第5話 『一線を越えた一戦』
生徒会候補演説があった日の放課後、私は部室で衝撃的事実を知った。
「ぶ、部長っ?!」
「せやでー。初めましてやなぁ、みずきちゃん。先日は部室に居れへんでごめんなー、ウチも何かと忙しゅうて。かんにんしてや」
驚き、口が開きっぱなしの私を前に『八十田ゆめ』は目を細めた。
「いや……でも、えっ……なんで……?」
「あはは、そない取り乱すなんて意外やわぁ。ほたるんから聞いてたん印象とはえらく違うんやなぁ」
混乱する私とは対照的に、八十田先輩は含み笑いを残しながら抹茶を啜った。
イチカが給湯器で淹れたばかりの熱いやつだ。
そして、合わせたようなタイミングで隣に座るほたるが紙ケースを差し出す。
「部長……これ、パパが出張土産で買ってきた和菓子です……。あの、よかったら」
「えー、ほんまに? おおきになぁ、ほたるーん♪」
人の好い笑みを湛えながら、八十田先輩は菓子を受け取った。品の良いモナカだった。
先輩は三口で食べ終わると、猫でもあやすような手つきでほたるの頭を撫でまわす。
「今日はえらく疲れたんとちゃうん? ウチがもう少しはよう気付いてやれればよかったねんけどなぁ……」
「い、いえ……。私のほうこそすいませんでした……! 先輩の演説ちゃんと最後まで聞けなくって」
そう言って目を伏せたほたるに、先輩は意外にも素っ頓狂な、そう、鳩が豆鉄砲でも食らったような表情を見せた。そして上品に噴き出す。
「ふっ、やだぁー! ほたるん、なんやさっきからえらい落ちこんどる思うたけど! ぬはは。そんなこと気に病んどったんかいな?! ったく、可愛いなぁー! あっはははは」
腹を抱えてくつくつ肩を揺らす先輩にバシバシ叩かれながら、顔を紅潮させる少女が一人。その頬っぺたはむっくり膨らみつつある。なかなか複雑な感情をお持ちのようで。
「みずきセンパイ」
傍らに立つイチカが、私に小声で耳打ちした。
「すいぁせん、八十田さんってホントはこういう人なんすよ」
「ああ、うん。賑やかな人だね……。すごく仲良くやれそー……」
校内の『おしとやかランキングベスト8』に入るくらいには、はんなりしたイメージの通った八十田ゆめ。腰まである長い髪はふわりと波打ち、目尻は丸い。太目な眉毛は見る者を落ち着かせる効用がある。
そんな人が目の前で親父のように、爆笑している。
それは恐らくこの登山部員たちだけにしか見せない一面なのだろう。
「なぁなぁ、みずきちゃん」
「えっ、あ、はい」
不意に八十田先輩に話しかけられた。彼女は、唇を艶っぽくひとなめすると、笑んだまま僅かに首を傾げた。
「みずきちゃんは、山に登ったりせぇへんの?」
「えぁ……そ、そうですね。あんまりないかも、ですね」
「えーそりゃ、もったいないわぁー。えらいめんこい子やのに」
「め……めんこ?」
聞き慣れぬ形容詞に首を捻っていると、八十田先輩が妙案を思いついたかの如く手を打った。
「ほなら、明後日の休みの日、皆で登ろうやー。すぐ近くの九条山とかピクニックに丁度ええで。登山服とか靴とか一式貸したるさかいに。明日持って来たるわぁ」
こうして訳も分からぬまま休日の予定が埋まってしまった。
※
「ただいまぁ」
「おっおおおっ、お帰り! おねぇ!」
玄関に入ると、かなり服の乱れた妹、ゆかが二階から転がり降りてきた。
「どしたの? ゆか。えらい服がしわくちゃやけど……。髪もぼさぼさやん……」
サイズがぴったりのローファーを玄関隅に放って、二階の自分の部屋へと向かおうとする。
「や、『やけど』……? 『やん』……? い、いやっ! そんなことは良いんだ、おねぇ! 今、上に行っちゃだめだ!」
ゆかは、そう言うと狭い階段でヌリカベの如く通せんぼをした。
「ちょ……っと……何? 私、急いで部屋の掃除しないといけないんだけど」
