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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

化け物だらけのこの町で君と出会えたことは幸運だった

作者: Rolly Dice Key

「俺を殺してくれ」

「私を殺して」


 人のいなくなった町の一角で、一組の男女が向き合っていた。

 それぞれ、手には包丁を持っており、服は所々血と思わしき赤い何かで汚れている。

 そんな彼らが出会って言った第一声がそれ。


「…………」

「…………」


 お互い無言で見つめ合う。

 憔悴しきった顔の男。感情が抜け落ちてしまった顔の女。

 弱り切っている二人はそれぞれ自分の死を願った。

 ボロボロとなった廃墟の連なる街角に風が吹き抜ける。冷たく強い風はこれから雨が降るのを示唆しているよう。

 男は徐に服を捲り上げる。女を刺激しないように、ゆっくりと。

 男は左胸まで上げたところで喋り始めた。


「俺は既に人間じゃない。食事はいらないし、寝なくてもいい。あいつらと同じなんだ」


 男の心臓に相当する部分にはドス黒い赤色の玉が埋め込まれており、その一部分が表にでていた。

 肌は痛々しく荒れ、血管が赤黒い色をして浮き上がっている。

 男は悲しげに笑うと続ける。


「自殺は何度も考えたよ。人はいない、町には化け物ばかり。死のう、生きていても意味はないってな。でもよ、何度首を切っても、何度高所から飛び降りても、何度首を吊っても、死ねないんだ」


