名前なんか初めから存在しない
俺は一体何者なのか、と考えて必死に迷う。中学の頃にそれを考え始めてから、色々な事を想像してみる。もしもあの時、あんな事していなかったら、今ごろ違う人生を歩んでいたのかもしれない。
怖くて怖くて、震えがおさまらない。毎日が怖くて仕方無い。人の視線が怖い。人の言葉が怖い。人の行動が怖い。近くに寄ることさえ出来ない。俺は哀れだ。歩いている姿でさえ、俺はこうも気味が悪い。そんなつもりはないのに、睨み付けているような鋭いナイフのような目をした俺は、いつも人と会うと怖がられる。避けられるから俺も避ける。
俺は俺が嫌いだ。
顔も、体も、名前も、俺だと認識できる全てが嫌いだ。俺という存在を過去も現在も未来も、消えて無くなればいい。俺なんて初めから産まれなければよかった。頭も悪い、運動も出来ない、好奇心もない、巧みな話術もない。挙動不審で気味が悪がられ、学生の頃は俺の隣の席になった者は罰ゲームだと言われた。
何人かは俺を慰めてくれたが、その何人かでさえ俺は信じる事が出来ない。俺は卑怯だ。俺を助けるのなら、俺を蔑む奴等と仲良くするな、と言いたい。大体そういう奴に限って、誰とでも仲が良く皆に慕われている、良い奴だ。
俺もそういう存在になりたいとどれ程願ったか。神様なんて誰も救っちゃくれない。上からただ見ているだけだ。そんな曖昧な存在に毎年祈りを捧げに行く人の気が知れない。
外出する事すら許されない。俺が道を通ると、誰かがひそひそと俺を指差して笑っているからだ。皆はそれを気にしすぎ、勘違いだと言うけれど、そんな筈はない。俺自身、変な人を見かけると心の中で笑っている。あんな人が町を歩いているってだけで不快極まりないとも思う。だから、他人がそう思っていない訳がない。
俺がそんな人だからだ。ずっと誰かに指差され、笑われているのを我慢して、堪えて、見ないふりをして、泣かないように気をしっかり持って。いや、いっその事泣いてしまった方がどれ程楽なのだろう。くだらない事でも、肝心な時でも、どんな時でも俺はもう泣けなくなった。
泣き飽きているからかもしれない。
家でもそうだ。俺が喋るのを止めた途端に態度が変わった。中学の終わりの頃に俺は家族とも喋るのを止めた。こんな腐った奴等と喋っていた昔の自分に腹が立つ。こんなくだらない家族だった。毎日楽しそうにしていたのは、形だけだった。中身がなかった。器だけは立派なインスタント食品みたいなものだ。そんなものはお湯をかけて3分経てば終わるような、そんな家族だった。
それに気付いた時に俺は喋るのも、この家族に期待するのも止めた。何も意味がないからだ。同時に俺の未来も終わった。どうせ金が無いんじゃ努力したところで意味がない。努力をするためにまた金がいるのに、それがないんじゃ何も出来ない牢屋と同じ。俺は閉じ込められた。この家族に生まれ育った為に、こんな汚い牢屋に閉じ込められたんだ。
目が死んでると言われたのは、高校の時からだ。第一志望も落ちて結局滑り止めで受かったくだらない学校に通う事になった。もしもう少しあの時、家族が協力的だったなら、俺は選択肢があったかもしれない。初めての受験で何も分からないのに、何も手伝ってくれなかった家族は平気でテレビを見て笑っていた。相談しているのに、自分で何とかしろと、言われた時は生まれて初めて殺意が沸いた。家族が寝ている時に、包丁をもって何度殺しかけたか分からない。でもいつも直前で止めた。結局生きている家族を見ていて、もう何もかもを諦めた。
夢なんてない。希望もない。何もない。俺には何も残ってやしない。この無駄な人生をどう生き永らえるかしか考えていない。その頃はまだ、死にたいなんて思っちゃいなかった。
大学でまた、第一志望に落ちた。普通の家庭なら、留年してまた次を受けさせてくれるのかもしれない。この時俺はそれをしたかったが、金がないから諦めた。どうせこうなると思っていた。そんな矢先に祖父が倒れる。祖父が俺の大学について色々語っている。卒業していいところに就職して、そんな姿を見たい、と。俺は心が痛かった。痛くて痛くて情けなかった。ツラいのはずっとツラいままだ。祖父の為にも俺は頑張らないといけない。でももう無理なんだよ。ずっと前に大学辞めてるから。ゴメンよ。俺がこんなくだらない人でなければ、祖父の期待に答えられるような人になってたのにな。大学に行くふりして、ずっとどこかの公園で泣いている。日が暮れるまで泣き続けている。
そうして頃合いになると家に帰る毎日。どれだけツラいか、祖父には分かるのかい。家族も、祖父も、従姉も、皆勝手過ぎる。俺がこんな人だと知らなさすぎる。期待をかけすぎる。俺に期待しないでくれよ。
皆の視線が痛い。皆の言葉が痛い。皆が俺の為に動いてくれる事が何よりも痛い。薄っぺらな関係しかないと思っていた家族や親戚が、今ごろになってこんなに動いてくれる。皆偽善者だ。中学の頃に何もしてくれなかったくせに。皆大学は将来がかかってるからって急にあれこれ始めやがって。偽善者だ。偽善者の集まりだ。何でだよ。何でなんだよ。誰も俺なんか見ていないくせに。自分達の金をどれ程有効に扱うかしか考えていないくせに。俺なんかどうせ、金の無駄遣いなんだろう。そうはっきり言ってくれよ。俺なんか産まなければ良かったってはっきり言ってくれよ。厄介者を育てている身にもなれと、そうはっきり言ってくれよ。
何でなんだよ。
俺なんかいない方が楽じゃないか。