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街シリーズ

街々な街並みの並々ならぬ街達

作者: 狩人二乗

「周りの人たちがどう思っても、君たちだけいてくれれば僕はここに存在する」

 誰も、何も、何物も、何者も見えない砂漠。

 地面に広がる砂しか確認できない、そんな場所。

 そこに、確かに存在する『モノ』がいる。

「……まあ、君のいうことは間違っちゃいない。確かに他の人の存在というのは大切なものだろう。でも、どうだろう。僕には君たちだけいれば十分な気がするんだ」

 それは若い男の姿を模していた。登山服のような服装で細長い全身をまとい、黒い髪を肩まで伸ばしている。表情は穏やかなようで、目つきは柔らかさを兼ね備えていた。

「ん? 『じゃあお前は何のために旅をしているのか』だって? 決まってるじゃないか。前から言ってるだろ。君たちという存在を、もっと増やす為だよ」

 若い男は昼間の砂漠の中で一人、誰に向かってでもなくブツブツと呟いている。

 時折笑い、時折口を閉ざし。

 時折真顔になり、時折呟く。

 その繰り返しをしつつ、男は砂漠の先に向かってゆっくりと歩いていた。

 ――なのに、男の額には。

 汗など一滴も垂れていなかった。「こうして足を動かしながら、口を動かしながら次の街に向かっているのは、君たちの為でもあるんだ」

 アハハ、と。

 男は口の端を少しだけゆがめて笑う。

 その視線の先に待つ街は、どんな街なのか。

 それは男がその街につかない限り、わからない。

 次なる街の全貌を知るために、男は依然として歩き続ける。誰もいない砂漠の中で紡がれる呟きをかみしめつつ、歩き続けた。



 ――翌日。

「着いた、か」

 男は巨大な門の前にいた。灰色の門。人が縦に十人くらい揃えられても尚も届きそうもない高さを兼ね備えた門の前に、男はようやく辿りついた。その門は扉というような立派な代物はなく、灰色一色で染められていた。

 壁。

 この門は、壁と定義した方がいいのかもしれない。

 しばらくの間砂漠を歩き通しだったのだが、しかし男の表情には全く疲労の色が見えない。飄々としている。それは一日前と同じ表情であり、もっというならばそれよりももっと前――前回立ち寄った街を出発した五日前と、同じ表情。

「門番はいない街なのかな? でもこれ、どうやって入ればいいんだろう」

「そのまま直進してください」不意に、門の向こうから声が聞こえた。透き通った女性の声。「この街の門は見せかけです。『来訪者は全員通すように』。それがこの街の決まり事です」

「ですが、門があって直進なんてできませんよ」

「ですから、この門は見せかけなんです。試しに直進してみてください。私の言ってることが理解できると思います」

 男は門の向こう側で喋る女性の言っていることの真意を今いち掴み取ることができなかったが、それでも、言われた通りに前へ進んでみる。一歩、一歩。灰色の物体がゆっくりと、だが着実に眼前に迫ってくる。男は目を閉じずにいた。視界をなくすことなく、ただその灰色を眼前に、眼中にとらえる。とらえたまま、女性の言うとおり直進した。

 門が体に触れる――その刹那。

 いつの間にか男の目の前には一人の女性の姿が存在していた。

 驚いて男が周りを見渡してみると、砂漠はなかった。女性を境にして横向きの木製の家々が視界の先まで並列にならび、等間隔の通路をあけながら更に家々が同じように縦に並んでいる。いや、家々が並んでいないところもあった。そこには、先刻までの砂漠とはうってかわって、木々が生い茂っている。草花も当然のように咲いており、街に住む人々が笑いながら歩いている。いくらなんでも砂漠の中に存在する街として異常な光景だった。

「な……」

「ほら、言った通りだったでしょう。この門はみせかけだって」女性はウフフと笑いながら、男に話しかける。「門に一時でも体に触れると、門を介して反対側に移動されるんです。街の中からだったら街の外に。街の外からだったら街の中に」

