第34話 はじめて、あまえてみる。
病院でこらえたものが、一気にあふれだした。
なにをいっていいかわからない。
ただ吐き出すようにあやまった。
「ごめんなさ、い。ごめんなさ、い。ごめ、」
「こら、ちょっと落ち着け。そもそも泣きすぎなんだよ、お前は」
キーを回した手が、ハンドルからあたしの手を外して。
指先が頬に向けられる。
次々ととめどないものをすくい取っていく指は、あたたかかった。
「シロ、ちゃんと面倒みなくて、ごめん、なさい」
やさしい指先が、濡れていく。
あたしの涙で。
「むりやり、ついてきて、ごめんなさい」
こんなのは、懺悔でしかない。
もう起こってしまったことは取り戻せない。
それでも、どうしてもあやまりたくて言葉を続けた。
「迷惑、かけてごめんなさい。トウゴの名前、呼ばなければ、こんなことになら、なかった、のに」
横たわるシロを見つけて、混乱するあたしが思わず叫んだ名前。
まさか、とどくなんて思わなかった。
あのとき、名前を呼ばなければ。
こんなことにはならなかったのに。
ひとりで対処できていれば、だれにも迷惑をかけることなんてなかった。
「ごめん、なさい。もう、来るなって、いわれたのに、ごめんなさ、」
「お前は、ほんとうにバカだな」
つむぐ言葉は、そのひとことに掻き消された。
一瞬にして。
「お前が行かなければ、シロは危なかった。それに、一日の大半シロを見ているのは俺だろうが。なんでお前が悪いんだよ」
むきだしの手首をつたって、こぼれ落ちるなみだ。
その向こうで、トウゴが後ろ髪を掻いてため息をつく。
「悪かったのは俺だ。お前のせいなんかじゃねえよ」
「でも、トウゴの立場が、まずい、でしょう? 仕事、抜け出して、きて」
「普段の俺は優秀なんだよ。こんなことぐらいで辞めさせられるか。それにな、お前の件は中山先生がなんとかしてくれた。幸いにも担任はかっちゃんだったしな。多少の融通はきく」
こぼれるものにまるでふたをするように、トウゴのてのひらが目を覆い隠していく。
真っ暗ななか。
響くのは声だけ。
「泣かせるために、つれてきたんじゃねえから」
あごを伝っておちていくものが、襟にしみてつめたい。
でも、そのてのひらが。
声が、なによりもあったかい。
「よく、俺の名前を呼んだ。お前にしてはいい選択だったぜ」
「とー、ご」
暗闇のなか、名前を呼んだ。
探るように、すがるように。
うしないたくないと思った。
だけど、いらないとも思った。
混乱するなか、どうしてあたしはこのひとを呼んだの。
あの公園へシロと逃げて、はじめからやり直すつもりだったのに。
どうして、走ってきてくれたの。
カウンセリング室にいたのなら、この声は聞こえなかったでしょう。
「どうして、来て、くれたの。聞こえるわけ、なかったのに」
嗚咽の混ざった声で、それでもはっきりと疑問を口にした。
分からないことが、あまりにも多すぎた。
自分の気持ちも。
彼の行動の意味も。
あの場所を大事にしていたのはあたしだけだったはずなのに。
トウゴには、ほかに場所があったのに。
どうして、あたしのところに来てくれたの。
「あのとき、カウンセリング室の前を走り抜ける靴音がした」
ふたをされていた視界。
ゆっくりと遠ざかる温もり。
「いつも聞いている音を、俺が間違えるわけがないだろ」
熱くて重いまぶたに力をこめて、持ち上げる。
まぶしくて、すぐに閉じてしまったけれど。
それでもゆっくりと。
「泣かせて、悪かった。だから、もう笑えよ」
正面にいたのは、いつもどおりのトウゴ。
だけど、いつもよりちょっと優しい気がする。
そのてのひらが、左頬にそえられて。
やわらかい温度がなくなってしまわないように、少しだけすりよった。
「それ、命令?」
やさしさに甘えたくなって、意地の悪いことを聞き返した。
べつに命令でも構わなかったけれど、たまには優位にたってみたくて。
目を見開いたトウゴが動きを止める。
視線を外されて、また聞こえたため息。
「いや。頼むから、笑え」
結局、直らない命令口調。
思わず頬をゆるませれば、よしと頭をなでられた。
<予告>
なにもかもが、はじめて。
それはいつも、彼がくれた。
だれもいないプレハブ小屋。
ひとりなんて、あのときからずっと慣れていたと思っていたのに。
いつまでも、このままではいられない。
変わるセカイ。
うしないゆく、場所。
それでも。
なくしたくなくて。
いっしょに、いたいと願った。
「なんで、俺といたいんだ?」
手に入れたものは、かたちなく。
けれど、このてのひらにあふれるほど。
教室にいけるようになった。
友達ができた。
ひとりでは、いられなくなった。
なくしたくないものが。
いま、ここにある。
これは予感。
そして、確信。
「もう、待たない」
気持ちが熱をおびて。
音になって、ゆれて。
――そうして、はじまる。
次話より「はじめて、こいをしる」編、開始。
第二部クライマックス。