第27話 はじめて、こぼれる。
大きな雲が、校舎の真上で影を生み出す。
薄暗いプレハブ小屋の前。
荒い呼吸を整えて、胸に手をあてる。
なぜかとても緊張していて、一度ゆっくり深呼吸をした。
しめった風が胸をうるおして。
そのいきおいで扉を押した。
「シロと、トウゴ、いる?」
陽のひかりが差さない用務室は暗くて、なんだかちょっと重々しく感じた。
顔をのぞかせると、部屋の奥、シロのエサ場のあたりに背中が見えた。
朝から一度も見てないその姿。
自然と、胸が弾むのがわかった。
けれど、おかしい。
いつもはすぐ振り向いてくれるのに、今日はこちらを見なければ声も聞こえない。
「トウゴ?」
その名前をもう一度口にして、振り返ってくれるのを待った。
でも、反応してくれたのはちいさな鳴き声だけ。
ちりんと音を立てて、走ってくるシロに手を伸ばす。
やわらかな白いカラダを抱きかかえて、無言の背中に近づいた。
なんで。
どうして、いつもみたいに振り向いてくれないんだろう。
「どうか、したの?」
その背中を越えて、横に並ぶと同じようにしゃがみこんだ。
ヤンキーみたいに両膝をひらいて座り込むその顔をのぞきこむ。
そこに、いつものあの表情はなくて。
目が合ったとたんに、カラダがすくんだ。
「どうもしねえよ」
つめたい、声。
はねつけるみたいな、目線。
その手にはタバコが握られていて、煙ときついにおいがあたしに迫ってくる。
いままで、学校じゃ吸っているところを見たことがなかった。
あの日、家にいったときも。
タバコの吸殻はあったけれど、あたしの前じゃ吸わなかったのに。
「ちょっと、うちの学校、禁煙でしょ? いままで一度も吸ってなかったのに」
「うっせえな」
取り上げようとした手を、払われて。
その音に驚いてしまったのか、シロが腕から抜け出した。
鈴の音が、遠ざかっていく。
「なに? なんで怒ってるのよ」
怖くて、それがなぜだかわからなくて。
声がふるえるのをこらえながら、ふりしぼった。
意味がわからない。
少しだけ、会わなかったあいだになにが起きたのか。
理解できない。
だけど、いまあたしが拒否されていることだけが伝わってくる。
「怒ってねえよ。つかお前、いそがしいんじゃねえのか? こんなところに来てるヒマないだろ」
きつい紫煙にむせ返りそうになる。
まるで、そのにおいが壁を作り出しているみたいに。
「委員会の仕事で、お昼これなかったか、ら。でも」
吸い込んだものが、胸を黒くうずまいていく。
取り戻していた色が、かすんでいく。
「クラスで友達が、手伝ってくれて、それで」
「だったら、もうここに来なくていいんじゃねえの」
紡ぐ言葉の糸は、鋭い刃に切られて落ちる。
最後まで言えずにその目を見れば。
トウゴはあたしから目をそらして、その刃を向けた。
「シロの面倒は俺で充分だから。お前、もう来なくていいぜ」
ちいさな赤い火を壁にこすりつけて、煙だけを残したままトウゴは立ち上がった。
その声が呼んだのは、あたしじゃなくてシロの名前。
「なんでよ」
いいたいことがあった。
それを伝えたくて、抱えて走ってきた。
はずかしいけど、緊張するけど、うまく伝えられないかもしれないけど。
でも、あいたくて。
「なんで、そんなこといいだすのよ!?」
立ち上がって、振り向いてくれない背中に叫んだ。
声は反響して、消えていく。
薄暗く重い空気のなか、たばこの煙でよく見えない。
まるで、モノクロセカイに戻ってしまったかのように。
ひとつずつ。
すこしずつ。
色を変えていった。
こんなにも、教室は、学校は、セカイは、色あざやかだった。
きっかけをくれたのは、この背中のひと。
その想いを、伝えたくて走ってきた。
「なんで……」
こぼれ落ちる寸前。
ようやく、トウゴがあたしを振り向いた。
その声は、まっすぐにあたしを突き刺していく。
「どうでもいいだろ、んなこと。じゃあな」
追い払うみたいな、あのいつもの手はどこにもなくて。
こぼれ落ちた涙の青だけが、薄暗い床で揺れていた。