「……どういう仕組みなんですか。僕は今まで旅をしてきたけれど、こんな技術、知らない」

「努力の成果です。努力が積み重なって、夢がかなって、この街は発展してきました」

 女性は紺色のエプロンを着ていた。長い黒髪は黄色のナプキンで束ねており、温和な表情をしている。男よりは少し背が低い彼女は、何やら重そうなバッグをもつ左腕はそのままに――右手を高く上げ、手のひらを太陽にかざしながら笑顔を男に向けた。「旅人さん、長旅ご苦労様です! ようこそ『努力が報われる街』へ!」

「……それがこの街の名前ですか」

「はい! あ、申し遅れました。私、レストランイキサワカでウェイトレスをしています、エレナと申します。時間にお暇があったら寄ってみてください。魚料理がおいしいんですよ」

「さ、魚……? い、いや、それよりもなによりも、」

 どう考えても砂漠の真ん中で魚料理はおかしいだろうと思ったが、頭にぼんやりと思い浮かぶ疑問点から女性に問いかけてみる。「あなたは門番ではないのですか?」

「はい違います。私は買い物帰りのウェイトレスです。バッグの中みてみますか。魚いっぱい入ってます。重いです」

「え? じゃあ何で僕を呼んでくれたんですか?」

「偶然ですよ。この街に門番の制度はありません。門にちょっと触れれば街の中に入れますからね。あとはだれであろうとご勝手にしてくださいって感じです。私は、本当に、気まぐれに通りかかっただけです」

 そういうと彼女はにこやかに笑い、「じゃあ旅人さん、私はこれで。ゆっくりしていってくださいねー」と朗らかに去って行った。

 男は、

「わ、わかりました」

 とだけ返し、その場にしばし立ってみる。立って、街の景観を再度眺め――これはどう考えても砂漠の中に存在できる街ではないと――再度、思った。視界の端には噴水まで見えている。水しぶきが舞い上がるそこで、水着になって遊んでいる子供と、それを眺める母親の姿をみることができた。「……そういや日照りが和らいだ、のか? エレナさんは長袖のエプロンを着ていたけど、水着の子もいれば、半袖の服を着る人もいる。え? 『これからどうする気か』って? そんなの考えるまでもないだろ?」

 いつも通り、街の全貌を確かめるのさ。

 男はついに歩き出した。エレナが教えてくれたこの街の名前――『努力が報われる街』の真意を確かめるために。





「とはいったものの」

 男はぶらぶらと歩いていた。街の端から端まで。砂漠の中にあるのに木でたてられた家というのもおかしな話だよなと思いながら、家が並立に並ぶその間の通路を歩く。途中、会話しながら歩く人々の話にも耳を傾けつつ。

 街の人々は旅人の存在など気にもかけていない様子だった。たまに「お、にーちゃんもしかして外の人か?」と声をかけてくる者もいたが、たいていは酔っ払い。昼間からのんだくれているオジサンやオバサンばかりで、男が「はいそうです。この街はどんなところですか?」と尋ね返しても要領の得ない回答しか返ってこなかった。要は暇な者だけが、少しだけでも暇をつぶすために話しかけてくるだけなのだろう。

 それ以外の人たちは。

 時間を惜しまず、会話を気晴らしの道具として利用しつつ、ストレス解消のためだと言わんばかりに時折笑い、生きていた。

 試しに男はその人たちに話しかけてみたが、無視された。外の世界の住民なんか、旅人なんか、お前なんかの相手をしている暇はない。だからしゃべりかけるな。無視を決め込む街の人たちの視線からそんな感情が読み取れる気がした。

