この小さな箱庭から
物心ついた時にはもう、私はこの部屋にいました。
部屋の中には、真っ白なお布団と、その奥にある扉の向こうにはトイレとシャワー室があります。
最後にお母様やお父様のお顔を見たのは、いつだったか。長い時が経ったようにも、つい最近のようにも思います。
けれど、どうしてでしょうか。
2人のお顔を思い出そうとすると、ぼやけてしまってよく分からないのです。
きっと、私は物覚えが悪いのでしょう。
ご飯は毎日3回、決まった時間に、黒と白の服を着た綺麗な女の人が届けに来てくれます。
毎回同じ人なので、名前を覚えたくてきいてみたら「メイドです」と言っていたので、『メイド』さん、と呼んでいます。
そう名前を呼んだら、変な顔をされるのですけど。もしかしたら発音が違うのかもしれません。
決まった時間、といっても、時間を確かめるためのものが無いので、正確な時間は分からないのですが。
私の感覚は正確なのです。たぶん。
ご飯は好きです。
いつも、スープが入っているのですが、私はそれが好きです。
スープは毎日違う人が作っているようなのです。
とても熱かったり、味が薄かったり、具材を入れ忘れていた時もありました。皆さんお忙しいようですね。
ご飯を作ってもらっている身なので、文句などは出てきません。文句なんて言ったら罰が当たってしまいます。
それに、今日はどんな人が作った、どんなスープなのだろう、と考える時間が私は好きなのです。
この部屋には、『メイド』さん以外訪れません。
一日中、扉の外に耳をそばだてていたことがありますが、そもそもこの近くに人は来ないようです。
ほかの人ともお話をしてみたいのですが、無理は言えません。
一度、お願いしてみたのですが、わがままを言ってはいけません、と『メイド』さんに叱られてしまいました。
“わがまま”を言うと怒られるので、私はいつも、何も言わないのです。
そうしていれば、きっと『メイド』さんも、いい子だと褒めてくれることでしょう。
ご飯を待っている間は、1人で遊びを考えています。
この前、『メイド』さんが来るまで逆立ちをし続ける遊びをしていたら、怒られてしまいました。
レディがそんなことをしてはいけないのです。はしたない。と言われました。
その通りだ、と恥ずかしくなったのを覚えています。
それ以来、大人しく、淑女らしい遊びをするように気をつけるようになりました。
けれど最近は、遊びも尽きて、することがないのです。
これを、暇、というのでしょうか。
なんとも時間を贅沢に使っている気がして、少し優越感に浸れます。
「__やぁ、お嬢さん」
お布団に座り込んでいたら、突然、後ろから声をかけられました。
少し驚いて立ち上がり、振り向いたそこには、1人の男の人が立っています。
結構若めな声で、けれど身を隠すように羽織った黒いマントで、お顔を見ることは出来ません。
ただ、マントの端から覗く肌は、白くてとても綺麗です。
「ご飯ですか?」
「第一声がそれだなんて......。どう見てもご飯は持っていないだろう?」
「違うのですか? てっきりマントの中から出てくるのかと」
「どこの四次元マントかな」
どうやらご飯の人ではないようです。
確かに、ご飯には少し早い気がします。まだお腹は空いていませんし。
「では、どなたですか? 鍵は『メイド』さんが持っているはずなのですが」
私の質問に、彼は「そうだなぁ」と顎に手を当てました。
「通りすがりの、人攫い、ってとこかな」
「『ひとさらい』さん。......不思議なお名前ですね」
「名前じゃないけど。......まぁ、いいか」
鍵はどうしたのですか、と訊くと『ひとさらい』さんは笑いました。
口元が吊り上がったので、きっと笑ったということなのでしょう。
「あんなの、鍵とは呼べないね。俺には、あってないようなものだよ」
よく分かりません、と首を横に振ると、「別にいいよ」と返してくれました。
『ひとさらい』さんは、優しい人なのですね。とても心が広いようです。
「では、何をしに来たのですか?」
「君を連れ出しに来たんだよ」
「どこへですか?」
「どこかへ」
「なぜですか?」
「さぁ、どうしてだろうね」
彼は笑うだけで、詳しいことは何も教えてくれません。
むぅ、と唇を尖らせた私に、彼は「次は俺の番」と言いました。
「君の名前は?」
「分かりません」
「君の歳は?」
「分かりません。......女性に年齢の話をするなんて、失礼です」
「それはごめん。じゃあ、君の両親は?」
「お仕事で忙しいのです」
「へぇ、何のお仕事かな?」
「聞いたことはありません。けど、きっと立派なお仕事なのです」
そこまで聞いて、彼は「そうか」と言いました。
そして、クスッと笑います。
「君は、何も知らないんだね」
それとも、と彼が一歩近づいてきます。
少し雰囲気が怖くて、思わず後ずさりしてしまいました。
「知らないふり、をしているのかな?」
私には、彼の言っている意味がよく分かりません。
眉を寄せていると、彼は一つため息を吐き出して「怖がらせてごめんね」と元の位置に戻ってくれました。
なので私も、大丈夫です、と返します。
「君は、知らないことを知りたいとは思わない?」
「知らないこと、ですか?」
「外の世界のこと、とかね」
君は、望むだけでいいんだよ。
と、彼が言います。
「そとの、せかい」
「ま、嫌がっても連れて行くんだけど」
「乱暴する人は嫌いです」
「大丈夫。優しく連れ去ってあげるから。ちょっとの間、眠っているだけでいいんだよ」
そう彼が言った途端に、何だか変な香りがしてきました。
頭がクラクラしてくるような、甘い匂いです。
その匂いを嗅いでいるうち、ふいにふらっと体が傾いて、倒れそうになった私を彼が支えてくれました。
力強くて、優しい腕。
他人に触れられるなんて、いつぶりのことでしょうか。
それに、どうしてでしょう。私はこの腕を、知っている気がするのです。
薄れゆく意識の中で、体を持ち上げられたような浮遊感と共に、彼の声が聞こえてきました。
「......おやすみ。俺の女王様」
女王様ってなんですかと言おうとしたのですが、声にならなくて、それはかないませんでした。
__そうして私は、深い、深い眠りについたのです。