第09話 はじめて、したがう。
シロを抱き上げたり、なでまわしたり、写メをとったりすることしばらく。
あたしの反撃がきいたのか、柏木は黙ったまま何か作業をしていた。
興味がないので、見る気も聞く気もない。
さっきまで静かだった外が、時間を追うごとにざわめく。
ちいさなカラダをくすぐりながら、意識はそちらに傾きつつあった。
はじまる。
そんな予感が、胸を打つ。
「藤谷、そろそろ行けよ」
後ろから投げられた言葉と同時に、響く音。
だれかを呼ぶ、あの鐘。
離れたところから聞くのと、学校内で聞くのとでは大違いだ。
まるで叫ぶかのように。
強制するかのように、聞こえる。
「いや。なんで、あんたにそんなこと言われなきゃいけないわけ?」
行きたくない。
あんな場所には。
行きたくない。
なにもない、あんなところには。
乾いた音がいらだちをあおる。
耳を刺激して、あたまを直接ゆさぶる。
「それは、俺が困るからだろ」
終わらない。
何度も何度も、響きは叫ぶ。
「ここで猫を飼っているのはだれにもいってない。なのに、お前が猫目当てで、ここでサボるようになったら俺の責任問題になる。そうなったらどうなるかくらい、そのバカな頭でもわかるだろうが」
間違いなく、この男はクビになる。
そんなことはどうだっていい。
むしろ、それでお願いしたいくらい。
けれど、そうなってしまったら。
また場所がなくなってしまう。
「いや」
「お前、俺の言ってること理解してんだろ。だったらさっさと、」
「いや!」
鐘の音が、呼んでいる。
従わせようと叫んでいる。
また、あたしはそれに従わなければならないの?
「行ったって、しょうがないのよ!」
なにもない、あの場所で。
なにも持たず、なにも得られずに。
なにかあるような気になって、だまされ続けるあの毎日。
「勉強ができるあたしに価値があったのに、受験に失敗して、二次募集でこんな遠い学校に入って。もうあんなところ行ったって、しかたないじゃない!」
退院したあたしに残っていたものはなんだった?
よそよそしい両親。
見舞いにもこない友達という名のクラスメイトたち。
たったひとりだけの、卒業式。
センセイたちの拍手が、かわいそうにって聞こえた。
「授業? 友達? クラスメイトに先生? そんなのになんの意味があるのよ! みんなうわべだけでしょ? 学校なんて、鐘の音にしたがって生きていくだけの場所でしょう!?」
呼んでいる。
鐘の音が。
「あそこには何もないの! 勉強すらなくなったあたしには、この子以外もうなにも残ってないの!」
あの日から、セカイはモノクロ。
それでもそんなあたしを、シロだけは必要としてくれた。
ここにはある。
あたしがいてもいいのだという、絶対的な証が。
「シロのそばに、いたいの。それ、だけを、願っているのに、どうして、」
叫びは、自分のこぼした涙にかきけされていく。
のどの痛みがうずきはじめて、熱がまたどこからかこみ上げてくるのを感じた。
泣きたくない。
行きたくない。
ここにいたい。
シロのちいさなカラダを抱きしめて、その温度と感触をたしかめた。
あたしの場所はここ。
お願いだから、うばわないで。
「行けよ」
無情な、声。
校舎を揺らす最後の響きが、柏木の声と重なった。
プレハブをゆらして、あたしをゆらして。
まっすぐ、その目がこっちを見ている。
「チャイムなんか関係ねえよ。あんなのただの合図だろ。俺が、お前に言ってんだ」
一瞬にして、血が騒いだ。
沸騰して、蒸発してしまうかのように。
最低。
この男は、どこまで最悪であればいいのだろう。
あたしの軽蔑のまなざしなどものともしないで、柏木は言葉を続ける。
「シロのそばにいるために、俺のいうことを聞いて教室にいく。そこに意味があるじゃねえか」
鐘の音が消えて。
響きが揺れをおさめて。
残ったのは、この男の言葉だけ。
「行ってこい」
鐘の音は、あたしをあきらめてしまったのに。
柏木の目が、それを許してくれない。
「俺のいうことは、お前にとって絶対なんだよ。チャイムよりもな」
最悪。
最低。
でも、この男のいうことはいちいち正しい。
そのことが腹立たしくてしかたない。
シロと過ごすこの場所を守るための条件が、あの教室にいくことならば。
あたしはそれにしたがう以外ほかない。
あの鐘の音ではなく、この男に。
「休み時間と、昼、放課後はあけておいてやる」
柏木のきたない手が、犬を追い払うみたいに動かされる。
それでも、その言葉は。
この涙をとめるには充分なひとことだった。
「だから、とっとと行け」
憎たらしい声とちいさな鳴き声が、縮こまっていた背中を押してくれた。