 ぽつぽつと雨が二人を濡らし始める。

 しかし二人は雨宿りをするつもりはない。死にたがっているから。

 男は濡れた前髪を額に張り付けたまま天を仰ぐ。

 灰色の雲はあの日から一度も青い空を見せてはくれない。


「唯一の希望はこの紅玉こうぎょくだ。これを壊せば俺は、たぶん、死ねる。けど俺の意志では出来ないんだ」


 男は唐突に包丁を振り上げると自分の胸にある紅玉へと突き刺そうとした。

 しかし包丁は紅玉の手前で止まり、傷つけることはかなわない。

 数秒、力を込め続けていた男は不意に力を抜くとだらんと手をおろした。手から滑り落ちた包丁がコンクリートの地面とぶつかり滑っていく。

 男は座り込むと、ボロボロの服を脱ぎ、上半身を露わにした。

 そして大の字に寝転ぶと目を細めて空を見る。

 次々と襲ってくる雨粒が男の肌を打つ。徐々になくなっていく体温に男は安らかな気持ちで目を閉じた。


「頼む」


 後は任せる。

 そんな意味合いで呟かれた言葉を最後に男は動かなくなる。

 胸が静かに上下していることから呼吸はしているのだろう。しかし彼にはもう自ら動く意志はない。

 雨音のみが場を支配する中、二人の呼吸はほぼなくなる。

 やがて、パチャと雨水を踏む音がした。

 男は安堵する。あの日以来、初めて会った人間に殺してもらえる、否解放してもらえると思って。

 ドンッと男の腹に女が乗った。

 しかし化け物となった彼の体には何の苦も生まれない。

 男は静かに最期の時を待った。


「…………」


 しかしそのときは一向に訪れない。

 何をしているのか、そんな気持ちで男は閉じて、開けるつもりのなかった目を開ける。

 そして見た女の、下着のみの上半身。


「っ! 何を…………!?」


 男は驚きで目を見開いて何をするつもりなのかと声を上げた。

 しかしそれは途中で止まる。彼女のへそがあったであろう場所にあるものを見て。


「私も、たぶん、同じ」


 彼女のへその部分には男と同じ、しかし明らかに違う青色の玉――碧玉へきぎょくが埋め込まれていた。

 玉の周りは男と同じように痛々しい色の血管が無数に浮かんでいる。

 男は言葉を失い、口を半開きにしたまま固まった。

 女はそれに反応せず、喋り始めた。


「私も、あなたと同じ。死ねないし、死なせてくれない。私もあなたと同じ、化け物。あと、あの日以来生きている人間に会ったのもあなたが初めて」


 そう言う彼女の表情は感情が抜け落ちたような無表情で、男は他人事と思えず、胸に悲しみが渦巻いた。

 彼女も自分と同じ時間を過ごした仲間なのだ。そう思って。

 男に伝えることは伝え終えたのか、女は男の上から退いた。


「あなただけ楽になるなんて許せない。あなたを殺した私はどうなるの? 人を殺した罪を背負って、自殺することも出来ずに生きていけと?」


 そして呆然と女を見上げる男を見て、女は感情のない声音で吐き捨てる。

 その声音に感情は伴っていなかったが、言葉には確かな怒りが乗っていた。

 だが、男はそこよりもある言葉に驚いていた。


「人? こんなのが、人?」


 そう言いながら男は上半身を起こし、座っているコンクリートの地面へと手を突き刺す。

 そして畳返しのようにコンクリートの塊を跳ね上げた。

 明らかな異常。人ならざる力。

 しかしそれを見ても女は何も言わない。それどころか地上へ放り出されたコンクリートへと近づいていくと、足の甲ですくい上げるように空へと蹴り上げた。

 数十トンはくだらないコンクリートの塊を、十数mも。

 同じ存在だとは知っていたが、ただの十七くらいの少女がそんな現象を起こすことに男は驚いて固まってしまった。

 遠くから地響きが聞こえ、男が我に返ったところで女は喋り始める。


「私は、人。人間じゃ、ないかもしれないけど、人。だから、あなたも、人」


 そう言われて男は徐々に表情を変えていく。

 驚きっぱなしだった顔の口角が上がり、目が細められる。

 男は久しぶりに笑みを浮かべた。


「そう、か。人か。そういわれるとよくわからんが安心するよ。久し振りすぎて精神がまいってたのかもな」

「そう、私も同じ。独りが長くて感情が消えちゃった。だから話し相手になって。独りは、おかしくなる。殺してもらいたくなるくらい」

「あぁ、そうだな、いいぜ。いくらでもなってやるよ。俺も独りでおかしくなってたんだ。殺してくださいって言うくらいにな」


 そう言って男は立ち上がると手を差し出した。

 女は黙ってその手を握り返す。

 いつの間にか雨は弱り、風はやんでいた。相変わらず日は出ないものの、つかの間の平穏は得られる程度の天候。


「俺は晴野はれのひかり。お前は?」

「私は雨野あまのしずく。よろしく」


 男――光は殺してくれと言っていた顔が嘘のようにはにかみ、女――雫は無表情を僅かに崩して小さな笑みを浮かべる。

 少しだけ明るくなった雰囲気。

 しかしその外は、相変わらず分厚い灰色の雲に覆われて薄暗かった。



 ☆★☆★



 二人が出会って三日が経った。

 水も食料も睡眠もほぼ必要がない二人は久しぶりの人――しかも同い年くらいの人――と時間も忘れて会話していた。

 化け物として、独り孤独に過ごしてきた一年間。

