聖なる泉の王
『我妻、クリスティールネを送り出したという国はここであっているか』
王の執務室にて、いきなり現れた人物は開口一番、国王にそう問いかけた。
明らかに人ではない、その姿。
一体どこから生じたというのであろう。大量の水から人の形を真似た、水人形のようなモノ。
その場にいた者らはそれが何者であるのか至るまで、少々時間を要した。
王の護衛騎士は刃をそれに向けざるを得なかったし、王も宰相も冷や汗をかきもしかしたら自分たちの命が危険に晒されるのではと考えもしたし、人ならぬ者とはいえ話せるならば交渉ができないかとまで愚考した。
最初に気付いたのは誰であっただろう。
あ、とその誰かは小さく頼りない一音を漏らした。
「まさか、貴方様は……幻水王様……?」
幻水王、というのはこの国の辺境の地に古くから存在する聖なる泉の精霊を差す言葉である。
森の奥深く、いつの頃からかそこに存在していた清らかなる泉。
口にすればどんな病もたちまち治り、更には美容や長寿にも良いとの多少誇張や胡散臭さのある話ではあるが実しやかに昔から流されていた。
当然、泉を我がものにとしようとする輩は多くいたがしかし悪用しようとしたり害そうとしたものは皆全て悉く破滅するか災いに見舞われたので畏れられ、何人も近寄る事は禁じられていた。
そんな泉から遠からず近からずといった位置にある村には、泉に纏わる逸話や寓話、おとぎ話などが数多く存在する。
そして、その中に幻水王は現れるのだ。
長く雨が降らず、困り果てた村は泉の水を手に入れようと模索する。
だが今以上に災いや恐ろしい何かが襲いかかる事を躊躇した彼らは家族を不慮の事故で亡くし独り身となっていた年若く賢い娘を泉へと向かわせた。
水を汲むにしても、不幸を背負う事になろうとも迷惑のかからない言わば人柱だ。
娘は我が身を嘆いたが村の幼い子どもらや自分によくしてくれてた者たちの為にと恐れに震える足を奮い立たせ泉へと一人向かう。
そしてとうとう泉の前に辿り着くが、娘にはもう水を汲む力も歩く力さえも残っていなかった。元々、天涯孤独の人柱にされるような娘だ。与えられていた食事や水なども最低限であったのだから無理もない。
その場に崩れ落ち、しかしそれでも這いつくばりながら娘は涙ながらに村の現状や自分の使命を口にしもがき、誰でもいい、救ってほしいと懇願した。
それを泉の内より聞いた精霊が、娘を哀れに思い、水底から娘の前に姿を現す。そして娘が自分の妻となるならば村を助ける為に泉の水を分けてもいいと人智を超える御業で村に救いを齎したと。
他にもいくつか似たような話しはあれ、幻水王が気に入った娘を己の妻とするのは共通だ。
更に本当にこの水の塊とも言えようこれが彼であったとして、彼はとある人物の名を口にしていた。
それは間違いがなければ一週間ほど前にこの国から追放された令嬢の名と同じ。身分を剥奪したが故に家名がついていないので確認しようにも本人がいなければ難しいが。
現国王は冷や汗をかいた。正妃が生んだ王太子たる彼が見初めた男爵令嬢に唆されるまま、追いやってしまった彼女の事で今も尚国は混乱し、どうしたものかと様々な後処理をしている最中であるのにここで幻水王まで来てしまったのだ。
胃は痛くなってくるし最近気になってきていた頭髪の薄さも更に悪化しそうである。
「クリスティールネ、とは我が国に居りました黒髪の、紺碧の目をした……娘、で、お間違いはないでしょうか?」
違ってくれ、どうか求めている娘はこの国にもありきたりな茶髪や赤毛、金髪の乙女であってくれとそう願うも虚しく幻水王はうむと抑揚に頷いてみせた。
