「予期せぬ出来事」第一話
苦い気分のまま見上げた建物の外観は三階建て。一階の見える範囲は車庫になっている。指定された場所は二階を入ってすぐの右手だ。恐らくウッドデッキのある部屋なのではないかと当たりを付ける。
泣き疲れて眠ってしまった和馬を抱え直して、どう入ればいいのだろうかと、統太は首を傾げた。スマホを取り出したくても、眠った和馬を抱き上げたままでは難しい。
約束の十一時はもう過ぎている。とにかく建物に近付けば何とかなるだろう。
歩き出すと、車庫の傍らにスーツを上品に着こなした老紳士が立っているのに気が付いた。紳士も気付いたのか歩み寄って来る。
「初めまして。大隅辰水と申します」
統太はこれがあの会話の主かと繁々と見つめてしまった。
細身の長身。
想像していたよりも見た目はお堅い感じがする。
気の弱い会社の役員といった感じだろうか。
物腰は柔らかい。
頭髪は真っ白なのだが、
背筋はまっすぐに伸びているし、
歩調もしっかりとしている。
「初めまして。勢多統太です。今は眠ってますが、こいつは息子の和馬です」
子供を抱いているので許されるだろうと思いながら、統太は首から上だけを下げて簡単に挨拶を済ませた。
「では、貴方と息子さんのお二人が同居希望者ですね」
大隅が喋りながら車庫の合い間を進んでいく。統太はそれに続いた。一番奥にエレベータがあり、ニ階へ上がると賑やかな声が扉越しからでも聞こえて来た。
「こちらですよ」
エレベータを降りてすぐ右手の部屋のドアを大隅が大きく開けた。
――皆さんってコレか。
案内された部屋には様々な人がたむろっていた。
子供が走り回り、それを見ながら談笑する大人。
騒がしい中でも自分を貫き通して本を読む人や、
システムキッチンで料理をしている人。
いったい何の寄り合いだという感じだ。
はしゃぐ子供たちの声で、統太に凭れて眠っていた和馬が目を覚ました。目を擦って暫くぼんやり辺りを見回すと、降ろしてくれと言うように上着を引っ張る。靴を脱がせて降ろしてやると、現場に怯んでいる統太の手を振り払い、和馬は子供仲間に入る為に危なっかしい足取りでフロアを走り出した。
「ああ、和馬ぁ! せめて自己紹介をしてからにしてくれ!!」
止めようと伸ばした手が虚しく宙に浮く。慌てながら自分の靴を脱いでいると、からからと明るい笑いが聞こえた。
「おー、坊主は元気だなぁ」
背中にどんと大きな衝撃が来る。掌で勢い良く叩かれたようだ。衝撃で咳き込んでいると、襲った主はそれを見事に無視して統太の正面に回り込んで来た。
「おめえさんが、辰水のおやっさんの言ってた人だな」
――おやっさんって。大隅さん、見た目は温和そうなのに、ヤクザかなんかなのか。
場に飲まれて統太の頭は訳の判らない判断をしているらしい。
目の前の人物は、いかにも昔の体育会系教師といった感じの、がっちりした体形をし、しかもジャージ姿である。
「羽鳥慎之介だ。で、こっちがコレ」
そうして右手の小指を立てて近くの女性を引き寄せる。一瞬、その女性が嫌そうな顔をしてから、勢い良く男性――慎之介の頭をひっぱたいた。痛がる慎之介を無視して何事も無かったかのように彼女は華やかに笑う。
「妻の梅子です。宜しくお願いしますね」
――こ、怖い。
統太は思わず半歩引いた。
「危ない」
下がった所に誰かがいたらしい。
振り返るとグラスを両手に持った女性がいた。長い髪を一つに束ねた、気の強そうな美人だ。ただし、洒落っ気は全くない。
「飲み物。あなたに持って来たんだけれども、掛からなかった」
そう言って彼女はお茶の入ったグラスを差し出した。頷きながら受け取ると、彼女はグラスを掲げる。
「神木早弥。宜しくね」
掲げたグラスを統太のものと合わせると、触れ合ったグラスが小さく音を発てた。その音を聞いてから神木は颯爽と和馬の元へ向かった。
――何だか俺よりも男前な感じだなぁ。
ポカンとして棒立ちのまま見送っていると新たな声がある。
「何かヤワい兄ちゃんってタイプだなぁ」
軽い感じの嘲りと認識して、統太が不愉快さ丸出しで振り返ると、明るい茶髪の青年が立っていた。
「そう思っても口にするなっ」
ばこっと大きな音がすると、目の前で青年が頭を押さえて蹲る。声の主は金に近い程に脱色した髪の女性。手にはチェーン付きの長財布が握り締められている。
「テメェ、亭主を殴るな」
「躾けてんだ、文句言うな」
女性が自分の連れ合いの頭を押さえ付けるようにして頭を下げさせる。
「高井戸響と春佳。この無礼者と一応夫婦なんで、セットで覚えて欲しいっす」
「無礼者って何だよ」
「初対面相手に兄ちゃんとか、あり得ねぇだろうが。もう族じゃねぇんだからいい加減直せ!」
――ここの夫婦は皆こんななのか。
後悔と不安が綯い交ぜになり、へたり込みそうだ。
「しっかりダメージ受けちゃってますね。椅子、ありますからこちらへどうぞ」