 それによって出来た人としての欠陥を埋めるように二人は取り留めのない話をして笑いあい、時に悲しみあっていた。

 そして三日目の今日。

 太陽が出てきたのか、灰色の雲が僅かに白く光り、地上に明かりをもたらす。

 話に一区切りのついた二人は、明るくなった地上を、ガラスの破片が散らばるコンビニの中から一緒に見ていた。

 あまりに穏やかで、今がどんな世界かを忘れてさえいれば、幻想的にも見えるその光景。

 幸運なことにこの三日間、二人のもとに化け物は近寄ってこなかった。

 化け物に喰われる恐怖と隣り合わせの中過ごしてきた二人にとって信じられないくらいの平穏だ。

 しかしそれは先程言ったように幸運なこと。

 すぐに二人のいる場所にも化け物はくることだろう。


「…………ねぇ、どうする?」


 唐突に女――雨野あまのしずくが言った。幾分か人間らしさが戻った顔で外を見たまま。

 言葉の意味は当然、これからのことについて。

 死ねない殺せない二人はまた独りになることを拒み、二人で取る行動を考える。

 男――晴野はれのひかりは雫と同様、僅かに光が入っている外を見ながら返事をした。


「どうもこうも…………ここにいれば良いんじゃないか? 化け物が来たら隠れてよ」


 光は続けて二人が会った日のことを話した。

 あの日、雫が蹴り上げたコンクリートの塊が一本向こうの道路に落ちた少し後、音につられて大量の化け物がそこへと集まった。

 その時数体、間違えて二人のいる道路へと来たが、二人は隠れることでやり過ごしていたのだ。

 そのことを話し、加えて光が今まで化け物から逃げおおせてきた過去を話し、万が一見つかっても逃げれば良い、と光は言う。

 しかし雫は顔を伏せたまま何も言わない。


「…………なぁ、なんかあるのか?」


 その様が何かを隠しているように見えた光は落ち着いた声音で聞いた。

 雫は何度かバツが悪そうに光を見上げながら、ポツポツと話し始める。


「…………私の、青い玉は、化け物に見つかる。あの時くらい、小さいなら、大丈夫だけど……もう少し、大きいのには、見つかる……」


 大きいやつからは逃げるのも難しい、と雫は続けた。

 雫の碧玉からは何か特殊な電波でも出ているのだろう。それを化け物は感知できる。いわば発信機のつけられた獲物だ。

 雫は不安そうな顔で光を見上げる。自分は化け物を惹きつける。そんな特性を持つ者を連れ歩きたいなど普通は思わない。

 しかし化け物と戦い、殺したこともある光は普通じゃなかった。


「マジか。なら見通しの良くて、逃げやすいところに移動しないとな」

「え?」


 雫は光の少したりとも嫌な雰囲気を感じさせない声音に思わず振り返った。

 光は、んん? と疑問に思いながらも当然のことのように理由を話す。


「いや、そうだろ? 見つかること前提で考えるなら、こちらも見つけられてかつ逃げられる場所の方が良い。多少隠れ辛くなったとしても」


 そうだろ? と確認しつつ振り返った光は自分を驚いた顔で見つめる雫と視線を交わす。

 数秒の沈黙。

 雫は緊張していた体の力を抜き、安心したかのように小さく微笑んだ。


「…………よかった。光に捨てられたらどうしようかと思った」

「そんなことするわけねぇって。だいたい俺はお前と同じだろ? 離れたくても離れられねぇよ。また死にたくなるしな」


 雫が安堵した理由を理解した光は雫を安心させるように柔らかな笑みを浮かべてそう言った。

 二人の言うあの日からたった数週間。

 そのうちのほとんどの時間を独りで、化け物になった体で過ごしてきた二人は己というものを保つのにお互いを必要としている。

 それ故雫は捨てられたらという気持ちで不安になったし、光はそんなことあり得ないと断言した。

 光の笑みにつられたのか、雫も小さく笑う。

 すっかり温かくなった雰囲気に二人は今までにない幸福感を感じていた。


「…………っ! 伏せろっ」


 だが、それは突然の出来事に掻き消される。

 光の声に反応して一緒に物陰へと隠れる雫。ガラスの破片などを踏んで小さな音が鳴る。

 一気に重くなる空気。肌が粟立つ緊張感。

 彼女は和らいでいた雰囲気を名残惜しく感じながらも鋭い目付きで何が起きたのか光に問うた。


「大きさは?」

「三m」


 手短に答えた光の視線は僅かに覗ける商品の棚の向こうへと注がれている。

 同様に外を覗いた雫は無意識に眉根を寄せた。

 表面をドロドロとした半液状のものに覆われ、猫背の人間のような形をした化け物。頭に当たる部分には三つの穴が空いており、それはさながら目と口のようだ。

 光は荒くなっている動悸を収めるように深呼吸をすると雫に聞く。


「どれくらいまで気付かれない?」

「あの大きさなら十mくらい。通り過ぎるのを待つのは愚策」


 その答えに光は小さく呻く。

 コンビニの中から反対側の道路の端までの直線距離はおよそ十五m。

 しかし化け物の大きさはかなりのものであるし、あれは道路の真ん中を歩いている。

 このままだと確実にバレてしまう。一歩一歩体を維持しながら進む様からバレるまでのタイムリミットはおよそ三十秒。


「逃げ道は…………ないな」


 光はコンビニ内を見渡し正面以外の脱出経路を探すが、どこも商品の棚などが邪魔してすぐには逃げれそうにない。