『とても礼儀正しく、美しいよき娘子であったが随分と小汚く消耗していた様子であったのでな。もしやまたどこぞの国や村が飢饉か何かによって贄として花嫁を送ってきたのかと確認をしにきたのだ』
確かに国は混乱し、物価やこの機に乗じて侵略しようとの他国からの脅威も否めないがしかし贄なぞに縋るほどではない。
「……イエ、何と言いましょうか。そもそも我が国はクリスティールネを貴女様へ捧げたわけでは」
『何?』
どこまで答えようものかと頭を悩ませつつ、国王と宰相は頭を抱える。そんな煮え切らない態度と返答に幻水王も今までの掴みようのない、まさに水が如し雰囲気から一転して水でできた人形の顔を器用に変化させた。
『どういう事だ。まさかあの娘、我が神聖なる泉を害そうと寄越したのではあるまいな』
己が欲のままに泉を欲し、穢そうとしたかもしれない可能性が浮かんだと国王と宰相の様子に段々と怒りの片鱗を見せ始めた幻水王に、国王と宰相は泡を食ってそれだけはないと必死に弁解をする。
と、そこで唐突に乱入者が扉をノックなどもせず入ってきた。
先に幻水王が現れた騒動に王の執務室に駆け込んでいた護衛は、あっ、と自分達のミスに声を漏らし、顔色を悪くする。
入ってきたのは件の王太子とその取り巻きに……男爵令嬢だ。クリスティールネを追い出し、まんまとその座を奪い取って満喫できると未だなお思っている馬鹿である。
「父上!いつになれば私はユピーニャと婚約が調うんです!?」
「お義父さまぁ、早くシャンディオ様に王位をお譲り下さい!私が王妃になれないではないですか!」
幻水王そっちのけでそう喚きたて始めた彼らをそんな場合ではないと叱り飛ばそうと父王が動くより早く、幻水王はその水でできた人形の顔をこれ以上ないほど思い切り顰め言い放った。
『なんだ此奴らは。皆揃って幻術の類いが掛けられておるばかりか、殆ど人ではないではないか。斯様な穢れを含んだものらは我の側に寄らせるな』
それを聞いて国王、宰相、護衛騎士その場にいたものらは皆驚いた。そんな発言をして誰だと食ってかかろうとした王太子は、しかし水でできたそれを見てギョッとした顔をしてざっと後ろに下がり言った。
「魔物が!何故父上の部屋にいる!?護衛はどうして奴を排除しないのだ!」
「黙れ、シャンディオ!この方は我が国に古くから伝わる幻水王様だ。不敬な真似を控えよ!!」
聖なる泉の主、精霊の王であるかもしれないその方を魔物と同一に扱えばどうなるかわからないであろう。現に幻水王は己の作った水の身体をぐつぐつと煮え立たせ、怒りを表すように王太子と国王を睨みつけた。
『私を、魔物だと?フン、お前こそ幻術に操られ脳はもうまともに動かん木偶人形と化しているも同じであろうにそれに気付かず私を貶めるとは大したものだ』
「なんと!そ、それは真にございますか!?おい、直ぐに魔道師と賢者殿、それに解析魔法のできるものものを集めよ!そして王太子と彼らを捕えるのじゃ!」
元々が不出来な子であったから何かしらの事が起きたとて気付くのも難しいだろう。しかし精霊の王が言うなればそれは真実であろうと国王は即座に彼らを捕え解析や分析の他、手遅れかもしれないがどうにか解除できないかと気を揉み始めた。
『あんな木偶と穢れきった娘が国の中枢に身を置き、しかもあのように身勝手に振舞わせているだと……。なんとこの国は恐ろしい。……クリスティールネが素晴らしい娘故、彼女を出した国にも慈悲をかけてでもやろうとでも思ったが、最早この地に仮初の躰を置き続けるのも不快だ。我は帰らせてもらう』
王太子を操った、またはそう依頼したか。定かではないが彼の女がまき散らした不浄の気配に幻水王は国王の弁明や宰相の引きとめようとする様子も碌に目をやらず、背を向ければ執務室の窓の一つに近寄り窓を解き放ち、その身を外へ投げ出した。
