第10話 はじめて、きんちょうする。
用務室を出るとすぐに本鐘が鳴った。
廊下を歩いていれば、教室に生徒がならんでいるのが見えた。
いちばん奥。
カバンを置くためだけの、あの教室。
たどりついたとき、思わず息を飲んだ。
ドアにかけた手がなさけなくふるえている。
それでも、これは意味のあること。
だからがんばれる。
『シロのそばにいたいんだろ?』
飲み込んだ息を吐き出して、吸い込んだ。
覚悟を決めた手を、勢いのまま横に引いた。
「誰だ、遅刻してきたやつは……って、藤谷、か?」
黒板の前に立つ、父親くらいの歳の先生が驚いた顔をしてこちらを見ていた。
この顔は何度か見たことがある。
保健室で。
教室中の視線はいまやあたしが独占中。
その感情は読み取れないけれど、たぶん動揺しているに違いない。
入学式から二週間たった現在。
あたしはホームルームはおろか授業にすら、一度も出ていなかったのだから。
「遅れて、すみませんでした」
こんなところで反抗的な態度に出てもしかたない。
というか、別にこの先生をどうのこうの思ってはいない。
頭を下げて、突き刺さる視線の中を進む。
足が、ふるえている。
なんとか無表情を取りつくってはいるけれど、本当は回れ右をして走り出したい。
胃から、こみあげてくるすっぱいもの。
ぎりぎりと締め付けられるようななにか。
カバンを握った手にくいこむツメ。
ハナで呼吸ができない。
うすくくちびるをひらいて、浅く何度もくり返す。
こわい。
ずっと優等生をやっていたから、こんな視線を浴びせられるのははじめてだ。
中学のとき、遅刻してくる子は堂々としていたものだった。
でも、本当はそうじゃなかったのかもしれない。
自分が似たような境遇に立って、ようやく知ったこの緊張感。
あたしは遅刻してきた子を見下して、同じクラスであることがはずかしいとさえ思っていた。
もしかしたら、同じことを思っている人間がここにいるかもしれない。
こんなあたしを見下して、笑っているのかもしれない。
極力、目を合わせないで歩いた。
自分の席は保健室の中山先生に聞いていたし、朝にカバンを置きにくるのが日課になっていたから、迷わずにたどり着くことができた。
窓側から二列目、前から三番目。
見える空はあいかわらず色がない。
イスを引けば、乾いた音。
なつかしい、木のにおい。
ニスのはげた机にカバンを置いて、腰を下ろす。
自分の行動を見られているのだと思うと、指先まで緊張が走った。
「それじゃあ、全員揃ったことだし、今日は点呼でもとるか。なあ」
気を利かせたのか、先生はクラス簿を見てひとりひとりの名前を挙げていった。
そういう気づかいがかえってあたしを目立たせ、追い込むということも知らずに。
名前なんて覚えるつもりはない。
ここにきたのは、シロのためだから。
あの場所を守るためだから。
あと五分。
そうすれば、また鐘がなる。
そうすれば、ここから出て行ける。
落ち着きのないざわめきが、耳に突き刺さる。
ここがいばらの森だったら、あたしはとっくに貧血になっているだろう。
まるで吐き出した息をも見られているみたいで、気分が悪い。
鼓動は皮膚を突き破って、飛び出してくるのではないかと思えた。
「藤谷」
呼ばれた名前に、できるだけ素っ気無く返事をした。
たったそれだけのことでざわめきが大きくなる。
頭がいたい。
胸がいたい。
やっぱり来るんじゃなかった。
最低男のいうことに耳を貸さずに、どこかへ逃げてしまえばよかった。
後悔ばかりが津波のように押し寄せる。
こらえきれなくなって顔を下げると、後ろの席のイスが勢いよく鳴った。
次の瞬間、大きな振動と衝撃。
それはもう、痛いくらいの。
「あ、ごめん!」
臨界点まで到達していたあたしへ火をつけたその衝撃。
思わず、怒りをこめて後ろを振り向いた。
その姿を、下から見上げる。
「穂村、ぼんやりしてるなよ」
すみませんと、頭を下げたその顔。
はずかしそうに笑った、後ろの席の子は。
「穂村みつき、出席と」
昨日、廊下でぶつかったあの女の子だった。