凜ってこんな子
夕暮れ時、アパートの前。背の低い塀に囲まれた駐車場で、東野拓海は一人の女と対峙していた。
金に染まった髪に、濃いめの化粧を施した顔。それは東野が帰る間際に話し掛けてきた女だった。
名前は『園田夢見 そのだゆみ』と言うらしい。事情を知っていると言う彼女が、アパートを飛び出してきた東野に案内すると告げてきたのだ。一刻も早く凜を助けたい東野としては、いくら怪しくても付いていくしかない訳だが、それにしても。東野は大学での彼女との会話を思い出す。
「今回のこと、自分は直接関わってないって言ってたよな?」
「……そうだけど」
「じゃあなんで、大学で凜のことを聞いてきたんだ?」
問い掛けるても頼まれただけだから詳しくは知らないとだけ返す夢見。
「頼まれた? じゃあ、その時はこんなことになるって、聞かされてなかった……ってことか?」
「ううん、知ってたよ。これは自分の意志で手を貸したことだもん。でも、こうなった経緯を聞かれてもアタシからは答えられないよ?」
(自分の意志でやったことを言えない……?)
深意は解らなかったが、口止めでもされているのだろうか、彼女は言葉の通り聞いても答えなかった。これ以上聞いても無駄か、と判断した東野は質問を変える。
「誰に頼まれたのかも言えないのか?」
「あ、それは言えるよ」
前を歩く彼女が振り返る。
「千川くんって人、知ってるでしょ?」
「千、川……?」
言われて、東野は過去の記憶を遡り、千川という苗字から『千川晃 せんかわあきら』の名を思い出す。
千川晃。東野が中学生だった頃、2つ上の学年にいた男だ。見た目はどこにでもいる中学生のそれだったが、いつもヘラヘラしていて、学校で問題が起こればこの名前が挙がる、というような男だった。それと同時に、東野が悲惨な学生生活を送ったのもこの男が原因だ。凜に言い寄った過去まである。
(千川晃……確かにアイツならやりかねない、な……)
彼は東野にとって、一番関わりたくない相手でありトラウマそのものだった。
そんな男が、今度は凜を誘拐したという。
「…………っくそぉ……また、また邪魔するのかよ……。せっかく忘れられたと思ったのに……っ!」
東野の頭を嫌な記憶が覆っていく。忘れたくて栓をした過去が、噴き出したように次々と蘇ってきてしまった。一気に思い出したことと、いろいろな感情がない交ぜになって眩暈すら覚える。ふと汗に濡れた感触に手を見ると、
「………………千川、晃」
胸に渦巻くものがある。吐き気が込み上げる。
(…………いや、今は、俺がするべきことを)
振り払うかのように、脳の隅へ追いやった。
東野らのアパートから5キロほど離れた場所に、二階建ての壊れたビルがある。
辺りには割れた窓と破片が散らばっており、人の手を離れて長いのだろう雑草が伸びっぱなしになっている。中は吹き抜けになっており、錆びたパソコンやらカビの生えたデスクやらが放置されていて。使われていた当時の残骸だけが面影を残していた。
およそ人の気配のしないそのビルに、今は明かりが灯っている。何人かの人影も見てとれた。
また、外に漏れたお世辞にも綺麗とは言えない談笑の輪の中に、手と足を縛られ、床に転がされた少女。東野の幼馴染みである北篠凜の姿もあった。
と、その時、扉が開かれ東野らが入ってくる。
「東野って子、連れてきたよ」
「おー、やっときたか。ご苦労」
赤い短髪を立て、耳にジャラジャラとピアスをした男が夢見に話しかけると、東野に振り返り旧友に挨拶をするそれのように手を上げた。
「よー、久しぶりだな。拓海」
「千……川……」
この凜の隣にいた男が千川晃だった。東野の記憶にいる彼の姿とは異なっていたが、その男の顔には千川を現すアイコンとも言えるようなへラヘラした表情が張り付いていて。理解した途端、緊張とも恐怖ともとれる面持ちで顔を伏せる東野。
