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コレクティブハウス  作者: 芹沢 忍
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「アヤシイ貼り紙」第三話

 いわゆるデキ婚だった。


 堕胎の同意を求められた時に、初めて彼女の妊娠を知った。


 ――何とも情けない事実。

 

 彼女は統太に妊娠を告げた後、まだ早いからと言って散々に産むのを拒否した。この時の統太には一つの選択肢しか頭に無かった。


 元々プロポーズの時期を算段している状態だったのである。それに、宿った命を殺す事にも大きな抵抗感を持っていた。だから説得した。一緒に家庭を作ろう、と。統太の方では自然な流れであったが、どうやら彼女の方では違ったらしい。


 ――それが今に続く全ての原因だったなんて。


 突然の妊娠と結婚。心構えも無い状態で子供を儲けた彼女は、統太の希望通りに家庭へ入り、初めの方こそ良い親・良い妻になろうと努力していたのだろう。しかし、いつしかその姿は変わっていたようだ。


 統太が気付いたのは和馬にあった小さな(あざ)だった。よく痣を作るようになったなと思っていたのだが、あまりにも度々目にするようになったので、服の袖をめくり上げてみたのだ。

 和馬の腕には(いびつ)な小さな痣があちこちに散っていた。慌てて服を脱がす。背中や腹部に痣が無いことを確認し、胸を撫で下ろした。だが、両腕だけに散った赤や青や黄のはんは不自然極まりない。胸に大きな不安が湧いた。


 統太は和馬が眠ってから妻に問いかけた。

 感じている不安が杞憂であると願いながら。


「和馬にある腕の痣はどうしたんだ。病気なのか?」

 黙ったままの妻を見て、感じていた不安を直接口にする。


「お前が―― やったのか?」


 その時の彼女の顔を統太は忘れられない。


 奇妙に歪んだ笑顔とも泣き顔とも怒りとも取れる表情。

 それから流された涙――


「ようやく気付いたの?」

 言われた言葉は痛烈に統太を襲った。


「ようやくって―― いつからだ、こんな事をしていたのは!」


 声が荒れる。

 母親のくせに子供を傷つけるなんて。

 怒りで心拍数が上がる。


 息を乱して問い詰める統太を見て、妻が静かに語った事実に統太は打ちのめされた。


「産んでくれって言われたから産んだ。でも、あなたは和馬の何を見てるの?」


 言われて気付く。

 和馬の痣に疑問を抱いたのはつい先刻だ。

 痣の中には明らかに時間が経ち、

 黄色く変じたものまであった。

 それを今しがた確認したから不安になったのだ。


 妻の言葉は淡々と続く。


「和馬がいなかったらよかった。

 私がずっとそう思ってるって、知ってた?」


 まだ早い。

 自信が無い。

 堕ろしたい。


 駄々をこねるように嫌がっていた彼女に跪いて産んでくれと乞うたのは自分だ。あの時は説得出来ていたと安堵していたが、ずっと不満を抱いていたのか。


 和馬は二歳になったばかりだ。

 今日まで彼女と和馬はどんな感じだった。

 思い返してみても二人の姿が浮かんでこない。


 統太は自分の無責任さに気付き身を竦ませた。


 妻が小さく笑う。

 その様子が恐ろしい。


「ずっと、ずっとよ。今頃気付いたの? 

 頼みっぱなしで何もしないなんて――」


 妻の声が震える。

 溜まったものを吐き出すかのようにして告げられた言葉は重かった。


「もう信用出来ない」


 きっと最後通告だ。統太は言葉を探した。


 二人のためにと仕事に励んだ。

 だから気付かなかった。


 そんなのは虚しく響く言い訳にしかならない。

 肝心な相手に見えるような事を一つでもしただろうか。


 妻は遠回しに妊娠のせいで全てが狂ったと言っているのだ。その憤りを和馬に全部ぶつけていた。小さな身体に疎らに散る紅い花。自分が仕事をセーブして、もっと家にいて、風呂にでも入れていたら気付けたはずなのに。任せきりの結果が今だ。それをも妻は攻めている。