 雫も雫で、どうにかバレないようにする術はないのかと思考を巡らす。

 しかしすぐに良い案が浮かんでくるはずもなく、数秒後雫は光へと視線を向け、


「………………どうしたの?」


 苦しげに胸を抑えている光に疑問の声を投げかけた。

 真っ直ぐ化け物を見つめ、息も荒く胸を強く抑える光はどう見ても尋常じゃない。

 雫は声では届かないと判断したのか、光の肩をトントンと叩く。

 光はそれでようやく気付いたようで、その真っ赤に染まった瞳を雫へと向けた。


「あ、あぁ、すまん。さっき言うつもりだったんだが、俺も副作用みたいなのがあるんだ。化け物が近づけば近づくほど、戦闘本能が抑えきれなくなってくる」

「どうする?」


 もう時間はない、そう言外に伝えて雫は続けて聞く。


「戦うか、逃げるか。私は逃げた方がいいと思う」

「いや、俺は戦う。逃げるということはあいつに近づくこと。多分あの大きさの化け物だと抑えきれないだろう……っと、あいつも気付いたっぽいな」


 本当に見つかるんだな、と独り言を呟きつつ光は立ち上がる。

 光と目が合った化け物は獲物を見つけたとばかりに両手を掲げ、威嚇行動をとった。声を出せないらしく、尋常じゃない威圧感に対して周りは変わらずそこにあった。

 光はスッと左右を見渡し、化け物があのデカイやつだけとわかると少しだけ安堵する。とりあえず邪魔はなさそうだ、と思って。

 そして、


「行くっ!」


 荒ぶる感情を発露させながら地を蹴った。

 爆風と共に弾丸のごとく外へと飛び出した光。

 顔には笑みを、体には喜びを、胸には紅く光る紅玉を持って道路にいる化け物へと迫る。

 化け物も自らに近づく異物に気づいたのか、先ほどまでのゆったりとした動きが嘘のように光の方へと向いた。

 瞬時に目が合う一人と一体。光の真っ赤に染まった目はもはや化け物しか見ていない。

 そして、十m以上あった距離は一瞬にしてなくな――


「バカ」


 ――らなかった。

 光と同様に飛び出した雫の跳び回し蹴りによって道路の続く方向へ飛ばされたために。


「イッテェ……」


 だが、そのおかげで化け物と距離の出来た光は正気を取り戻す。

 そして理解した。雫が自分を化け物から遠ざけてくれたのだと。

 だが、光はその雫がどこにいるのか、すぐさま察して顔を跳ね上げた。


「――――!」


 そして光の視線の先、案の定化け物は雫を見ていた。

 粘着性のある液体に覆われた顔を笑みの形に歪め、声を出さずに笑いながら。


「っ! 雫、逃げろ!」


 光は胸の内にくすぶる火種を必死に押さえつけながら叫んだ。

 しかし、遅い。


「っ!」


 化け物の腕が目にも留まらぬ早さで振り抜かれ、雫が建物へとたたきつけられた。

 ガラスが飛び散り、破片が周りに音を巻く。

 化け物は追撃を仕掛けることなく、狩りを楽しむようにそこへたたずんでいた。


「くそっ!」


 光は再び自我を失うことも厭わず、雫を助けるためだけに地を蹴った。

 化け物へ近づくほどに強まる高揚感。それに伴って紅に染まる目、深い海の底へ消えゆく自我。

 徐々に体の自由がなくなって雫を助けるはずの体が化け物との戦いへと傾きはじめ――


「――っ! だらぁ!」


 光は消えかけていた自我を振り絞って舌を噛みきった。

 痛みに鈍る足、しかし意識は明瞭。これならいける。

 光は化け物へと向かっていた脚を雫のたたきつけられた方向へと変えた。雫を助けて一緒に逃げる(・・・)ために。


「――――」


 化け物は狩りの邪魔をされることを察知したのか建物へと突っ込もうとする光へと腕を振る。

 さながらボールを打ち返すバッターのように。


「ぅぐ!」


 光は再びだんだん強くなる高揚感の中、自らに迫るそれを見て横へ跳ぶ。

 僅かに遅れた腕の先が当たって折れ、さらにその衝撃で肩が外れた。だが問題ない。すぐに治る。

 轟音を奏でながら真横を過ぎ去る腕に恐怖を抱きながら、光はそのまま建物へと突っ込んだ。

 そして様々な家具を巻き込みながら奥へと転がり込み、その勢いが衰えるのも待たず、立ち上がる。

 光は折れていた腕を見た。そこは既に治りかけている。化け物と同じ再生能力だ。

 しかし光の中の恐怖は治っていない。腕の先、手の部分に当たっただけで腕が折られ、肩が外れるほどの衝撃を食らう。

 それを思いだし、次いでそんな攻撃を全身で受けた雫を思い出す。

 あんな衝撃を全身で受けるなど死んでいてもおかしくない。だが、光は雫を信じている。

 自分と同じ人であり化け物である雫なら大丈夫だ、と。

 しかしそう思っても胸に浮かんだ不安は消えてくれない。

 光はそれを解消しようと、少しでも早く安心しようと、脚を動かした。

 心配するなら前へ進め。想像する前に現実を見つけ出せ。思考は変わっても現実は不変だ。

 前に現れた壁は壊して進み、散らばっている障害物は跳んで越えて進む。

 そうして化け物並の速さで進んだ光は、すぐさま雫の下へとたどり着いた。


「雫!」


 深い傷を負って動けなかったのか、ふらふらと立ち上がっている雫を見て、光は思わず名前を呼んだ。

 雫は聞こえた光の声に驚いたらしく、バッと声のした方へと顔を向ける。