「なぁ、拓海。いやぁ~それにしても懐かしいな。お前覚えてるか?」
ニヤニヤと薄気味悪い笑みを貼り付け、千川が近付く。
「オレが家燃やすぞって言ったら、大人しく言うこと聞いて色々やってくれたよな?」
千川の言葉に表情を歪ませる東野。その反応が気に入ったのか、千川は一人で続けていく。
「まぁそりゃ、お前は親いないし大家に迷惑かけちまうもんな~。オレがお前だったとして、おんなじ選択したと思うぜ?」
言いながら、千川は同情する様に眉を寄せ、表情を作る。嘘だけどな、と言わんばかりにその間も笑みはこぼれたままだ。
「で、お前に色々やらしたって話だったっけな。んー、ちっさいので言うと……そーだなー、あ!」
わざとらしく手を打つと、続ける。
「オレが欲しい、って言ったら、律儀に凜ちゃんの下着盗ってきてくれたりとかな? あったな~」
忘れていた記憶を掘り起こされ、東野の顔が熱を帯びていく。煽られて、思わず血管が浮き出るほど拳を強く握り締める。それほど、東野に刻まれた羞恥は大きなものだった。
「そういや、学校の窓を全部割って捕まったこともあったっけ? あぁ~、あれは悪かったな。だからそんな顔すんなよ。未成年だからセーフだったろ?」
恥ずかしい過去を掘り返されて、平静でいる人間は多くない。ましてや、東野にとっては千川の声も、態度も、ニヤニヤした表情すらも不快なものだ。そんな東野の沸点が限界を迎えるのは、あまりにも必然だったと言える。
「…………そんな話するために、こんなことしたのか……?」
「あ?」
「凜を返せ。もう帰って忘れてやるから。お前のことも」
「はぁぁぁ?」
怒りが完全に恐怖を上回り、千川を睨み付ける東野。千川は、
「はっ? ……はは、アッハハハハァア!?」
突然、腹を抑えて笑い転げた。狂気にも似た笑い声を上げる姿を、唖然として見る周囲の男達。見れば、夢見すらも呆然と見つめている。
「あ~ーー…………フー、笑った笑った」
千川が周囲の注意を集めつつ深々と息を吐く。ふと、部屋の空気が変わった。
「このガキが。状況を理解できねぇのか? その様子だと、お前んちに何人か送ったこともしらねぇみたいだな?」
「な……!? 千、川……お前えぇぇぇ!!」
東野が戦慄する。自制も忘れ、言うつもりは無かったんだがな、と手を振る千川に衝動的に掴みかかった。と、
「テメェはもう黙ってろ!」
「あ、っぐ!?」
ゴキッ! 部屋中に鈍い音が響く。東野は頬に熱を感じると同時に、床に叩きつけられた。
「お前が帰ったら家がぐちゃぐちゃってシナリオがイチバンだったんだがな。もぉいいや、お前ら」
千川が言わずもがな、応じるように道具を拾う男達。千川らにとっては幸いにも、ここは廃ビルだ。鉄パイプや角材など、武器には事欠かない。
「そのガキ殺せ」
千川が指示する。こぞっていきり立つ男達。東野の私刑が始まった。
「待てよ! 大家とか、あの人は関係な……が、っは!?」
「うるせぇな。サンドバックが喋るんじゃねぇよ!」
東野の脇腹に、男たちの振るう鉄パイプが叩き込まれる。
「安心しろよ。まだ指示してねぇから」
千川はそう言って、
「それよりまず、お前に地獄見せてやる」
「うぐっ! ま、待て……止めろ……」
横になった凜の両手を掴み、東野の前に差し出した。
「お前の目の前でこの娘を犯す、いい考えだろ?」
「止め、ろ……やめろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
今の東野にとって、それは思いつく限り最大限に神経を逆撫でる行為だった。激高する東野。周囲を取り囲む男達が、あまりの勢いに押され手を止める。