システムキッチンで作業をしている男性からだった。横の楚々とした愛らしい風情の女性も丁寧に頭を下げる。強烈な女性を続けて見てしまった統太は、初めて普通の女性を見たと思った。
「駒井史子です。今日は主人の彰人と二人でお昼を作りますので。お口に合えば良いのですが」
はにかみながらの言葉に統太は安堵した。が、それはほんの一時の事だった。
「春菜、秋穂、夏弥! 一緒に遊んであげるのよ」
子供に向かって大声を出すのは流石母親と言うべきか。だが、いきなり近くで聞いた人間には少し心臓に悪い。
「済みません、状況が読めない嫁で」
彰人が恐縮したように統太へ頭を下げる。
「いや、大丈夫です。驚いただけですから」
言ってから、受け取っていたグラスの中身を一息に呷る。空のグラスをどうしようかと迷っていると、彰人が手を差し出したので、礼を言いながら手渡した。
一息ついて、和馬と一緒に遊んでいるのが駒井夫妻の子供達であると気付き、今度は統太が史子に頭を下げる。
「息子に気を使って頂き、有難うございます」
「いいえ。お子さんお幾つですか」
「二歳半になります」
「夏弥と同じくらいですね。お友達になるといいですね」
駒井夫婦と統太は一緒に子供たちに目をやった。和馬が三人の後を付いて歩いている。自分の前にいる同じくらいの歳の子供を捕まえようと手を伸ばしていた。
「あ!」
統太が思わず声を上げた。
和馬が急に目標を変え、両親らしき大人の影に、隠れるようにして立っている小学校高学年程の少年に抱きついたのだ。彼は困ったような顔をしているが、近くにいる男女は気付いていないのか、興味が無いのか、互いに喋るでもなく退屈そうに立っているだけだ。
「全く、あの夫婦は」
太い声が統太の耳に入る。
意思が強そうな目が印象的な白髪交じりの男性が近くにいた。どうやら両親が己の子供に無関心なのを気にしているらしい。
「何を見てる」
統太に気付いて挑むように睨みつけ、不機嫌そうに文句を吐き出す。
「済みません。あ、あの、勢多と言います」
迫力に押されて慌てて統太は頭を下げた。それから自己紹介をすると、男性が渋々と言った体で応じる。
「ああ、緒方光林だ。清香」
光林がやや離れた位置にいた女性に声を掛けた。清香と呼ばれた若い女性が、先程挨拶をした神木との会話を中断して駈け寄ってくる。娘さんだろうか。
「挨拶しなさい」
光林に言われて清香が姿勢を正してお辞儀をした。
「光林さんの妻で清香と言います」
「へ、妻?」
統太から間抜けな声が出る。
――歳の差幾つだ!
清香の年齢は恐らく自分より二・三歳は若いのではないだろうか。何を好き好んでこんな頑固そうな、しかも親子程、いや、それ以上も歳の離れたオヤジと一緒になったんだ。激しく気になる。
頭の中で逡巡していると、統太の心が読めたかのように清香が言った。
「やっぱり驚きますか」
慣れてますと言った感じの笑顔だ。
「あ、いや、まあ、正直に言うと驚くというよりも何で、と――」
そこまで言って統太はしまったと口を押さえた。
「平気平気。みんな聞くから。ね、光林さん」
清香が仏頂面の光林に腕を絡ませた。清香にされるがままの光林が統太には意外だった。
――もしかしなくても、この人は奥さんの尻に敷かれてる。
などと、失礼千万なことを思ってしまい、光林からこっそりと視線を逸らす。逸らしながら後ろめたさをはぐらかすように会話を継いだ。
「あの、緒方さん。あちらのご一家はどういった方々なんですか」
和馬はまだ件の小学生の所に貼り付いている。何か問題があるなら和馬をこちらに呼び寄せた方がいいかもしれない。
「宗谷一家か。あの夫婦はどうもイカン。こういった集まりでも話しの輪に入らん。子供は親に倣って騒げないときてる」
光林が憤ったようにぼやく。
「光林さん、あんまり怒らないで。歩くんなら私がこっちに呼ぶから」
清香が宥めるように言うと、光林は渋々黙った。
「歩くん、少しお手伝いをお願いしたいの。一緒にいる子とこっちに来てくれないかな」
小学生が無気力な表情で声の主を見た。
子供らしくない、何処となく疲れ切った顔に、統太は顔を顰めた。和馬がその子を心配そうに見上げ、上着の裾を引っ張っている。そんな二人を清香が手招きして呼び寄せた。
「史子さん、苺のヘタ取り、この子たちにやってもらってもいい?」
了承を得て、子供達を近くの床に座らせると、洗った苺とボウルを渡す。
歩が真面目に作業を始めると、和馬も見よう見真似で同じように手を動かし始めた。その様子を確認してから統太は部屋の中をぐるりと見回した。
慎之介さん、こちらで書きかけの作品の番外編で、教師時代を書いてたります。
情けない事に途中から止まっています(´д⊂)‥
その頃にはこの作品も6割がた書けてるんですね。
遅筆というか、怠け者というか(;A´▽`A