突然の出来事
「大野さんですよね」
という男の人の声にはっとして振り返ると栗原さんの姿があった。
あまりにも突然のことで面食らった私はとっさに声が出ずにただうなずいただけだった。
「いつも電話しちゃってすみません、けっこう迷惑なんじゃないですか?」
「いえいえ、全然そんなことないです」
私は受け答えるだけで精いっぱいだった。
何しろあの栗原さんだ。丸の内営業所の女子社員の話題の的のあの栗原さんと私は話をしている。
「お酒飲めるんですか?」
「いえ、私はあんまり飲めなくて。だから今日も来るかどうか迷ったんですけど」
「へ~実は僕もそんなにこういう飲み会って好きじゃないんですよ。」
「そうなんですか?栗原さんってすごい社交的な感じがしますけどね」
そんなことないですよ、と笑った顔を見た瞬間、いや本当は一番最初に声をかけられた時からかもしれない。
私は得もいえぬ胸の締め付けを感じていた。
ときめきとか言われる類のあの締め付けと顔の火照り。
米山さんたちが別のテーブルから私と彼を横目で見ていた。
それに気づいてなぜかどこか誇らしくなった。
結局栗原さんと話したのはあの数分だけだったけれど私はその後も席を移動しながら全員と話をしている栗原さんをずっと目で追っていた。
米山さんたちとも話していた。私の視線に気づいた米山さんは得意気な表情で私を見た。
初めのうちこそ大して気にも留めなかったけれど私もだんだん不安になってきた。
結局私と話したのも単なる社交辞令なんだろう。
なんでそんなこともわからないで私は勝手に春を始めてしまったのだろう
もう30年近くも生きているのにまったく情けない。
そう思うともうさっさと帰りたくなってきた。
私はいったい何をばかみたいに勘違いをしていたのだ。
そりゃあそうだ、栗原さんはそういう人で私はそういう人なんだ。
つまり世界が全く違う。太陽と沼の中みたいなものだ。
二時間が終わり、各々店の前にたまっている。
私はその人波をかきわけて駅へ向かった。
今日は何もなかった。やっぱり意味がなかった。
いつもそうだ。人の誘いにのったっていいことなんて何もない。
大野さん、と呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、栗原さんがいた。
「帰るんですか?」
私はまたとっさのことで声が出ずにただ頷いた。
「電車ですよね?」
「はい」
「送らせてもらっていいですか?」
「はい?」
何を言っているのかわからなかった。
でも私は栗原さんと隣に座って日比谷線に乗っていた。
「栗原さんはお家どこなんですか?」
「家は・・・六本木なんですけどね」
「え?逆方向じゃないですか」
「そんな、全然気にしないでくださいよ。てかそう言われると思ったからあまり言いたくなかったんです」
「あ・・・すみません」
「謝らないでくださいよ。僕が送りたいって言ったんですから」
「でもいいんですか?二次会とかあったんじゃ・・・」
「いえ、ないですよ。だって僕がすぐ帰ってきちゃったから」
「なんで、ですか?」
「大野さんともっと話したくて」
「え?」
栗原さんは私の顔をじっと見て言った。私も彼の顔をじっと見た。
「初対面でこんなこと言ったらチャラい奴って思われるかもしんないけど」
電車が三ノ輪を出て真っ暗な地上に顔を出した。
「大野さん、めっちゃタイプです」
私が何も言わないうちに彼の手が私の手に絡まった。
「あぁ、もう遅くなっちゃったな」
彼が囁くようにつぶやいた。
「もしよかったら」
次は終点、北千住、北千住です、というアナウンスとともに電車がホームに滑り込んだ。




