第43話 はじめて、おしえてもらう。
「お前が、学校をやめたら意味がねえんだよ」
朝の、少しひんやりとしたプレハブ小屋のなかで。
作業台の向かい側に座った彼が、ようやく口をひらいた。
作業台をテーブル代わりに、目の前には湯のみが置かれていた。
話がある、と切り出されて。
引きずられるように中に入ってから数分たつ。
トウゴからお茶を入れてもらったのなんて、はじめてで。
思わず頭を下げて受け取れば、ハナで笑われた。
話すことにためらいがあるのか、トウゴはなかなか口を開かなかった。
湯のみを持ち上げても、口をつけるわけでもなくすぐに降ろしてしまう。
空気の重さにたえかねて、先に口を開いたのはあたしのほうだった。
「トウゴ?」
下から、のぞきこむようにその表情をうかがう。
そうしてようやく、目の前のひとは口をひらいた。
語られるものは、いったいなんなのか。
一字一句聞きのがさまいと、つむがれる言葉に耳を傾けた。
「かっちゃんから聞いたかもしんねえけど、俺は高校自主退学してんだよ。かっちゃんが担任の一年のときにな」
その口から放たれた事実に、息を飲んだ。
そういえば、勝見先生はトウゴを教え子だといっていた。
けれど退学しているなんて話は聞いていなかった。
学校という場所で、用務員としてしっかり働いていて。
あたしみたいな生徒にも声をかけるようなこのひとが、学校を辞めていた?
どうして?
あたしの疑問はすっかり顔に出ていたのだろう。
口の端を緩ませた彼は、話を続けた。
「学校なんてだるくて、授業もついていけねえし、そもそも居場所も友達なんてのもなかった」
吐き出すかのように、つぎつぎとあふれる言葉。
想像もしていなかった話の内容に、呼吸をも忘れそうになる。
「なにより、あの鐘の音がうざくてたまんなかったんだよ。自由になりてえ、ってそればっかり思ってたな。あんときは」
鐘の音。
その単語に、わずかに肩を揺らしてしまった。
「勢いでやめちまって、適当にバイトで食いつぶして行こうと思ってたのによ」
ため息と、口の端からにじむような含み笑い。
なにも面白くなんてないのに、彼はまるで昔の自分をあざけるかのように笑った。
「それが、やっぱりだめなんだよ。俺はなんにも知らないで生きてたんだ。自分勝手に。それを自由だとほざいてた」
鐘の音に縛られるのが嫌で、自由を求めた。
自由は、好き勝手に生きるという意味じゃない。
それに気がついたのは学校を辞めたあとだったと、トウゴはそうもらした。
「挨拶もまともにできなかった。そんなこともわからなかった。教えてももらえなかった」
その目が、あたしをうつして。
でも、あたしじゃない遠くを見ているように思えてならなかった。
「敬語も使えなかった。自由に生きるのに必要なものなんてないと思ってた」
彼が語る過去。
想像も出来ない、学校の外のセカイ。
その記憶が、いま言葉としてかたちを持って。
この胸を激しく揺さぶる。
「だけど自由に生きるまえに、まず生きていけねえんだよ。どこに行っても。そんなとき、思い出したのがかっちゃんのことだった」
学校を辞めて、仕事もろくに出来なくて。
どうしようもなかったトウゴの前に、勝見先生はあらわれたらしい。
ちょうど、先生に対しての想いを募らせていたときに。
「学校に行ってたころは、毎日怒られてばっかりだったけど。でもそれは俺のための言葉だった」
かみ締めるように。
なにかをこらえるように。
作業台の上で握られた手が、かすかにふるえている。
「振り返ると止まんねえの。ちゃんと聞いとけばよかったなんて、絶対ないと思ってたのによ」
勝見先生は、トウゴをこの高校に連れてきた。
この校舎裏に。
荒れ果てた、原っぱに。
無人のプレハブ小屋には、ガラクタのような備品と木材の山。
油とペンキのにおい。
きたない、薄暗い。
物置のような場所の、中にいたのは。
「かっちゃんに紹介されたじいさんが、俺にいろいろなことを教えてくれたよ。くそむかつくじじいだったけど、その言葉が間違っていたことなんてなかった。挨拶を覚えて、敬語を覚えて、資格とってさ」
トウゴは、しばらくその元用務員さんと暮らしていたらしい。
うざくてしかたなかったといいつつも、その目が細められていく。
懐かしい日々を、思い出すように。
「じいさんの口利きで会社に入ったら、定年だから交代しろとかいわれて、いつのまにか俺の場所が出来上がってた」
それがここなのだといわんばかりに、ぐるりと視線をめぐらせる。
ここは、トウゴが引き継いだかけがえのない場所。
そこにいま、いるあたし。
なんだか不思議な気がした。
そして、うれしかった。
彼が、自分の話をしてくれているという事実が。
「がむしゃらに働いて、やっと認めてもらえるようになったっつーのによ。そんとき」
「そのとき?」
「俺の目に、とんでもないものがうつったんだ」
話しつかれたのか、トウゴは一度腕を伸ばした。
そのままその腕を向かい側にいるあたしに向ける。
大きなてのひらが髪にふれて、すいていく。
「雨の日だったな。この窓からフェンスをよじ登る生徒が見えた。びしょぬれになるのもかまわずに」
雨の日。
フェンス。
鐘の音から、逃れるように飛んだ入学式のエスケープ。
「フェンスを飛び越えて、草っ原を駆けて。その後ろ姿を夢中で追いかけた」
真新しい靴も、制服も、全部泥まみれになって。
それでも足を止めなかった。
聞こえたのは、あの白い声。
「公園みたいな空き地で白い猫を大事そうに抱えたそいつは、鐘が鳴ると怯えたようにふるえてた」
鐘の叫び。
強制する音の響き。
もう、そっちには行かないと背を向けた。
「それから、毎日のように見てたよ。このフェンスを飛び越えていくのを」
髪の毛をすいていた手が、頬によせられて。
その温度が、ゆっくりと少しずつ。
なにかを溶かしていく。
「俺は学校をやめてから、学校を好きになった。気付くのが遅かったけど、手助けしてくれる人もいた」
溶けたものは。
目の前で、ゆれる。
「お前にも学校を好きになって欲しかった。ここには、ここでしか得られないものがあるから、それを捨ててほしくなかったんだよ」
正面の彼をにじませて。
セカイをぼかして。
「学校、やめんなよ。せっかく、楽しいと思えるようになったんだろ」
うなずけば、水球がきらきらと舞って散った。
ひかりは空をうつして。
作業台にゆれる青。
「明日には、シロも帰ってこれるらしいぜ。ふたりで、この場所で迎えてやろう」
声にならなくて、何度もうなずいた。
明日、ふたりでシロを迎えるために。
どうしても、やっておかなければならないことがある。
この気持ちを、わかってもらえないかもしれないけれど。
彼を好きになったことを、後ろめたいことだと思いたくない。
鐘の音が鳴り響く。
想いのつまった校舎が、呼吸をはじめる。