 そこにいたのは雫の思った通り光だ。雫と同じようにボロボロであるものの、正気でいる光だ。

 僅かに喜びの感情を見せた雫に気を緩めた光は、隙をつくようにわき上がる高揚感を沈めるため、再び爪を噛んで剥いだ。


「っ!? 光、何を?!」

「ぅぁ、な、なんでもねぇよ。それより逃げるんだろ? 奥にいくぞ!」


 光はだんだん強くなる高揚感に化け物が近づいてきていると知り、説明もせず次の行動を示した。

 雫は光の行動におおよその推測をするものの、確かに確認している暇はないと光の言った通りに行動し始める。

 壁をぶち壊しながら化け物と反対の方向へと進んでいく二人。

 光がチラと後ろを振り返れば狭い室内に溢れる障害物に脚をとられてなかなか進めない化け物が見えた。


「……いけるな」


 光は無意識にそう呟きつつ、壁を壊して進む。

 既に化け物との距離は十m以上。化け物がやけになって腕を伸ばしてきても届かないであろう距離。

 しかし油断は禁物。自分が油断しかけていることに気づいた光は、そう自分を戒め、前の壁を壊す。

 だが、油断というのは気づいたときにはもう遅い。


「はっ? 嘘だろ?」


 目の前の光景に光は思わず呟いた。

 壊した壁の向こうに待っていたのは化け物の群。

 化け物は、大きいものでも二mでその程度ならまだなんとでもなる。だが、今回問題なのは数だ。

 その数、およそ三十。

 砲弾で死なず、腕力で戦車を潰す化け物が三十体もいる。いくら化け物となった二人でもこの数相手には多勢に無勢。

 光の目の前が絶望に染まり、見えなくなっていく。


「ぅぁ……」


 そして反比例するように増していく高揚感。光の胸に埋まっている紅玉から延びている血管が激しく波打つ。

 光はもうこのまま意識を失ってやろうかと考えた。そうすれば暴走した自分が何体かは殺してくれるだろうし、雫も逃げられるかもしれない。

 考えれば考えるほどそれが良い案のように思えてくる。

 ――そうだ、それがいい、それしかない。

 そう決意した光はだんだん希薄になっていく意識をつなぎ止めようとせず、そのまま離そうとした。


「行くよ」


 だが、そんな光に声がかけられた。

 絶望的で、真っ赤に染まっていた目の前の光景に僅かな光が射す。


「ほら、早く」


 焦ったように手を差し出す雫は困ったように眉を寄せる。

 光は目の前に差し出された手を希薄になった意識の中、認識すると思いっきり舌を噛んだ。

 痛みですぐさま戻る意識。自我を押し潰さんとばかりに迫っていた何かは逃げるようにどこかへ消えてった。

 光は先ほどまでの弱気な考えはなんだったのかと思いつつ、今考えることは違うと思考を切り替える。


「……すまん、弱気になってた」

「ん、別にいい。それより早く」


 光の謝罪に雫は素早く周りを見渡してそう言う。

 雫の視線を追って周りを見渡せば、先ほど見た三十ほどの化け物のうち、半分ほどが二人を認識したようで、両手を掲げて威嚇行動をとっていた。


「まだ勝機はある」

「ん、行くよ」


 すっかり自分を取り戻した光はまだ半分ほどの化け物にしか気づかれてないことを確認すると闘志を燃やす。

 そして二人はまだ気づいている化け物が少ない方へと駆けだした。


「――――!」


 当然、邪魔をするべく襲いかかってくる化け物。

 不定形の化け物は足止めを狙っているのか、風呂敷のように体を広げて二人へと多い被さろうとする。

 だが、光はそいつへと自ら進んでいくと、


「っらぁ!」


 隠れていた化け物の紅玉を的確に殴り、粉砕した。

 途端にサラサラと砂のように崩れ去る化け物。

 初めて見るその光景に雫は目を見開き、思わず速度を落とす。


「進め!」

「っ! うん!」


 だが、光の怒声に我に返ったのか、再び全力で走り出した。

 化け物と同じ力を持つ二人の全力は蹴ったコンクリートが割れるほどに強い。

 一瞬にして数十m以上進む二人。本気の走りなどしたことがなかった二人はそんな自分の異常な力に思わず驚いた。

 だが、その異常な力も化け物にとっては普通の力。


「くっ、そ!」


 光はすぐ後ろまで迫っていた化け物の頭を裏拳の要領で殴り飛ばす。一時的に止まる化け物。

 だが、化け物は体のどこかにある紅玉を壊さなければ死なない。

 すぐさま化け物は頭を再生し、追撃を開始する。

 二人は何度も襲いかかってくる攻撃をさばいているうちにだんだん脚が前に進まなくなってくる。

 そして、とうとう前方をふさがれ前に行けなくなってしまった。

 苦い顔で前後を見る光。僅かに眉を寄せていやそうな顔をする雫。


「雫! 戦うぞ!」

「ん、仕方ない」


 迷いは一瞬、即決断。二人は一番取りたくなかった選択肢を選ぶことになってしまった。

 スッと光は化け物の数を数える。数は十八。光たちを視認して追いかけてきた化け物はおよそ半分と言うことになる。

 そしてこいつらは全員が一m半程度の大きさばかりだ。

 化け物は大きければ大きいほど力も素早さも知能も高くなる。故に、目の前にいる化け物たちは三mの化け物に比べればまだ優しいものだと思えるだろう。ただ、そんな雑魚でも戦車の砲弾程度なら紅玉に直接当たらなければ無傷だし、戦車の装甲を殴って壊すことも可能だが。