「アッハッハ。いいねいいねその反応! じゃあまず上から脱がすかなーー」
面白がって手を伸ばす千川。予定通りにいけば、このまま凜の裸が、東野の吠え面が拝めるはずだった。
筈だったのだ。がーー、
「触るな。クズ」
それは突然だった。驚いた表情の千川の顔面に、凄まじい速度で凜の膝が激突する。その唐突に放たれた膝蹴りは、ガコッ!! と生々しい激突音を炸裂させ、自分より体格の大きい千川を軽々と壁まで吹き飛ばした。
「…………ご主人様に……会える、って……期待してたのに……」
急な展開についていけず唖然とする東野を尻目に、凜は何事も無かったかのように平然と立ち上がると、
「………………作戦、しっぱい」
微かな音を立て、床に千切れた縄が落ちた。
「は……?」
縄が落ちるのとどちらが先か、体重など感じさせないほど軽やかに凜が舞う。その途端、連続する打撃音。殴り、蹴り、打ち、吹っ飛んだ男達が次々と床に転がっていく。そんな光景を目にして、自らを包む無力感から東野は顔を伏せた。
(……俺は、また…………凜に頼って……っ)
「…………たく、み……?」
突然の声に驚いて顔をあげる。
「うわっ!? ……なんだ、凜か」
目の前に垂らされた黒い髪を見ると、誰かは直ぐにわかった。が、
(って! おいおい!)
心配そうな面持ちで東野を窺う凜だったが、図らずも下着を見せつけるような格好になっていて。柔らかな感触を視覚にも伝えるような太腿と、その間に覗く白い布からは条件反射のように慌てて目をそらした。
「な、なんだよ……って?」
目線に困りチラチラと辺りを見ていると、男達が全員伸びていることに気付いた。安堵から息を吐く東野。と、眼前に首を傾げた凜の顔が被さる。
「……どう……して、泣いてるの? ……わるものは……退治した……のに」
「ーー……え?」
ふわっ、と労るように東野の体が抱き締められる。自らの目に手を這わすと、確かに濡れた感触がある。泣いてしまっていると自覚すると視覚まで滲むのか、東野の眼には手がぼやけて映っていた。
「お前が、また……無茶するから……っ! 大丈夫か? 怪我ないか!?」
心配してるのは自分なのに、と慌てる東野に思わず笑う凜。気付けば不安などは跡形もなくなっていた。
「……大丈夫。拓海の、おかげ」
「いや、俺はなにも出来なかった……凜に助けられたよ。俺はまたお前に頼って……」
そんな東野の言葉に、凜はふるふると顔を左右に振るうと、
「……うう、ん。あなたの、おかげ……だよ」
ニコッ、と微かにだが笑って応えた。
(違うんだよ、凜。俺は……お前を守らないといけないのにーー……ん?)
東野の視界の端で、なにかが動いた。よく見れば、千川が息を吹き返している。
「……げほっ! テメェら、これで終わったと思うなよ……!!」
蹴られた所が疼くのか、顔を手で抑えたまま吠える千川。同調するように東野の怒りが再燃する。
「千川ぁぁぁ……っ!!」
立ち上がろうと力を込める。と、目の前に凜の手があった。どうやら、動くなと言いたいらしい。
「まっ……てて」
「違う、お前が待て。ここは、俺が……いつっ!」
這うように動こうとすると、あちこちに激痛が走る。予想以上に痛めつけられていて思うように動かない身体に舌打ちする東野。そんな姿に凜は心配そうに瞳を揺らし、千川に向き直った。
「……許さない」
体内が沸騰する。意識しなくても脚が動いて行く。それは怒りを体現しているようだった。念じられているようにふらふらと対象に向かっていく凜。
「どうした? 怖くねぇぞテメェなんーーざ……」
威勢のいい千川が、凜の目を見て言葉を失う。
(……なん、だコイツ。殺す気か? まさか、本気で……!?)