「そ、掃除ぃ? なんで?!」
「いや、今、外に友達が来てるから……」
そう。現在、立花と書かれた表札の前ではクラスメイトかつ部活仲間の『三日月ほたる』が待っているのだ。部屋の整理をしたいから、という理由で彼女には数分ステイを頼み込んでいる。
「お、おねぇにトモダチィ?! いやっ、しかし……!」
「友達が居て悪いか?! どいてっ! おら!」
脇差しチョップをゆかに食らわせた。
「はぁ……んっ……」
妙に艶やかな悲鳴に辟易としつつ、急いで階段を駆け上る。階下からゆかの必死の制止が飛んでくるが、知ったことか。ほたるには、綺麗な部屋を見せてなるべくいい印象を持ってもらいたいんだから。
息せき切ってオープンした扉の先には――
「なっ! ……なんだこりゃぁあああ!」
産卵していた。間違えた。散乱していた。何がって、私の下着とか、スク水とか、浴衣とか、中学のときのブルマとか……。
「えへ……えへへ、実は、ぼくもおねぇのお部屋をお掃除してあげてた所で――いひゃい、いひゃい!!」
照れくさそうに姿を見せたゆかの頬っぺたを手加減なくつねった。
「直して! すぐに! 40秒で片付けな!!」
「あ、あいあいひゃーっ!!」
※
「お、お邪魔しまーす。わぁ、ここがみずきちゃんのお部屋なんだ……」
ほたるを自室に通すと私はクッションを勧めた。
別に何の面白みもない、六畳間にベッドと勉強机と平テーブルが置かれただけのつまらない部屋だが……。
「このクマさんかわいーね」
こうして他人が自分の部屋に居るとなんだかこれまた別の印象を受ける。
「う、うん……」
「……」
「……」
初々しいカップルか。そう突っ込まずにはいられぬほど、会話はぎこちない。
如何せん二人共若干コミュ障が入っている。参ったな。
友達ってどんなことを話すんだろうか。
「おねぇ、お菓子」
唐突に妹のゆかが扉を開けて入ってきた。お盆に、適当な既製品と葡萄ジュースが載せられている。気が利くじゃないか、このやろー。
「い・ら・っしゃ・い・ま・せ! ちっ」
ずいぶん乱暴に丸テーブルへ置かれた。
気が利かないじゃないか、ばかやろー。
ファミレスでよく居る愛想の悪い店員か、お前は。ていうか、今舌打ちしなかったか。
「あぅ、あっ、あっ、ありが――」
「ごゆっくり!!」
ほたるが何か言いかけたが、ゆかは最後まで聞かず部屋をあとにした。
「わ、わぁい、おやつだー……なんちゃって」
険悪になった空気を少しでも和らげるべく、冗談を言ってみた。しかし、クソほどに面白くないジョークだったし、全く現状が打破出来てない。ほたるもこくこく頷くだけだ。目が死んでいるではないか。本当にあの妹は……。
「ぽっきー……」
「んぇ?」
不意に呟かれたほたるの一言に喉から変な声が出た。
「ぽっきー食べたい」
ほたるの目は私の目の前に置かれた袋菓子に向けられていた。
薄力粉の棒にチョコレートを浸した奴だ。今、私の目の前にはストロベリー、チョコ、ミルクの三種類が置かれている。
「どれがいいかな?」
三つを持ち上げて尋ねると、ほたるは私から見て一番左のものを指差す。
「みるく」
「ああ、うん。分かった――」
このとき、電撃的な、というか悪魔的な閃きが脳裏に瞬いた。
私はポッキー・ミルク味の袋を開けると、中の一本を取り出して先っちょを口に咥えた。
「ふぁ、ふぁい!」
「え」
ほたるが瞠目して私を見つめる。その大きな瞳には真っ赤な顔の私が映っていることだろう。仕方ないこととはいえ、やはり恥ずかしい。私が望んでいるのはこの微妙な空気の追放。そうだ、彼女との親密度を上げれば、全てがチャラになるはずなのだ。
「んっ!」
テーブル向こうでへたり込むほたるに四足歩行で近付いた。
ぽっきーを突き出して、反対側を彼女に促す。他人から見れば、今の私は少々……というかかなりの阿呆に見えることだろう。だからこそ、さっさとこの儀式を終わらせたい。
