで血管が蠢く。
驚愕した。
なんで……?
絶対に死んでいた!それだけは言い切れる!
こいつは一体なんだ!?なんなんだっ!?
恐怖で頭が悲鳴を上げると、ひっきりなしにここから逃げろと潜在意識が警告してくる。
化け物だ……。
死なないなんて、有り得ない……。
ふらつく足で逃げ惑い、あてもなく全力で疾走する。
木の根に足が引っかかり、こける。
立ち上がる。
走る。
奔る。
はしる。
一心不乱に走ったせいで、呼吸がおぼつかない。
のどがカラカラに乾く。肺が悲鳴を上げる、息ができない。
それでも走った。
走った。
数十分走った後、遂に肺が焼け、必死に息をしようとあえぐ。
芋虫の様に肺がうごめく。
脳が呼吸しろと指示を出している。心臓と肺が張り裂けるぐらい動いているからなのか、全ては伝わらない。
あいつは私だった、そして女だった。
今更だ。
……実のところは記憶喪失して起きた時から、最初から気づいていた。
男なら、無ければならない生殖器の感覚もない。
身長も低い、体も細い。
なで肩で、体も柔らかい。
繊細で流麗な体のライン。
流れるように四肢が伸びる。
胸も丸みを帯びていて、先端にはふくらみの突起がある。
そんなこと……。
そんなことは感覚で、最初からわかっていたんだ。
それでも確認してしまったら、認識してしまったら。
認めざるを得ないじゃないか。
自分が全く知らない世界で自分が全く知らない体で、自分のことを一つも覚えていなくて。
ただ一つ感覚として残っていた男であるという自覚。
それを失ってしまったら。
すがるものが無くなる。
自分が自分である証明ができなくなる。
怖かった。
苦しかった。
だから殺した……。生きていたけれど。
自分が自分でなくなる。アイデンティティが崩壊する。
ありがとうございます神様、祝福に感謝致します。
罪を知らぬ私に、いったい何を贖罪させる気なんだ。馬鹿が。
神様ほど博識で聡明な方を私は二人と知りません。
くそったれ。
もう、どうだっていい。
生きるのをやめよう。生きる意味が無い。
自分を見失って、残ったのは絶望と虚無。
そもそも一度死んでいるのに、生きているなんて他の死者たちに不公平じゃないか。
理不尽なんだよ、何の理も無い。
生きることは贖罪だと?馬鹿げている。
そうです、生きることは贖罪で、それ故に尊いのです。
ならば死ぬことは逃避なのだろうか。知らない。
もうどうだっていい。
逃げていいじゃないか、負けていいじゃないか。
虚ろな目で徘徊する。亡者のように、猫背で足を引きずる。
生きる気力が無い。
同時に死ぬ気力も失い始めていた。
じっとしていたって死ぬんだ。もう動かない。
湿った岩の陰に身を隠し、四肢を放り出す。
それは無気力が故の自然な行動だった。
怠慢な自殺。虚空を見つめ。口をだらしなく開け。体から力を抜き、生を放り出す。
そうしてるうちに、考えても死ねないことに気が付いたので、無になった。
神への憎悪の中私は消えた。
何日経っただろうか。
辛うじてまだ生きている。
口の中に砂の味がする。頬から土が崩れ落ちる。
髪も泥と砂にまみれていて、以前の白く透き通った美しさは見る影もない。
素晴らしき肉体は、我らが創造主によって作られました。
信仰を捧げましょう、救いこそ平等なのです。
ふと、栄養の回っていない頭が、人工物の音を感じ取った。
車輪の音。大勢の靴の裏の音。怒鳴る男の声の音。
近づいてくる。
目の前まで来た。
大声で怒鳴る声の音。数人が私に寄って来る。
手首をつかまれる。鎖の音がする。
じゃらじゃら、じゃらじゃら
両手が重い。手首を乱暴に引っ張られる。
ぐしゃ。
地面と体が擦れる。ピリピリ痛い。砂の味がする。
古臭い荷車に乗せられる。
重い扉に施錠される音が聞こえた。
荷車が進みだす。振動が凄まじい。
体の芯から揺さぶられる。
たまらず倒れる。
すると、鼻腔から死臭。
虚ろな目で薄暗い周りを見る。
それは亡者の山だった。
向かい合いの座席に、理路整然と並んでいる。
全員、鎖に繋がれている。
みな一様に、生きる気力が感じられない。
絶望の瞳。何もない空間をひたすら見ている。
死ぬ気力も感じられない。
我らが神を信仰しない。故にこの地での罰を受けているのです。
贖罪し、許しを乞いなさい。
結局変わらない。人間なんて行き着く先はここだ。
この終焉を誰もが消極的に受け止めていた。
身なりの整った女もいた。
私よりも汚い男もいた。
怠慢な自殺をする集団。
ガタン
衝撃の振動で体が跳ねる。
……止まった。
重い扉がギギギと開く。扉の間から救いの光が、眩しい日差しが差す。
この日差しも、この生命も皆、創造主がお創りになられました、故にこんなにも心に感動を与えるのです。
たまらず目を背け、消えそうな生命力で瞬きをする。
また新たな亡者が収容されるのだろうか。
そんな奴何人乗ったって運命は変わらない。
だが、現れた人間は予想と違った。
風がふわりと彼女を撫ぜる
光から姿を現したのは、見るからに強く気高い、生命力を持った女だった
瞳から意思をを感じる。整った顔。鼻目立ちも良い。
整えられたくせ毛、桃色の長髪。
高価ではないにしろ、気品のありそうな洋服の一端からも、その格が感じ取れた。
美しい。
ただ純粋にそう思った。
長髪がたなびき、その手には鎖がつながれていた。
似合わない、まるで至高の絵画に値段を付けようとしている様な歪さ。
荷台の鍵輪に鎖がつながれる。
がしゃん、じゃらら。
鎖の音に合わせて、命の蝋燭が揺れる。燃え尽きそうになる。
全ての血管から血がずずっと抜ける。
じゃらじゃら。
しゅわしゅわ、脳細胞が溶ける。
じゃらじゃら。
腐った果実が枝から落ちる。
しこうがとおのく、じぶんがきえそうになる。
ああかみよ、あわれなるげぼくをおすくいください。
そうか、やっといけるのか。
あんどのなか、わたしはまぶたをとじた。