第14話 はじめて、できる。
結局、ホームルームが終わっても穂村みつきは戻ってこなかった。
放課後までなんとか耐えしのげば、担任の先生から声をかけられた。
掃除も終えて、すでに誰もいなくなった教室。
てっきり、今までのことをお説教されると思っていたのに。
話の内容は一時間目の授業の件についてだった。
「気がついてやれなくて悪かった。助かったよ」
「いえ、あのケガはあたしが原因だったので」
なんとなく距離を測りかねて、淡々とした返答になってしまった。
それきり間が持たず、タイミングよく鳴った鐘の音に先生が足を動かす。
その大きな背中を見送ると、ドアの前で先生が足を止めた。
「明日も、待っているからな!」
上げられた片手。
ドアの向こうに消えていく、背中。
窓の外から、このカラダを通り抜けてあふれるオレンジ。
だれかが、あたしを待っていてくれた。
なにもないと思っていた場所で。
それだけで、セカイは色をとりもどしていく。
空の青に焦げつく夕焼け。
影はオレンジと赤を割いて伸びる。
だれもいない放課後の教室。
本当はすぐにでも用務室に行きたかった。
けれど彼女の言葉が耳から離れないから、机にまたがって空をながめていた。
『また、あとで』
ちいさな、約束。
でもきっと、あの子はもどってくるような気がしていた。
視線の先に、穂村みつきの机。
前のほうがキズだらけなのは、あたしのイスにぶつかってばかりだから。
こまかなキズに指をはわせて、その持ち主の名をつぶやいた。
音は出さずに。
「あ、穂村さん」
突然聞こえた声に、心臓が飛び跳ねた。
もうだれもいないと思っていた教室の外。
廊下で、何人か女のコの声。
穂村さん。
それは待ち人の苗字。
彼女が帰ってきたということがわかって、机から飛び降りた。
ドアに近づいて、手をかける。
けれど。
次に耳に入ってきたものに、動きが止まった。
「大丈夫だった? さっき聞いちゃったんだけど、そのケガあのひとがやったんでしょ?」
「かわいそう。なにされたの?」
「もしよかったら、うちらのグループおいでよ。藤谷さん、なんか怖いしさ」
ドアの向こうに、いばら。
するどいトゲを持つ声が、突き刺してくる。
朝、教室に入ったとき、やけに人数の多いグループがあることは分かっていた。
突き刺すような視線の出所は、そこだったから。
足元から、冷えていく感覚。
見えないところで、何かを言われるということの恐怖。
否定したかった。
でも、ムダだと思った。
もうすでに彼女たちのなかで、あたしはそんな人間だと思い込まれているのだろう。
それはいくら口で説明しても、わかってはもらえないもの。
覚悟はしていたし、自分も中学のときに似たようなことしていたのだと思う。
だから、責めることなんてできない。
彼女たちは自分たちのグループに穂村みつきを引き込もうとしている。
穂村みつきは、あたしといないほうがいい。
それが、いちばん賢い。
この場所で生き抜くためには。
ドアに触れていた手を離した。
一歩遠ざかって、後ろを向いた。
自分の机に置いたままのカバンを取りに行こうと、足を踏み出した。
「平気」
次の瞬間。
やわらかい、それでもきっぱりとした声が耳にとどく。
それはまぎれもなく、何度も聞いた彼女の声だった。
「友達は、あたしを助けてくれたの。心配かけてごめんね。それじゃ」
足が、止まった。
なにかが、ゆらゆらと動いてこぼれそうになっている。
強調するように言い放った、友達という言葉。
それは、あたしのこと?
窓いっぱいの、オレンジ。
影はひとつ。
正面のドアがゆっくりと開かれて、影がふたつになる。
「あ、りこちゃん! 待っててくれたんだ」
あたしを友達と呼んだ穂村みつきの、夕焼けに染まった顔が見えた。
腕に痛々しい包帯。
それでも、その頬をゆるめた彼女。
その向こうに数人の影が見えたけれど、すぐに消えてなくなってしまった。
「こんなに大げさにされたけど、大したことないからね。待っててくれてありがと」
フォローのつもりなのか。
それともただの天然なのか。
読み取れないけれど、彼女は、確実に話を聞いてしまったあたしにそう声をかけた。
あのグループを蹴っても、この先なにもないのに。
その選択は、どう考えても頭の良い決断ではないのに。
それでも彼女は、あたしを友達といった。
ゆるんでいく。
ほどけていく。
こぼれおちそうなものを、せき止めていた何かが。
指でたどったあの傷だらけの机。
音もなくきざんだ、彼女の名前。
声にするなら、きっといま。
つぶやいていただけのくちびるに、音を。
声に、ちからを。
「お帰り。みつき、ちゃん」
だれかの名前を呼ぶことが、こんなに緊張するなんてしらなかった。
はずかしさのあまりうつむいた顔を、少し上げれば。
みつきがうれしそうな顔を浮かべて、ただいまといってくれた。