 自分のミスを子供に負わせてしまった。何故、妻は何も言わなかったんだ。考えて認めたくない事実に突き当たる。


「――仕方なく、俺と一緒になったのか」

 躊躇いも無く妻の頭が前後に振れた。


 統太は足下が揺らいだ気がした。

 現実はこんなにも脆い。


 独りよがりだったのだ。

 妻がいて子供がいて仕事があって。

 普通に小さな家庭を築いているつもりだった。

 妻の心も解らず、子供の様子にも関心が無かった。

 働いて家に金を入れ、気が向いたら家事や育児に手を出す。

 それだけでは家庭は築けなかったのだ。


 自業自得と納得するには受けた衝撃は強過ぎた。


「もう無理なのか」

 脱力して声に力が籠もらない。自分の耳にもようやく聞こえるか聞こえないかの小声に、妻は「無理よ」ときっぱり答えた。

 

 そんな自分の本心を吐露した妻の行動は素早かった。


「勢多さん、電話が入ってる」


 その週の終わり、日が暮れた頃、職場に掛かってきたのは、和馬が通う保育園からの電話だった。回された内線に出ると、若い声の保育士が困ったように告げた。


「いつもお迎えに来る時間が過ぎても誰もお見えになりません。ご自宅は留守電のままなので、仕方なくこちらに連絡させて頂きました」


 嫌な予感がした。

 慌てて時間を確認する。


 統太の慌てふためく行動に、隣の社員が興味津々といった顔で覗き込む。だが、そんなものを気にする余裕は無い。


「そちらは何時まで預かりが可能でしょうか」


 保育園までは確か一時間はかかったはずだ。

 残りの仕事を考え、切り上げ箇所の目処を付ける。


「七時までは可能ですが、それ以上ですと――」


 言葉を濁す様子から、本当にギリギリの時間なのだと察する。逆算すると仕事の区切りを付けてから何とか駆けつけることが出来そうだった。


「それまでには着くようにします」


 受話器を置くと、統太は修正途中のデータを仕上げ、まだ居残る社員を後目(しりめ)に会社を飛び出した。


 電車に揺られながら統太は考え続けた。恐らく自分たちは見捨てられたのだ。これから和馬を抱えてどうすればいいか、どんなに考えても皆目見当も付かない。和馬を育てる責任が今の統太には重くのし掛かっている。


 週末、落ち着いて、良きにしろ悪しきにしろ、先の話しをするつもりでいた。しかし、彼女は多分もう戻らない。統太は重く引きずるような足取りで暗くなり始めた道を進んだ。


 暖かそうな(あか)りが(とも)る家が嫉ましい。


 苛立つやら情けないやら泣きたいやら、色々な感情で心はガタガタだ。それなのにこれから和馬を迎えに行って、二人きりで過ごさなければならない。そう考えるだけで胃が石を飲んだように重い。


 目の前には保育園が迫っていたが統太の足は動きを止めた。現実に向き合う自信が無い。そうして、妻の気持ちがようやく理解出来た。彼女はずっとこんな気持ちでこの道を歩いていたのではないだろうか。


 急に吐き気を覚え、統太は悪いと思いつつも近くの植え込みの陰で嘔吐()いた。吐いても吐いても殆ど空になっている胃からは胃液くらいしか出てこない。口腔の不快感を持っていたペットボトルのお茶で濯ぎ、深い呼吸で荒立つ心を宥める。和馬には自分しかいないのだ。その事を自らに刻むように唱えながら統太は歩き出した。


 保育園に着いたのは辛うじて七時前だった。そわそわと門の内側から路上を覗き見る保育士が見える。共働きが増えたとは言え、この保育園は大抵の子供が暗くなる前に帰宅し、最終時間に残る子供の数はかなり少ない。その少ない子供達も既に姿を消していた。閑散とした園内に保育士と共に遊んでいる和馬が見える。笑顔で戯れる姿を見て統太は違和感を覚えた。何かが違うが、その何かがピンと来ない。


「あ、和馬くん、お父さん来たよ」


 気付いた保育士が和馬を促すと、瞬時に和馬が強張ったように見えた。抱き上げられて運ばれてきた和馬は借りて来た猫のように大人しい。その姿は見慣れたものだった。

 保育士と一緒にいる時の顔が本来の和馬の顔なのだろう。そう思うと済まなさで統太の胸は締め付けられるように痛んだ。保育士から手渡されたのは自分が望んだ小さな命だ。その腕に触れると緊張したように身体を硬くし、自分を見上げる顔に笑みは無かった。今まで自分は何をしていたのだろう。後悔しか浮かばない。


