第13話 はじめて、もとめる。
「俺のいうことに、間違いはなかっただろ?」
勝ち誇ったその顔。
四十五分ぶりに会った柏木は、いやみな笑顔を浮かべて待ちかまえていた。
穂村みつきはそのまま病院に行くことになってしまった。
大丈夫だと先生はいっていたけれど、心配でいてもたってもいられなかった。
「どこがよ。ケガはさせてたし、病院の付き添い断られるし、あげくの果てに授業に戻ってっていわれたわよ」
ふくれっつらを装って、開け放ったブレハブ小屋の奥へ進む。
壁際で丸くなって眠っているシロに手を伸ばして、その背中をなでた。
胸の中。
反芻する、声の温度。
『りこちゃん、ちゃんと授業戻ってね。じゃあ、またあとで』
保健室から出て行く穂村みつきが、そんな言葉を残していった。
名前で呼ばれたのなんて、久々で。
しかもちゃん付け。
小学生か、と思ってしまったけれど。
くすぐったくてこそばゆくて、なんだかむずむずした。
だっていまも。
この男の前だというのに、すぐにゆるんでしまいそうになる。
「おい、こっち向けよ」
そんなあたしの状態を知ってか知らずか。
柏木は笑いを含んだ声を背後から投げてきた。
最悪のタイミング。
ぜったいに振り向くわけにはいかなかった。
「いや」
「じゃあ、この靴下、返さなくていいんだな?」
靴下?
そういえば昨日。
汚れた靴下を持っていったのはこの男だと、保健室の先生に言われていた。
すっかり、忘れていた。
「ちょっと!」
振り向いて、目に入ったのは。
白い靴下をひらひらとさせた手と、柏木のしたり顔。
やられた。
こんな子どもじみた手に引っかかってしまうなんて、情けない。
「ほらな。やっぱり、いいことあっただろう」
取りつくろっていた顔は、きっと見るも無残なことになっている。
分かっているから、振り向きたくなかったのに。
『また、あとで』
そんな大したことない約束が、うれしくて。
そのきっかけをくれたのがこの最悪男だなんて、認めたくなかった。
「……靴下、かえしてよ」
「だったら、こっちこいよ」
売り言葉に買い言葉みたいなテンポ。
シロのカラダをもうひとなでして、立ち上がる。
なんでこうもいうことを聞かなくてはならないのか。
やられてばっかりで、くやしくてたまらない。
「なによ」
ぎしぎしとうなる床を歩いて、中央の作業机まで進み出た。
横柄な態度でイスに座る柏木の前で立ち止まって、向かい合う。
「理由なんて、こうやって作ってくんだよ」
その態度に心底腹が立つのに、声はすんなりと耳に入ってきた。
柏木の後ろ。
小さな窓から見える、空。
風が、ガラスをゆらす。
「お前はバカ真面目なんだよ。教室なんてなにもないような場所だろ、もとから」
ひかりが、さして。
最悪男を通り抜けて、とどく。
「友達と話すためとか、好きなやつの背中を見るためとか、大学に行くためだからしかたねえとか、理由も意味もなんでもいいんだ。自分で作っていくもんなんだよ」
まぶしくて、目をあけていられないのに。
柏木の目は、まっすぐにあたしを捕らえてはなさない。
「お前は、俺のいうことを聞いて教室に行かなくちゃなんねえ。シロのために」
木のにおい。
古いペンキみたいなにおい。
ボロボロの床と机。
きたない指先と、作業着。
なれてしまった、この場所。
「理由も意味も、それで十分だろ。そのうちほかにもできてくる」
どうやらあたしはこの男に励まされているらしい。
ちっともやさしくない、乱暴な言葉で。
だけど。
なんで、こんなにも。
こんなにも、胸がつまるのだろう。
「おい、返事くらいしとけ」
靴下を渡されて、だまったまま受け取った。
同時に、鐘の音が鳴る。
あたしを呼ぶ大きな音が。
ずっと、この音がいやだった。
強制されているみたいで。
もう、この音では動かない。
あたしを動かすのは。
「……いってよ」
「なにをだよ」
手のなかで、ごわごわの靴下がきしむ。
つよく。
かたく握り締めて、言葉をつむぐ。
「教室行けって、いってよ」
鐘のいうことなんてきかない。
強制する叫びに、耳はかさない。
不本意だけど。
この男の言葉は、あたしにとって従わなきゃいけないものだから。
「さっさと、行ってこい。バカ」
追い払われるみたいに手を動かされて、ドアのほうに足を向けた。
開いた、その向こう側。
空は青かった。