第28話 はじめて、そうだんする。
鐘の音が聞こえた。
プレハブ小屋を飛び出して、まだあたしは校舎裏にいた。
体育館とつながっている渡り廊下の外側の段差に腰を下ろして、ひざに顔をうずめて声を押さえた。
涙がいつまでたっても止まらない。
こんな顔では教室に戻れない。
このままここにいたとしても、見つかれば戻されるのがオチ。
シロがいないんじゃ、あの公園に行ってもなんの意味もない。
なくなった。
また、なにもかも。
どうしてこんなことになってしまったのかわからない。
『お前、もう来なくていいぜ』
さっさと行けとか、とっとと行けとか。
自分の言葉は絶対だから聞けとか。
強くて乱暴な言葉ばかりだったけれど、それはすべてあたしのためのものだった。
『じゃあな』
別れの意味を含んだ、最後の言葉。
それが、耳に残って消えてくれない。
胸がいたい。
息もできないくらいに。
うしなうのははじめてじゃないのに、こんな痛みはしらなかった。
涙がひっきりなしにこぼれ落ちて、こんなにもくるしいのに。
いますぐ、あのプレハブ小屋に戻りたいと思っている。
シロとトウゴがいるあの場所に戻りたいと、思っている。
「藤谷、さん?」
真上から、やわらかく降りそそぐ声。
舞い降りたものに顔をあげれば。
「な、か、やま、せんせ……」
渡り廊下からあたしを見下ろす、保健室の先生がいた。
** *
「いまちょうど出張から帰ってきたところだったの。だれもいないから、どうぞ」
白くて、なまぬるい、やさしすぎるこの場所。
保健室のイスに、言われるがまま腰を下ろした。
クリーム色のカーテンが、舞い上がって降りて。
同時に先生の白衣のすそもふくらんで。
ゆっくりと流れていく時間が、そこにあるような気がした。
「はい。腫れるわよ」
折れてしまいそうな手首が白衣からのぞく。
差し出されたつめたいタオルを、じんじんとうずくまぶたに押しあてた。
まだとまらない涙に、染まっていくタオル。
ぽたぽたと落ちていくものがしみこんで、消えていく。
なのに、胸の痛みはちっとも消えてくれない。
強く、強く押しあてる。
痛みを抑えるために。
「不謹慎だけど、安心したわ」
タオルを押しあてていた手の上に、てのひらが重なる。
そのつめたい感触に、どこかがふるえた。
「あなたはいつも泣かないから、それがとても心配だった」
見えないぶん、声がすきとおって耳に流れ込む。
中山先生の声は、不思議な音を持っていると思った。
まるで、このつめたいタオルのような。
カラダのなかに、直接触れられる感覚がする。
入学したてで、行く場所も無くて、この場所に来ていたあの頃。
先生はいつも、なにか言いたそうな顔をしていた。
それは、このことだったのだと思い知る。
「たくさんのものを押さえ込んで、吐き出さなければ、苦しくてどうにかなってしまいそうになるでしょう? でも、泣けるようになったのね」
人前で泣くなんて、そんな恥ずかしいこと出来るわけがないと思っていた。
場所があればそれでよかったし、相談とかカウンセリングなんて冗談じゃないと思っていた。
やさしくて、なまるくて、まっしろな場所。
でもいつかは失われてしまう、不安定なところ。
「本当に、よかった」
ここでも、あたしは想われていた。
たかが数週間、しかも飛び出して戻ってもこなかったのに。
このあいだまで先生の名前もしらなかった。
こんな、どうしようもない生徒だったのに。
「せ、んせ、い」
口をひらいたら、もっとあふれてとまらなくなった。
涙も、気持ちも。
「せん、せい。なく、したく、ないんで、す。でも、もう、どうし、たら、いいかわかんな、い」
前は、かんたんにあきらめてしまえたのに。
すぐ、手放すことができたのに。
なくしたくない。
どうしても。
あのきたないプレハブ小屋。
白くてちいさな、あたしの子猫。
そして、最低最悪だけど背中を押してくれたあのひと。
なにをしてしまったんだろう。
あんなふうになる前に会ったのは、連休の初日。
はじめてひとの家に呼ばれて。
一人暮らしの男のひとの家で、緊張して。
掃除をして、ご飯をつくって。
ちょっとへんな感じにはなったけれど、そのあとはいつもどおりだった。
わからない。
理由が思い当たらない。
友達とケンカもしたことのないあたしにとって、あまりにヒントが少ない。
解決方法が導くことができなくて。
できることが、泣くことだけ。
こんな自分が、たまらなくいやだ。
「ほら、落ち着いて。なくしたくないなら、ちゃんとその気持ちは伝えたの?」
「え、」
目に押し当てられていたタオルが、ゆっくりとはずされていく。
薄闇から、ひかりへ。
その先には、笑顔があった。
「いつかはなくなってしまうものがほとんどだけれど、でも、なにも言わなければもっとはやくなくなってしまうのよ」
はりつく前髪をかきわけるつめたい指先。
あたしのなかに、直接流れる声。
「あなたがそれを大事にしてること、ちゃんと口にしなければ、それは誰にもわからないのよ?」
こぼれ落ちた最後のひとつぶは。
先生の指先がすくいとって、白衣を染めた。