 また、光が殺したことのある化け物のサイズは二mと少し。自我がほぼない状態であったが、三mに比べて弱い個体だったため、殺したという意識などは残っていた。

 故にまだ勝機はある。


「――」


 声を出さず、体を威圧的に動かしながら化け物は飛びかかっていく。

 知能が低い故の安直な行動。

 二人は余裕を持って回避し、なおかつ紅玉のあるであろう場所を思いっきり殴った。

 完全な勘。しかしその勘は的確に敵の紅玉を貫いて化け物を砂へと変えた。


「まずは一体」

「――――!」


 仲間がやられたことを見て、化け物は一斉に飛びかかってきた。

 前後からの挟み撃ち。しかし逃げ道はある。

 光は跳び、雫は地面スレスレまでしゃがんで回避した。

 そして次の瞬間仲間にぶつかる化け物。


「ふんっ!」

「んっ!」


 動きの止まった化け物にこれ幸いと攻撃を仕掛けていく二人。

 高い身体能力にものをいわせた強烈な攻撃。しかも的確に紅玉を貫いていく。

 化け物たちは一気に数を減らし、四体となった。

 その四体も知能がない故に単調な攻撃を繰り返し、すぐに砂へと変えられる。

 結果的に、二人は無傷で化け物の群を討伐することに成功していた。


「…………」

「…………」


 二人はお互いを見つめ合う。あんなに絶望したり、覚悟を決めたくせに蓋を開けてみればすぐさま終わった。

 あまりに呆気ない幕引き。二人の心臓は徐々に鎮まっていき、心に安堵が広がっていく。それと同時に二人の体を心地よい温もりが包み込んだ。


「…………やったな」


 ぽつりと呟く光。

 自然と二人の頬は吊りあがり、笑みを浮かべていた。

 今まであんなにも恐れていた化け物がそれほどでもなかった。その事実は二人を安堵させるのに十分な理由だ。

 一人というものは時に判断を誤らせる。基準が自分の中にしかないから。

 しかし今の彼らは二人。こうして二人であるから絶望の中立ち上がって戦い、その結果自分たちの力というものを再認識できた。


「…………見つかる前に、逃げなきゃ」


 ふと、雫は喜びを無表情の下に隠し、言った。

 雫は化け物がこれだけではないのを思い出したのだ。

 光もそのことに思い至ったのか、緩んでいた頬をバチンッと叩き、気を引き締めると辺りを見渡す。

 特に異変のない、ただの道路が伸びている。

 敵が見えないことに少しだけ安心して光は雫へと向き直り、喋りだした。


「そうだな、取り敢えず建物の中に――――」


 しかし、光の言葉は続かなかった。

 突如現れた暗い灰色をした、粘着質の液体に雫が覆われてしまったために。


「雫っ!」


 光は突然の出来事に取り乱して叫んだ。

 ――ようやくまた雫と会話できると思ったのに。

 ふっと膝がぬけ、崩れ落ちそうになる。

 しかし雫の言動を思い出し、すぐに冷静さを取り戻すと雫を包んだ何かから距離を取り、その全貌を見る。


「――――――!」

「う、そ、だろ…………」


 光は見えたそれに慄き、喘ぐ。

 それは、二人を追ってきていた三mもある化け物だった。

 体を風呂敷のように広げて光を包み込んだ化け物はうねうねと、まるで補食しているかのように動く。

 光はその化け物の大きさに、そして感じる威圧に行動を一瞬止められた。


「っ! 雫っ!」


 しかし化け物の動きから雫が喰われている可能性に気がついた光は恐怖とわき上がる高揚感を胸の内へと仕舞い込み、怒りで表面を覆い隠して化け物へと駆ける。

 危機感と焦燥感が光の背を押す。早くしろと心が急かす。覆い隠したはずの高揚感が暴れさせろとばかりに鼓動を早める。

 そしてそれらを抱えつつ、瞬きの間に数mの距離を潰すと、光は常人には見えない速度で腕を振り上げ、下ろした。


「っ! このっ!」


 しかしその拳は化け物に受け止められ、さらに光の与えた凄まじい運動エネルギーは全て化け物の表面を伝って地面へと受け流された。

 何度も何度も殴っては受け流され、地面から鳴り響く轟音に肌を揺さぶられる。

 光は何度やっても同じことだと確証を得ると、一旦距離をとって観察を始めた。高ぶる心を押さえつけ、グルグルと化け物の周りを注意深く回りながら、光は数寸の隙間も見逃さないとばかりに目を細める。

 しかし光の目に映るのは、変わらず気持ち悪いネトネトしてそうな液体が表面で流動し、中のものを咀嚼しようと何度も収縮を繰り返している様子だけ。


「…………」


 一寸の隙間も見つからないことに光の感情はは怒りから徐々に焦燥へと変わり始める。再び膨れ上がる自らの意識を呑み込むほどの高揚感が暴れ出した。

 一刻も早くあの中から開放しなければせっかく見つけた自分を人たらしめてくれる人を失ってしまう。この独りぼっちで、自分が化け物なのか人間なのか判断することも出来なくなっていく、残酷で凄惨な世界で見つけた唯一の理解者を。

 光は頭によぎった未来に押さえていたモノが溢れていくのを感じた。

 目に涙が浮かび、心が分厚い雲に覆われ、握った拳が自らの握力で傷ついていく。

 また独り。また孤独。また鬱屈とした世界へと取り残される。

 ――いやだ、それだけは、イヤだっ!


「あああぁぁぁっぁぁああああっぁぁああああぁ!!!!!!!!!」


 目の前が涙で歪むのも気にせず、光は大きな悲鳴をあげながら道路へ腕を差し込んだ。自らの意識を呑み込んだ高揚感を、さらに塗りつぶさんばかりの感情の奔流。

 光は化け物並の怪力と頑強さをフルに使い、二の腕の半ばまで地面に入れる。

 ――独りは嫌だ! もう、嫌なんだっ!

