第23話 はじめて、おじゃまする。―!!!?
遠くで、声がした。
ぼんやりと、白くにごったようなものが見えた。
ここは、あのモノクロなセカイなのだと思った。
逃げて。
耳をふさいで。
だれかのせいにして。
空の青も。
夕焼けも。
花の色も見えない。
鐘の音におびやかされる、あの日々。
あんなのはもう、いやだ。
「――おい。いいかげん起きろ、バカ」
「っ、た!」
おでこで火花が散ったかと思った。
突然の痛みに目をひらくと、テーブルのくすんだ色と夕陽に染まったトウゴの顔があった。
あまりのその至近距離に心臓とカラダが飛び跳ねる。
同時に、握り締めていたものに力を入れてしまった。
「え?」
力をこめて、にぎりしめているなにか。
自分の腕をたどれば、そこにはトウゴの手があった。
「寝ぼけも終わったか? お前がつかんで離さなかったんだぜ」
そういえば、前にもこんなことがあった。
保健室で目がさめたあのときも、あたしはトウゴの手をつかんだままだった。
「ごご、ごめんな、さ!」
動揺が口をついて出る。
いつの間に眠ってしまったんだろう。
そして、いつの間にこんなことに。
混乱が押し寄せるなか、とにかくまずこの手を離そうと指の力を抜いた。
ところが。
「は、はなしてよ」
なぜか逆にトウゴにつかまれて、離すことはおろか動かすこともできない。
ひっぱってもはなれていかない指が、あたしの指のあいだにからみついてくる。
眠っていたせいか、ただでさえしめっぽいてのひら。
ますます汗をかいてしまって、どうしていいのかわからない。
「お前、寝るとだれの手でもこうやってつかむわけ?」
引いてもびくともしない、その力。
トウゴの顔に引き寄せられたあたしの手が、夕焼けにそまって赤くなっている。
「そん、な、わけないでしょ」
「じゃあ、他人の家でうっかり寝たりすんのか」
「ひとの家に呼ばれたこともないのに、そんなことあるわけないでしょ! つい、うっかり寝て悪かったわね!」
責められているような質問と、この事態をなんとかしたくて大きな声を出していた。
はずかしい。
なんで、寝てしまったんだろう。
それに、この手をいったいどうしたらいいのか。
鼓動に刺激されて、じっとりとぬれていくてのひら。
からみついた指と、まっすぐな視線。
顔が、熱い。
「お前さ、」
何かを言いかけたトウゴの声に、かさなるちいさな鳴き声。
奥のキッチンから、シロのかけよってくる姿が見えた。
なぜだかほっとして、その勢いで手を引き抜いた。
トウゴもシロの声に気を抜いたのか、あっさりと手は離れてあたしのもとへ戻ってくる。
「シロ」
立ちひざのまま、彼のカラダを追い越して、シロに手をのばした。
やわらかな毛がてのひらにすり寄せられて、そのくすぐったさに頬が緩む。
ちいさなカラダを持ち上げて抱きよせれば、シロが顔にすりよってきた。
赤い舌があたしのかわいたくちびるに触れて、頬や首筋をなめていく。
「なに? お腹すいたの?」
返事なんてするわけないのに、話しかけてしまうのはどうしようもないこと。
ざわめきたつココロを押し込めて、キッチンに向かおうと足に力を込めた。
「こら、待てよ」
その声の持ち主にパーカーのフードを後ろから引っ張られて、立ち上がれない。
反論するつもりで、後ろを振り向けば。
大きな影があたしをのみこんだ。
息が止まる。
近すぎるくらいの距離に、トウゴの顔があって。
その目が、あたしを打ち抜くかのようにとらえていたから。
「お前さ。家に来たり、料理したり、手つかんで寝たりって、俺がはじめてなわけ?」
トウゴの向こう側は、きっと夕焼け空。
なのに、いまは彼しか見えない。
「そういえば、初恋もまだなんだっけか?」
胸が、いたいくらい波打っている。
空気を吸えなくて、苦しくて、声が出せない。
いつまでも答えないあたしに伸ばされた指は、くちびるに触れた。
その感触に驚いて後ろに下がろうとしたのに、腰に腕が回されていて動けない。
「猫以外に、キスしたことあんの?」
指が、くちびるをなぞっていく。
背中をはい上がってくるものに、思わず声がもれそうになった。
なにこれ。
これ、どういう事態?
顔が熱すぎて、血液が沸騰しているみたいだ。
全身をめぐる熱湯は、いまにもどこからかあふれだしてしまいそうで、こわい。
「な、いわよ」
押し流されてしまいそうな何かをこらえて、口を動かした。
きっと、これが最後の反抗。
もう腕にも足にも、どこにもそんな力が残っていない。
「いいこと、教えてやるよ」
ただでさえ近い距離が、その言葉と同時に縮められていく。
あの意外にも端整な作りの顔が影を帯びていく。
「はじめてのキスってのは、絶対忘れられないモンなんだよ」
かすれ声が、低い響きを持ってゆらす。
前髪を。
あたしの、なかを。
「ファーストキスって言葉を聞くたびに、必ずそのときのことを思い出す。その場面を、そいつの顔を」
だからなに。
そんなことを口にする力も気力もなかった。
くちびるから離れていく指先。
けれども、いっこうに広がらない距離。
あたしとは全然違うその両腕に、腰をつかまれた。
息をのむ間もなく、視界がまわって。
カラダごと、トウゴのほうを向かされていた。
「もらってやろうか? お前のはじめて」
腰からはなれた片手が、あごに当てられて持ち上がられていく。
傾けられていく、顔。
失われていく、距離。
落下寸前に、カラダに力を込めれば。
腕の中で、悲鳴が聞こえた。
「し、シロ!?」
押し潰してしまったシロが、聞いたこともないような声を上げて腕から抜け出そうともがいている。
そのツメの痛みに腕の力をゆるめれば、遠のいていく白。
「お前……ほんとにバカだろ」
「だ、だだ、だれのせいだと思ってんのよ!」
あきれ果てたような顔が、いまだあたしをひきよせるものだから。
あいた両腕を思いっきり振り回してやった。