 こういう風に街の人々は。

 一部を除いて。

 必死になって、生きている。「努力が報われる……だからこの街の人たちは、少しの暇も惜しまず生きているってことか?」

 ――だが、それだけならば。

 昼間から酔っぱらっている人たちの存在が説明できない。

「ううむ。名前だけ聞くとすごい街だけど、やっぱりいいことばかりじゃないよなあ」

 これからどうしようかな。

 誰にでもなく小さくつぶやき、うんそうだねそうしようと誰にでもなく小さくつぶやき。

 情報収集のため、とある木製の家の中――先刻エレナから紹介されたレストランイキサワカの中に、入った。

「いらっしゃいませー!」木製の扉を開けると、チリンチリンと鐘の音が店内に鳴り響く。円形のテーブル席がまばらに設置されており、客も少ないながらもいた。全員酒を飲んでおり、つまみを食べている。会話にはなを咲かせるものもいれば、一人でちびちびと酒を飲むものもいた。鐘がなってから「少しお待ちくださいねー」という声が聞こえ、直立して待っているとエレナが現れた。「お客様おひとりでしょうかー? ……って、旅人さんじゃないですか! 来てくれたんですか!」

「どうも」

「わあ、ありがとうございます! ささ、カウンター席へどうぞ! 店長ー、お客さまですー!」

 あたり一面が一気に明るくなるかのようなエレナの笑顔に男は迎えられ、店の奥のカウンター席へと案内された。椅子が四つならんでいる中、奥の方の椅子に座る。そうするとエレナがすぐに水が入った小さなグラスを持ってきて、メニューも持ってきてくれた。「ごゆっくりどうぞ!」

「ありがとう」

 素直にそう返すと、エレナはまた満面の笑みを男に浮かべて他の客へ水を注ぎに行く。その様子を、右隣の酔っぱらった老人が眺めていた。

「やっぱりええのうエレナちゃんは。なあ、お前さんもそう思わんか」

「え、あ、はい。そうですね」突然声を老人から声をかけられて戸惑ったものの、返事をする男。「なかなかかわいいんじゃないでしょうか」

「なかなかどころではない! あれはかなりかわいい部類じゃ! あのレベルに到達するには、持って生まれたものがないといかんぞ」

「持って生まれたもの……とは?」

「才能じゃよ、才能」

「え? 才能が必要なんですか? この街は努力をすれば報われる街なんじゃないんですか?」

「……なんじゃいあんたよそ者かい。何にも知らんのな」

 老人はあきれてものがいえないとばかりに露骨にため息をついてくる。その様子に全く苛立つことなく、男は「そうなんです。先ほどこの街に入ったのですが、誰からもめぼしい情報を入手することができませんでした」と素直に自分の現状を老人に伝え、加えて「もしよかったらこの街のことを教えてくれませんか?」と老人に尋ねた。老人は最初戸惑った様子だったが、「言っても意味のないことだとは思うがの」と呟き、暇つぶしにしても面倒だとも言わんばかりに微妙な表情をしつつ、グラスに入った酒を飲んで、語り始めた。

「この街の名前は確かに『努力が報われる街』じゃ。そしてその名の通り、この街で何らかの努力をすれば必ず報われる。女を磨けば必ず美人になり、料理の腕を磨けば必ず料理がうまくなる。スポーツでも歌唱力でもそうじゃの。とにかく、何かの項目で努力をすれば、必ず人並以上にはなるんじゃよ」

「でも才能が必要なんですよね?」

「まあそう催促なさんな。落ち着くんじゃよ。老人の言うことは静かに聞いておいた方が身のためじゃ。……努力をしたら報われる。努力をすれば報われる。だからこの街の人たちはそりゃあ頑張るんじゃ。何事に対しても頑張る。子供の頃なんかは特に、じゃな。やることなすことすべてがやってない人よりもうまくなる。その姿を見て、ほかのみんなが努力をして追い抜こうとする。あの眺めは最高じゃったな。じゃから子供の頃は人とは違うことを一生懸命に取り組んどったよ。一番よかったのがじゃんけんに対する努力じゃったな」

「じゃんけんって努力すれば上達するんですか?」

「うむ。上達する。相手の視線の先とかを読み取ったり相手の声色をうかがうことによって相手が何を出してくるか、読めるようになってくるんじゃ。それを知ったほかの子たちがやっけになって努力し始めてのう。その姿を見るのが何よりも最高じゃったわい。ああわしはほかの子よりも上なんじゃ。わしはほかの子よりも努力をしていたんじゃって。……子供のころは、最高じゃった」