続いてした音はばしゃんという盛大な音。慌てて窓に駆け寄ったものが見たものはただただ大地に大きな水たまりを作るだけの地であった。
――――そうして幻水王が突然現れ去ってから暫くして。王太子とその取り巻きである貴族の子息たちは廃嫡または病死などという処分となった。
幻水王の言う通り、王太子は何を言っても男爵令嬢の名ばかり口にするし、過去を尋ねても母の事を尋ねても何を聞いても癇癪を起し、魔術師、魔道師、賢者の立ち合いの下で様々試す医務官を困らせた。他のもう少しマシな状態の子息も脳への作用が体を蝕み、手足に痺れが出るもの、子種がもう作れないような悲惨な状態になってしまっていたものも居たことがわかった。
そしてそれらの原因と思しき男爵令嬢。これが実はとんでもない能力の持ち主であった。魅了の魔法を随時意識せず垂れ流し状態、幻惑と精神攻撃系の魔法もいつの頃からか加わり混ざり混ざってえらいことになっていたのである。
無意識ではある。早く誰かが気付いてやっていればこんな大事にまで繋がらなかったはずでもある。
しかしこうなってしまった後ではもう彼女に味方する者はいない。
寧ろ恐ろしい、即刻処分すべきであるという声が多く上がり、国王も若い娘の命を奪うのは忍びないがと少々渋い顔もしたが息子にも被害が及んでいるため、様々悩み刑を考えあぐねていたがそうこうしているうちに彼女は殺されてしまった。
国王の沙汰が決まるまで自宅で謹慎という名の軟禁状態にあった男爵令嬢だが、没落か一族皆で首を括る事になろうかといった騒動に浮き足立った屋敷内にまんまと外部から侍女に化けた復讐者が入り込んでいて、家人が令嬢の部屋に足を踏み入れた時には原型を留めない程に刺し抜かれた死体と、血塗れの復讐者がいたそうだ。
直ぐ様捕らえられた罪人は後にとある貴族の令嬢であると明らかになった。
尊敬していた兄を、廃嫡させるに飽きたらず男性として貴族としてとてつもない不名誉を賜り、兄を一族の誇りだなんだと褒めそやし愛でていたはずの両親にさえ毒杯を持たせ、兄を殺さざるを得ない状況に追いこんだ元凶たる悪魔のような女。
それが兄亡き今ものうのうと生き長らえている事が耐えられなかったとさめざめと泣きながら捕らえられた罪人たる少女は語った。
幾つかの刑が重複する男爵令嬢を一体どのような刑で裁けば一番事の収まりがいいかと元王太子が引き起こした事件の始末も終わらぬ内に、話し合い、ああでもないこうでもないと様々臣下たちと議論を交わしていた国王は、この事件に大変心を痛めた。
自分が不出来だけれど一応は生まれもしっかりとした子に次期国王としての地位をと、あの王子を選んでしまったばかりに。
帝王学を含めもっと教育を叩きこんでいれば。私生活や学園での報告をもっと頻繁にさせ徹底させていれば。
そう様々後悔してもしきれない程思いが噴出し王は自分の腹違いの、今は一臣下として勤めていた己の弟に王位を譲渡する形で王の座から去る事を決めた。
元王太子の他に子もいないではなかったが王位を譲るには皆幼く、また今回のような問題がいつ起こるかもわからない。加えてただでさえ国が内部で分裂しかねない状況で王位を我が子に投げて国が今以上に荒れる危険を国王は恐れ、それよりかは少しばかり野心家ではあるが能のある弟に後を任せるのがいいとの考えもあってだ。
そうする流れで自分の不始末や後処理をきちんとできないままに弟に王位を押し付ける事となったのを、王は民と臣下達、そして弟自身に詫びてから長く座っていた王座を退いたのであった。