第39話 はじめて、おねだりする。
「まずいな」
降りそそぐ声の音に、顔を上げた。
視線の先。
トウゴはその整った顔を片手で覆い、うなだれていた。
こんな彼を見るのははじめてで、事の重大さをあらためて思い知らされる。
「と、トウゴ!」
反射的に、そのソデをつかんだ。
こういうとき、なんていったらいいかわからない。
だれかを励ました経験がなくて、言葉が上手く出てこない。
「あ、のね、」
つのるのは、もどかしさとやるせなさ。
それでもなんとか励ましたくて、必死に言葉をつむいだ。
「三浦くんは、悪いひとじゃないっていうか、やっぱり助けてくれたし、その、」
「俺としたことが」
「え?」
いまだ落ち込むようにうつむく彼からこぼれる言葉。
聞き取れなかったものに、近づいてのぞきこむ。
顔を覆う大きなてのひら。
その指と指のあいだから、見えた表情は。
「俺としたことが、ついがっついた」
「がっ、」
口の端をゆるめてにやつく、あのいつもものだった。
「だましたわね!」
つかんでいたソデから手を離して、振りかぶった。
真っ赤になっているだろう頬が熱い。
心配したのに。
ひとを励ましたことなんてないから、言葉を一生懸命組み立てていたというのに。
この男は、本当に変わらない。
最悪最低。
「バカ。んな顔してっからだ」
振り下ろした手は、そのままやわらかくつかみとられて引き寄せられる。
あたまの上にトウゴのあごが乗せられて、腰に腕が回った。
反撃したくても、これじゃどうにもできない。
「心配すんな。俺がなんとかするから」
脈絡もなく、こういうことをいうから困る。
最悪だと思った次の瞬間には、また好きになる。
恋は自覚すると、とても面倒くさい。
こんなに振り回されてばかりで、とてもじゃないけど心臓が持たない。
「三浦くん、話せばわかると思う。たぶん」
「そうだといいけどな」
不安なのは、きっとトウゴも同じ。
それがわかるから、腕を背中に回して、力を入れた。
言葉以外のなにかで、彼を励ましたかった。
経験が少ないということは、なんてやっかいなんだろう。
「とりあえず、教室行くね」
ずっとこうしていたかったけれど、いつまでもここにいるわけにはいかない。
三浦くんに事情を説明して、内緒にしてもらうように説得しなければ。
回していた手を離して、その腕の中から抜け出そうとした。
けれど、腰に回されている腕がそれを許してくれない。
「はなして。戻れないでしょ」
「お願い、は?」
言われていることの意味がわからず、顔をあげた。
視線がぶつかって、にやにやとしたあの笑いが目に入る。
「上手におねだりしてみせろよ。離してください、ってな」
「なに、いって」
「さっきのあれはよかったぞ。病院につれていってと、いっしょにいたいの、には俺も落ちた」
くり返されるセリフに、頬が染まる。
最悪だと思って、好きだと思って、また最悪だと思うこの瞬間。
叫んでやりたいのに、あたしもすっかり恋の病とやらにおかされてしまっているらしい。
こんなこと、している場合じゃないのに。
つま先を伸ばして。
背筋を伸ばして。
憎らしいあの顔へ、近づく。
「おね、がい」
頬に、わずかに触れたくちびる。
腕がゆるんだのを感じて、すぐさま抜け出した。
どうやらあたしのおねだりはカンペキだったらしい。
扉の前で、また明日、と叫んで駆け出すまで。
トウゴは身動きひとつしなかった。