「地獄……って、本物を見たことは?」
眼前に立つ凜の眼から光彩が失せていく。千川は、自分より年下の女の子である凜の瞳に恐怖を見た。生物に備わった機能としての本能が警笛を鳴らす。目の前にいる女は“死そのもの”だと。そう感じた時には身体が動き出していた。
「やめろ……っ!? く、来るな! 来るなぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「許さない。たとえ、死んだとしても」
それは、とても一般人の域を出ない千川に耐えられるような殺気ではなかった。
「うっ、お……ぁぁ……あぁぁぁぁぁァぁぁぁぁぁ!」
咆哮。直後に、千川の身体が跳ねる。窓を開ける余裕などはなく、そのまま叩き割ると脱兎の如く外へ飛び出していった。
「……にげられた……」
窓に虚ろな眼を向けていると、
「……り~~んん?」
不意に東野の怒気を孕んだ声がした。
「ひっ!? ……な、なに……たくみ」
寒気から身を捩り、恐る恐る振り返る凜。
「なに、じゃねぇ! どんだけ心配したと思ってんだ!!」
「ご……ごめーー」
口を開こうとすると、更に怒声が飛んでくる。
「お前の怪我は俺の怪我でもあるんだから、もっと身体を大事にしろ! あぁもう、だから俺が行くって言ってんのに……ちょっとは言うこと聞けバカ!」
「ぁ……はぃ……」
東野の怒った雰囲気とは裏腹に、掛けられた言葉は優しいものだった。それは凜にとって嬉しいだけの意味では済まず、なんだか胸の辺りから昇ってくる熱気に思わず倒れそうになる。
「……なに赤くなってんだ? 俺は怒ってるんだぞ」
怪訝そうな顔の東野に、熱っぽくなった視線を向ける。変に大きな鼓動が胸を押すような圧迫感は、両手で抑えても足りないようで、胸の中のなにかが譫言のように口から漏れ出した。
「も……もっ、と……叱って……?」
「は、ぁ……? な、なんだって?」
東野の表情が驚きに染まる。その反応を見て、ようやく意識が戻り始めた。
「……ーー!! ……た、たくみに……かんけい……ない」
(あ……ご主人さまじゃ、なかった……。でも、これも……いい、かも……)
髪の間から見える小さな耳が揺れている。凜の反応が予想と違ってよくわからない東野だったが、今は無事に済んだ安堵感の方が大きい。そう思うと怒る気も失せていく。彼にとってはいつもの流れで、心中を穏やかにするのに一役買っているようだった。
「どういうことだよ……。まぁ、いいか。それよりちょっと来い」
頭に疑問符を浮かべる凜を、こっちにこい、と手で促す。東野は、素直に応じる凜を迎えるように両手を広げ、
「…………ん……っ」
割れ物を扱うように優しく抱き留めた。
「ほんとに、無事で……よかった……っ!!」
嗚咽に肩を揺らす東野の背に手を回し、背中を擦る。今回の件の発端である凜は後悔していた。
(……荒療治、だった……あなたのトラウマ……治ればと思って……しっぱい)
「ちゃんと守ってやれなくて……ごめんな」
東野の言葉に胸が痛む。
(わたしのせい……ごめん、ね……でもーー)
それでも、彼の言葉は優しく凜に響いていた。
「………………ありがとう」
自分の胸で感謝を口にする凜。彼女が原因だとは知る由もない東野は、返事の代わりにより強く抱き締めることで応じる。
夜になったと気付いたのは、腕の中で僅かに寝息を立てる凜に見飽きた頃だった。
(……まさか、だけど。可愛いってだけで誘拐に至った訳じゃないよな)
彼が真相を知るのは次に凜が目覚めた時になる。