 心の中では本心を叫び、体では獣のように雄叫びをあげ、光は力を込めた。がに股で、上半身を前に倒したみっともないとも見える格好で、全身全霊をもって。


「ぁぁぁあああああ!!!!!」


 光がクシャクシャになった顔で、腕が引きちぎられそうなほど力を込め続けると、地面が動いた。ピシッと亀裂が広がり、摩擦による振動を一帯に響かせながら、地面が浮き上がる。

 光は前がどうなっているかも自分がどんな状態なのかも見ず、ただひたすらに地面を空へ投げつけるために力を加えていく。

 そして、数百数千トンもの質量が一瞬浮き上がった。当然化け物の全身はその浮いた道路の上に乗っている。


「っ!」


 腕にかかっていた負荷が一気に消え、光は地面が浮いたのだと気づく。

 すると光はその浮いた隙間に体を滑り込ませ、浮いた道路の中央付近まで行き、まだ最高点に達していないそれを全力で殴った。

 一発で割れる道路。さらにとてつもないエネルギーは振動となり、道路を粉々に粉砕した。


「っ! 雫っ!」


 そして、その中から雫が現れる。

 全身が化け物のネトネトで濡れており、だらんと力がないが、目立った外傷などは見あたらない。もしかすると内部に何かをされているかもしれないが、それはあとで対処すればいいだろう。

 そのように考えた光はひとまずは安心だ、と思いふっと一瞬だけ気を抜いた。抜いてしまった。

 光の人外めいた動体視力をもつ、眼球を動かす筋肉が弛緩し、一瞬だけ、普通の世界を光に見せる。

 それは今最もしていけないこと、油断。化け物はその一瞬をついたように、一度手放した雫を再びその身に取り込んだ。


「……はぁ!?」


 ドーム状に雫を覆っていた化け物が、開いてしまった下の部分を補うように動いたのだ。しかも空中でそれは行われた。

 光はその弛緩した眼球の筋肉では化け物の動きを感知することが出来ず、気付いたら雫が消えていたという状況になり、叫んだ。

 光の中に後悔の念が押し寄せる。それと同時にいつの間にか遠退いていた精神の昂り(たかぶり)――高揚感が気を抜いた光の意識を塗りつぶしていく。

 後悔。憤怒。それらの感情に振り回されている光は簡単にその心をそれへと明け渡してしまう。

 目が紅く染まり、口元には知らず知らずのうちに笑みが浮かび、本能のおもむくがままに行動しようとして――――


「――――クッソ、がっ!」


 光はすんでの所で思いとどまった。

 今回は前回の戦いのように意識を失っていい戦いではない。守るべきものがある戦いなのだ。自分の意識がないのに守るべきものを守れるか。否、出来るわけがない。意識を失えばその守るという意識さえなくなってしまうのだ。

