第35話 はじめて、こいをしる。―やだ?
トウゴの働きかけのおかげで、あたしは保健室で休んでいるということになっているらしい。
帰り道、車の中でそんなことを言われた。
中山先生と勝見先生にお礼をいえよといわれて、返事はしたものの。
正直、とてもフクザツだった。
勝見先生はいいとしても。
中山先生という言葉が、この胸に重くのしかかる。
彼は、あのカウンセリング室でどんな話をしたのだろう。
ふたりの関係は、いったいどういったものなのだろう。
重石はぐるぐると胸の中で黒く輪を描く。
五時間目の休み時間。
あんなにもつめたかったトウゴがやさしくなったのは中山先生のおかげ?
ゆれる車のなか。
気づかれてしまわないように、ひざの上でてのひらを握りしめた。
学校に戻れば、すでに下校時間。
混雑する校門から帰る気にはなれなくて、そのまま用務室へ向かった。
挨拶にいくと行って出て行ったトウゴをプレハブ小屋から見送る。
遠ざかっていく背中を追いかけたくて。
でも、その気持ちを必死で抑えた。
行かないで。
なんて、いえるわけがない。
こみ上げてきたものを飲み下して、作業台のイスに腰を下ろした。
台に突っ伏して、顔を窓のほうへ傾ける。
夕焼けが赤く空を焦がしていく。
セカイは今日を燃やして、夜を迎える準備をしている。
遠くで声がする。
部活の応援や下校途中のおしゃべり。
耳をすます。
今日という日を終えようとしている学校に。
シロもトウゴもいないプレハブ小屋はあまりに静かで、さみしかった。
中学をあんな形で卒業して、今までひとりでいることが多かったけれど、こんなことを思ったりはしなかったのに。
ひとりでいれば。
それに慣れてしまえば。
セカイが色をうしなって、モノクロであってもさみしくなかった。
だけど。
シロを出会って。
トウゴと出会って。
この場所を見つけて、教室に行けるようになった。
教室にはみつきや三浦くんがいて。
それなりに、楽しくなって。
セカイはこんなにも色あざやか。
ひとりはこんなにも、さみしい。
「っ、」
思わず、ころりとこぼれた水球。
作業台の上でひかりをまとって、まるくふるえる。
泣くなといわれたばかりなのに、もう泣いている。
なんだか今日のあたしはほんとうにだめだ。
明日からきっとこの場所はなくなるのに。
シロにも会えなくなるのに。
これじゃ、先が思いやられる。
あたしはもう教室に行ける。
ちゃんと場所がある。
トウゴには、カウンセリング室がある。
あの場所で、中山先生が待っている。
「や、だ」
もれた言葉を合図に、いくつもの水球が作業台ではじけた。
顔をあげて、制服のそでで拭っても、降り止まない雨。
ふと、作業台の端に見覚えのある包みが見えた。
手を伸ばして掴み取れば、それは朝に置いたお弁当箱。
その重さから、彼が食べてくれたのだということがわかった。
『藤田莉子。明日から手作りで俺の弁当を作ってこい』
今まで料理なんてしたことがなかった。
文句ばっかりで、本当に頭にきてたけど。
いつも必ず全部食べてくれるその姿。
それが、すごくうれしかった。
『お前さ、男の家に来たり、料理したり、手つかんで寝たりって、俺がはじめてなわけ?』
友達の家なんて行ったことなかったし、呼ばれたこともなかった。
だれかのために料理をしたことも、人前で眠ったこともなかった。
なにもかもがはじめてで。
それはいつも彼がくれたもの。
『さっさと、行ってこい。バカ』
教室にいけるようになった。
セカイはモノクロじゃなかった。
それは、トウゴがくれたもの。
もう来るなといわれて、涙がとまらなくなるほど悲しかった。
この場所がなくなるのが。
シロに会えなくなるのが。
トウゴがいなくなるのが。
なくしたくないと、思った。
夕暮れ。
声がだんだんと少なくなっていく。
そのなかで響く足音が、聞こえた。
近づいてくる。
それと同時に高鳴る。
熱をおびて、つま先からゆっくりと。
「戻ったぞ。そろそろお前も帰れよ、ってまた泣いてんのか」
軋む扉。
きたない作業着姿。
あきれ果てた顔が、あたしを見て笑った。