「…………」

 今まではめんどくさそうながらも得意げに話していた老人だったが、急にしんみりしだし、しまいにはため息をもらして酒を飲み始めた。「エレナちゃん、酒をもういっぱい持ってくるんじゃ!」と大声で叫び、それを聞いたエレナが「もう、おじいさん。あんまり飲んじゃだめですよお」とか言いながらも酒が入ったグラスを持ってくる。

 と、同時に。

 いまだにメニューを開いていない男の様子をみて、むー、と唸った。「旅人さん。なんですか。情報収集できればそれでいいんですか旅人さん。この店の料理には興味ないんですか」

「いや、そういうわけじゃないんですけど」

 ほほを膨らませてあからさまに怒っている表情をみせるエレナの様子にいてもたってもいられなくなった男は、急いでメニューを開き、魚料理ばかり――というよりも魚料理しかないラインナップをみて驚嘆しつつ、エレナに「この店のおすすめ料理はなんですか?」と聞いた。

「なんですか。独断で決めるほどの料理なんてないんだよこの店にはっていうアピールですか」

「ち、ちがくて。おいしそうな料理がいっぱい並んでて決めきれないというかなんというか」

「……わかりましたよ。おすすめは鯛のムニエルです。おいしいです」

「じゃあ、それで」

「じゃあってなんですか。仕方なく決めてやったよこん畜生早くもってこい料理をこっちは客だぞっていうアピールですか」

「そうじゃなくて。態度がわるかったなら謝りますから。怒らないでくれるとうれしいです」

「むー」もう一度うなり、男の謝罪を一通り眺るエレナ。「わかりましたお客さま。いますぐ料理を持ってきます。少しお待ちください」

「はい。わかりました」

 男の返事を聞くと、少々むすっとした感じではあったが笑顔を男に向け、そそくさとエレナは去っていく。――と思いきや、調理場に入り、店長と思わしき男の横に立って、作りかけの料理を男が作り終わるのを待っていた。

「やられたのうお前さん」

 左隣の老人が新しく用意してもらった酒を飲みつつ、男に話しかける。

「何がですか?」

「エレナちゃんはの、おすすめの料理を聞かれたら必ず鮭のホイル焼きというんじゃよ。店長にそう言えって言われとるからの」

「……あれ? 鯛のムニエルはおすすめじゃないんですか?」

「いんや、おすすめじゃ。鯛のムニエルはこの店で一、二を争うほどのうまさといっても過言ではないぞ。ただそれはわしら客の意見であって、エレナちゃんの意見であって、この店の意見じゃないぞよ」

「では、何故?」

「鯛のムニエルが、この店で唯一エレナちゃんがつくってもよいと店長から認められてる料理だからじゃよ。要は、あんたはエレナちゃんが料理したいがためにだしに使われたってことじゃよ。仕返しじゃ、仕返し」

「仕返しになってるかどうかはわかりませんが……。まあ、エレナさんがつくってくれる料理なんですよね。楽しみに待つことにします」

「うむ。まあそう思うと幸せじゃな。例え――この街一番の料理じゃないとしても――エレナちゃんみたいにかわいい子が作ってくれたと思えば、おいしく感じるじゃろう」

「なんか、含みを持たせた言い方ですね」

「……そうじゃな。要するに、努力をしたら必ず一番になれるということはないってことじゃ。いや、それよりも、努力をしても必ず一番にはなれないと表現した方が――直接的でいいかもしれんのう」