 だから、踏みとどまった。踏みとどまることができた。

 光は徐々に速度を上げて落ちてくる球体となった化け物を見上げる。あの中に雫は取り込まれているのだ。

 光は両手で頬を張る。硬いもの同士がぶつかるような硬質な音が辺りに響いた。


「……雫、今助けるからな」


 そう呟き、光は腰を低くし、構える。

 左足を前に、右足を後ろに、左肩を前の方へ、右肩は後ろへ。

 とにかく一撃。ただ、全力の一撃が打てるように。


「ふぅ……」


 吐く息は細く、長く。

 緊張で固くなった体を少しだけ緩めるために。

 光の中から音が消える。

 極限の集中力の中、光の感覚は全て自分と落ちてくる化け物のみに集中される。

 あたかも時間のすすみが遅くなったかのような世界の中、光はスッと目を細めた。

 そして、球体となった化け物が手の届く距離になって、


「――っ!」


 全力の一撃を打ち込んだ。

 斜め上に打ち出すような拳はしかと化け物を捉えた。

 拳がぶつかると化け物の表面は衝撃により慌ただしく波打ち、力を逃がそうと全身を行き来し始める。

 だが空中に力の逃げ場などない。僅かにへばりついていた道路の欠片は最初の衝撃で全て粉々に砕け散った。

 全ての力は化け物へ。それはきっと化け物が隠している紅玉にも届くであろう。

 しかし、凄まじい力で打ち出された力は作用反作用の法則により光の体を伝い、地面にも同じ力を打ち出し、激しい衝撃波を巻き起こした。


「ぐぁ……!」


 自分の出した力の凄まじさに光の顔が歪む。中途半端に化け物となった光の体は化け物の全力を受け止めきれなかった。

 だが、それでも光は全身をフルに使い、さらに拳を押し出し続ける。

 化け物の表面は流動体だ。それを使えばしばらくは力を泳がせることが出来るだろう。

 ここで手を引いてしまえば化け物は地面へと落ち、その身にたまった力を地面に流してしまう。

 それだけはいけない。だから光は力を加え続けた。


「っぐあぁあああ!」


 だが、それも何秒も続かない。

 拳がぶつかって瞬き数回分の時間が過ぎ、光はあまりの痛みで叫んだ。

 光が化け物に押しつけていた右腕は、何カ所も骨折しており、見るも無惨な姿になっていた。

 空中で力の逃げ場がないと思われた化け物。しかし一カ所だけ逃げ道があったのだ。

 化け物はそこ――光の腕へと衝撃を逃がし、光にダメージを与えることに成功していた。

 再び落下を始めようとする化け物。


「あぁあぁああぁぁぁああぁぁぁあああ!!!!!!」


 だが、光はそれを許さない。

 もう片腕が使えない。地面に落ちて、衝撃を逃がされればもう光に勝機はなくなるだろう。

 だから光は手を出した。右腕がダメなら左腕を出せばいい、と言わんばかりに。

 グッと握った拳を落下を始めようとしていた化け物へとぶつける。

 凄まじい衝撃波が光を中心に吹き荒れ、化け物の落下は防がれた。

 しかしそのままではまた右腕の二の舞となる。

 光はそのことを分かっているのか、はたまた本能か、すぐさま腕を引っ込める。

 そして、再び打つ。引っ込める。打つ。

 ずっと力を加え続けるのがダメなら、何度も力を与えてやればいい。

 そう言わんばかりに光は左腕だけで何度も何度も化け物に打撃を加えていく。

 残った腕までもが砕けそうになっても、叫びたくなるほどの苦痛に苛まれても、むしろそうなれと光は拳を繰り出し続ける。

 たった数瞬で地面はひび割れ、衝撃波が周囲の建物を崩壊へと導いた。


「――――――!」


 もはや人の言葉ではない雄叫びをあげながら光は殴り続ける。

 そして、永遠にも思える一秒が過ぎ去り、


「――――っ!」


 光の腕が砕け散る。

 なんとか皮膚などで中身はこぼれていないものの、中身はぐちゃぐちゃでしばらくは動かすことも叶わないだろう。

 だが、光にとってそれは二の次のこと。

 光は不規則に、津波のように動く化け物の表面を見て願う。ただ一つ、シンプルでいて、切実な願いを。


「――――雫を出せっ!」


 その瞬間、化け物はたまりにたまった力の奔流を留めきれなくなったのか、一気に爆散する。

 ビチャビチャと化け物であった肉の破片が周りの建物を貫きながら飛んでいった。

 そして、光の視界の端では紅玉が砕け散っているのが見えた。

 化け物の命とも言える紅玉。それが砕け散った。それの意味することは一つ。

 ――――勝利。


「雫っ!」


 だが光にとって勝利なんてどうでもいい。

 光は爆散した化け物から落ちてくる黒髪の少女を見て叫んだ。

 ここにきて自分の殴った衝撃が彼女にいっていないかと心配になったが、幸いそんなことはなかったようで、彼女は無傷だった。

 しかし気を失っているようで、彼女は重力に引かれて力なく落ちていく。

 光は慌てて両手を出して受け止めようとするが、すぐにその両手が使い物にならなくなっていることに気がつき、最終手段として体で受け止めることにした。


「ふげっ!」


 上空三mほどから気を失った人が落ちて来るというのはなかなかの衝撃だったようで、光は情けない声を上げた。

 だが、そのかいあって雫は無傷。たぶんそのまま落ちても無傷だっただろうが、それは光の感情の問題だ。

 重なるように地面へ倒れた二人。光は出来るだけ静かに雫の下から抜け出すと穏やかに眠る雫の顔を眺めた。

 前よりマシになったとは言え、いつも無表情な彼女のこういった寝顔というのはとても貴重だ。お互い寝なくても生きていける体になっているからなおさらに。


「…………んっ」


 しばらく光が雫の寝顔を堪能していると、小さく声を上げた。

 それと同時にゆっくりと目を開いていく。相変わらず美しい黒色の瞳が光の紅い瞳とぶつかる。


「んっ? …………あれ、どうした、の?」


 雫は一瞬目を見開くが、光のとても安堵したような、それでいて苦しそうな顔に疑問を抱く。

 だが、光はただ首を横に振るのみ。


「もう、終わったからよ」

「まだ、これからが、ある。っ!? ちゃんと説明、してっ!」


 だが、そんな光を雫はばっさり切り捨てる。ごもっともな言葉と共に。

 そして、雫は見るも無惨な光の両腕を見て、さらに語気を強くして説明を要求した。

 その剣幕、内容に光はすぐに無気力状態となっていた自分から抜け出し、雫へとことの顛末を説明する。


「――――てな感じだ」

「…………そう、なの。ごめんなさい」


 全てを聞き終えた雫は僅かに眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔で謝る。

 だが、光が聞きたいのはそう言う言葉じゃない。

 光は、俯いてぎゅっと拳を握っている雫の頭へと頭突きを食らわせる。


「ぃったい!」


 音速に近い速度で振り落とされた光の頭は雫の頭頂部へガチンッと当たり、雫に悲鳴を上げさせた。

 頭を両手で押さえながら、雫は目のはしに涙をためて光を見上げる。


「ありがとう、だ」


 見上げられた光は、雫の目をじっと見つめて、そう言った。

 光が雫を助けたのは義務でもなんでもなく、ただ光がそうしたかったから。謝られる理由なんてない。

 だからごめんは嫌だった。雫が勝手に助けられるのが当たり前と思っているようで。この世界でそれは命取りとなる。

 聡い雫はそれだけで光が何を言いたいのか分かったようで、申し訳なさそうに、だけど照れくさそうに、そして嬉しそうに、


「――ありがとっ」


 そう言って、笑ったのだった。


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