「みっ、みずき、ちゃん……」
壁際まで追い込まれたほたるは、目を泳がせながら狼狽える。やっぱりいきなりこれはマズかったか。そんな思いから、本当に無意識に次の動作が出た。
「ひゃ、ひゃめ?(ダメ?)」
首を傾げた。情けないのと恥ずかしいので、若干涙目になってたと思う。
しかし、その瞬間ほたるの目が大きく見開かれた。
そして――
「んむっ」
ようやく顎の荷が降りたとか、そんな呑気な感想は出なかった。頭の中は大混乱。
ほたるが、あのほたるの顔がすぐ目の前にある。目は逸らしているが、色白のきめ細かな肌がすぐ近くにあり、よく分かる。女の子特有の息遣いが間近に感じられた。
かりっ。
どちらかが最初に噛んだ。
そして、その行動に私もほたるも驚いた。二人の距離が一センチ縮まった。ああ、まずい。
しかし――
かりっかりっ。かりかり……。
気付けば二人共、食んでいた。私たちはそうやって幼虫みたいに、もぞもぞと栄養を摂ろうと必死で。それが何なのか理解も出来ず。
かりかりかりか……。
ストップ。気付けば、唇と唇の距離には、小指ほどの長さもなかった。
ああ、ほたる……。ほたるが目の前に……。まつげ長いなぁ。綺麗な瞳だなぁ。可愛いほくろが目尻にあるや。すごく私好みの人だ。
「ほ、ほはる……?」
「にゃに?」
「いい?」
「…………らめ」
そのとき私はどんな顔をしていただろう。それは、彼女にしか分からないことであろうが、きっとしょげ返っていたに違いない。何でってそりゃあ。
「う、うそらよ……。……いーよ、みうき」
最後の壁が突破された。私から仕掛けた。
「んっ」
「んむ……」
電気みたいな刺激がパチパチ瞬いた。甘い。ミルク味が残ってる。
磁石のN極とS極がくっつくように、両手を絡め合った。ほたるの指はとても細くて、僅かに汗ばんでいて、けど、それが嬉しかった。
「ぷあ」
「あふ」
僅かな息継ぎ。ほたるの目尻は熱に浮かされたように落ち、頬っぺたは、ぽうっと紅潮して。
もっと、もっと、もっと。
そばに感じたい。
貴女を私で一杯にしたい。
独占欲が倫理も道理も越えて行って――
「んっ」
「んぁ」
熱っぽいぬるぬるした感触に触れた。
これが、ほたるの舌なのだろうか。
生っぽくて、生き物みたいで。温かい、気持ちいい。
ぬめり。
不意に彼女の舌が蠢いた。優しく、私の舌が舐められたのだ。
びっくりした。ほたるも、私のことを受け入れてくれた。
だから、今しかないと思って彼女の耳元で小さく囁く。
「ほたる、私、たぶんあなたのことが好き……」
ほたるがゆっくりと瞬きをして、私を見つめた。
サファイアの大きな瞳が濡れている。
「私も好き……だよ? みずき……」
視界がじわっと滲んだ。ぎゅっと彼女の華奢な身体を抱き締める。たぶん、とか言って保険をかけるんじゃなかった。ほたるは素直な気持ちをまっすぐ伝えてくれたというのに。
「ありがとう……」
「うん……」
名前を呼び合って、求め合う。いつの間にか私たち二人は床に倒れ込んでいた。足を絡ませ、髪の毛を絡ませ、舌を、手は双方の身体をまさぐり合い――
えっちだな、とか。いやらしい、とか。はしたない、とか。
くだらない。
好き合っている者同士では、これは普通の行いなのだ。許されることなんだ。
「すんっ……。もっと、しようよ……」
「うん……えぐっ……ぐす」
私もほたるも少しばかり泣いていた。
それはクラスでいっつも孤立し、友達も少ない者同士でしか分かり合えないこと。直接的に人の温もりに触れたことへの驚きと感激なんだと思う。
「来て……ほたる」
私は、ほたるを寝台へと引っ張る。
「いいよ、みずき」
ほたるは最後までついて来てくれた。
そのまま私とほたるは、友達としての一線を越えてしまった……。