 ――どうして気付かなかったんだ。


 そっと腕に和馬を包み込む。抱きしめているうちに自分の方が慰められている気がしてきて頭が和馬に凭れて行く。胃の辺りにあった硬さが温かさでやんわりと緩んだ気がした。


「あの――」

 保育士が遠慮がちに静かに声を掛けてきた。


 統太は気付かれないように体裁を取り繕い声の方へと顔を向けると、保育士が迷ったようにしながら自分達二人を見ている。


「何でしょうか」


 話しやすいようにと統太はその保育士に声を掛けた。それでもまだ躊躇うような保育士の目線は統太から離れない。


「どうぞ、気兼ねなくお話し下さい」

 改めて促すと、保育士はようやく口を開いた。


「和馬くんは、お母さんが来ると近付くのを嫌がるんです。お父さん、ご存知ですか。和馬くんの腕――」


 ああ、保育士の方が先に気付いていたのだと、統太は泣き笑いのような表情になる。統太のその顔を見て保育士が安堵するように身体の緊張を解いた。和馬のことを本気で心配していたのが良く解かり、同時に統太は自分が親である自信を無くす。


「恥ずかしながら先日気が付きました。

 妻とその事で色々と揉めてまして――」


 正直に接すると保育士の表情が翳った。視線が泳いでいる。どうやら聞いてはいけない事を聞いてしまったと思っているらしい。自分の愚かさを呈するようだが、子供を預ける人には話しておいた方が良いと判断し、統太は深々と頭を下げた。


「これからご迷惑をおかけするかもしれません」


 状況を察した保育士が慌てる。両手を左右に振って却って詫びられてしまった。


 腕の中の和馬が服を引っ張るので顔を覗くと、剥れた表情で統太を見上げている。自分の方へ気を向けたかったのかと考えると少し報われた気分になる。少なくとも和馬に嫌われてはいないようだ。


「どうした? 焼きもちか」


 微笑みながら、ほんの少し軽口を叩いて、和馬の頬を指で軽くつつく。くすぐったそうに身体を捩る和馬を見て統太の胸に愛おしさが募った。心の奥底では都合のいい奴だと罵る声があるが、今は敢えて気にしないようにした。


 愛おしいという想いを決して忘れてしまわないように刻みつけてしまいたい。そうすれば、例えどんなに小さな変化があってたとしても、すぐに解ると信じたい。願いを込めるように統太は和馬を抱き締めた。


 もう、何も失わないように、と。


 和馬を腕に抱きながら帰り着いた家は、薄ら寒い感じがし、統太は思わず身震いした。その動きで腕の中で眠る和馬が身じろぎする。寝たまま小さく愚図るのを静かにあやしながら灯りを点ける。明るさに一瞬眩んだ。目に入ってきた居間のテーブルには、印鑑の押された離婚届と、淡い水色の封筒が置かれていた。

 予想はしていたが、目にすると流石に落ち込んだ。封筒の中の手紙には、彼女の実家とは別の見慣れぬ住所が書き込まれていた。どうやら落ち着き先は確保していたようである。相手が男なのか女なのかは判らないが、どちらにしろ、自分より頼れる相手の元へ行ってしまったのだ。


「わざわざ連絡先なんて書かなくてもいいだろうが」


 ポツリと小さく呟く。黙って出て行くなら遠慮無く恨みごとも言えるのだが、連絡が取れるようにと、このような殊勝な行動を取られると恨み切れない。

 こんな事になってもまだ彼女を恋うているのかもしれない自分に大きく溜息を吐いた。


「これからどうしようか」


 和馬をベッドに寝かせてから冷蔵庫を開け、買い置きの缶ビールを片手に頭を抱える。椅子に身を預けてからプルタブを引き上げてから、中身を流し込んだ。口に広がるビールの苦さに顔を顰める。


 現状ではどう考えても実家に頼らなければやっていけない。


 結婚を反対していた母に何を言われるか想像がつき、統太はうんざりしたように天井を見上げたのだった。

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