第08話 はじめて、してやられる。
小屋のかたすみに用意された猫用トイレとえさのお皿。
いつのまにこんなものを用意していたのだろう。
飼い主としての義務をきちんと果たそうとしていることだけは分かったけれど。
それでもやっぱり、いろいろと納得がいかない。
もやもやしたキモチを抱えつつ、つかのまのやすらぎを得ていれば。
「明日からは、弁当作ってこい」
背後から、至福の時間をぶち壊す命令を投げられた。
なんであたしが。
そう言い放つつもりだったのに、シロを指さす男の横柄な態度に何もいえなくなる。
くやしい。
なんで、あたしがこんなことに。
そもそもこれって、脅されているに近い。
こっちが逆らえないことをいいことに、とことん最悪最低な男だ。
それでも。
おかげでこうしてまた居場所ができた。
この子にも、あたしにも。
せめてもの抵抗として、にらみつけることだけは忘れないけれど。
「おい、返事は?」
あたしの眼力なんてなんのその。
逆にハナで笑われて、ますます火に油を注がれる。
なんとか一矢報いてやりたくて、ある点を突くことにした。
「さっきから散々いってくれるけど、あたしには名前があるのよ。残念ながら、おい、お前じゃ、あんたのいうことなんて聞けないわね。それじゃ、だれを指していっているかわからないもの」
はないきを荒くして、大げさに勝ち誇った態度をとって見せた。
自分でも子どもっぽくて嫌になるけれど、しかたない。
自慢じゃないけど中学の時はクラス委員もやっていたし、弁論の代表にも選ばれたことがある。
こういう言葉遊びで負けたことなんて、一度たりともない。
この最悪男があたしの名前を知っているわけがない。
いままでまったく面識がなかったのだから。
教えてくださいという言葉と勝利を確信して、反応を待った。
ところが。
あの憎たらしい表情が、くずれることはなかった。
「藤谷莉子。明日から手作りで俺の弁当を作ってこい」
「なっ、」
男の口から吐き出された名前は、まごうことなきあたしのフルネーム。
まさか、ぜったい分かるわけがないのに。
動揺をくみ取ったのか、最悪男は口の端を持ち上げてほくそ笑んだ。
「これで、どうだ?」
それだけでは飽き足らず。
勝ち誇ったように腕まで組みはじめた。
耐えがたい、上から目線。
「なんであんたが知ってるのよ! か、勝手にひとの名前呼ばないでよ!」
「バカか。昨日お前を保健室まで運んでやったのはだれだと思っているんだ? そのときに聞いたんだよ。中山先生にな」
盲点だった。
これじゃカンペキにあたしの負け。
何たる屈辱なんだろう。
なのに、さらに追い討ちがかかる。
「お前は俺の名前を知ってるのか? 俺もあんたなんて名前じゃないからな。あんたっていうのがだれのことを差しているのか分からないかぎりは、お前をなんと呼ぼうと、俺の勝手だろう」
してやられた。
自分の言葉が、まさかこんな形で返ってくるなんて思わなかった。
「し、知ってるわよ。柏木、でしょ」
「この世の中に柏木という男が何人いると思ってるんだよ。しっかりフルネームで呼んでみせろ。なあ、藤谷莉子」
苦し紛れの反撃はあっさりと打ち落とされて、あたしのもち札が消えてしまった。
くやしさのあまり暴れだしてしまいそうだ。
こんなにやり込められた経験なんてない。
そもそも、こういう展開であたしにかなう人間なんていなかったのに。
小屋の中央で不敵に笑う男が、イスから腰をあげて近づいてきた。
あの勝ち誇ったような表情に、腹が立ってしかたない。
シロを抱きかかえて、猫パンチでも食らわせてやろうと準備を整える。
「藤谷」
「なによ」
しゃがみこんでいたあたしに視線を合わせるかのようにかがんだ男。
猫パンチ。
発射五秒前。
「頼むから、食えるものにしてくれよな」
そのため息とセリフに、カウントダウンは即時中断。
「だったら頼むな!」
飛び出したのは、ちいさな白い手じゃなくて。
あたしの握りこぶし、だった。