 酒を、少しだけ飲み。

 うつむきがちに、老人は語り始める。「子供の頃はの。みんな、まだ努力をしていないことが多かったからの。一番になるのは簡単じゃった。だがの。十代なかばになってくると、どうじゃろうか。自分だけしか努力していることがどんどん減ってくる。自分だけ努力していたものがどんどん減ってくる。自分が一番だったものが、どんどん減ってくる。差がつきはじめるんじゃよ。努力をして、努力をして。何者にも負けないくらい努力をしても、やはり努力だけで到達できるレベルには限界がある。自分がどれだけ努力をしても全然伸びなくなったころ、不意に、隣で笑ってたやつが軽々とわしを追い抜いてくんじゃ。わしより後に努力し始めたにもかかわらず、じゃよ。努力だけじゃ越えられない壁ってもんがある。そして、それを突き破れるのは――才能っていう存在だけじゃ」

「九十九パーセントの努力と、一パーセントの才能」

「おお、いいこと言うのうお前さん。それとも誰かの受け売りかえ? まあ、ええわ。そうじゃな。わしを含めた皆な、九十九パーセント分の努力をするのよ。そして九十九パーセント分の努力は必ず報われる。けどの、そっから先は……」

 きつかったのう。

 老人は、小さくつぶやく。

「二十代も後半に差し掛かったころはもう地獄じゃったな。同年代の連中の半分くらいの奴はあらかた自分の才能ってものをみつけておった。みつけられなかったわしらは、必死になってそっからもがきつづけなきゃならんのよ。自分だけの才能を見つけるために、ただそれだけのためにいろいろなことに挑戦し続ける日々が始まるんじゃ。そんでもって、才能を見つけた奴らはわしらをつまはじきにする。自分の進む道にお前らは必要ないと言われているみたいじゃったよ。わしらをいらないものとみなし、わしらと会話することさえ拒絶し、その先に努力と才能の結晶をつくりだしていく。この街の様子をみたじゃろ。高性能な門、砂漠の中に自然豊かな情景。噴水もあり、おまけにこのレストランの魚料理。全部が全部、一パーセントの才能が作りあげた九十九パーセントの努力の結晶じゃ。それをみて、才能がみつからんもんは努力をし続ける。……それに疲れて、諦めたら、こうなるんじゃ」

 老人は。

 自嘲するように酒が入ったグラスを持ってその体勢を維持し。

 男にその姿をみせつけた後、酒を一気に飲む。

「……そういうことだったんですね」

 そんな老人の姿をみて。

 ガラス越しの向こうの調理場をみる、男。

 そこではエレナが料理をしていた。汗を額にうかべながら、フライパンを動かしている。楽しそうに料理をしている。その隣で店長がエレナをにらみつけている。その眼は、完全に、エレナを見下していた。

 自分より下の者が努力をしている姿を見下す姿がそこにあった。

「店長さんは、才能ある料理人とかいう人なんですか?」

「うーむ。あんまり言いたくないんじゃが、店長も料理の才能はないぞよ。あったらこんな場所で料理なんぞしとらん。もっと高級な場所で料理して、わしらみたいなつまはじきものじゃあなく、才能ある方々をおもてなしするじゃて」

「……にしてはエレナさんを見下してますけど」

「そりゃ年功序列ってもんじゃ。単純に、店長の方が努力してる時間が長い。だからこそ、努力してる時間が短い――努力をしていないエレナちゃんを見下すのは当然ってロジックじゃよ」

「そんなもんなんですか」

「そんなもんじゃな。……だからの、おい、そこのあんた」

 老人は年老いていることも関係なく酒に強い方だったのだろう。だからこそ今まで顔を赤く染めていなかったのだが、先ほどの一気飲みがこたえたのだろうか、顔を真っ赤に染め、その勢いに任せて男の右隣の――妙齢の女性に話しかけた。女性は老人に話しかけられていることに気付かず、魚料理を黙々と食べている。

「おい、あんたじゃよ。あんただ。無視するんではないぞ」

「……はい?」老人の大声に反応し、老人の視線の先に自分がいることに気付く女性。「もしかして私にしゃべりかけてますか?」

「そうじゃあんたじゃ。さっきからずっとあんたにいいたいことがあったんじゃよ」

「はあ」

「いいから黙って聞きなされ。老人の言うことは黙って聞いておいた方が身のためじゃ。なあ、あんた。なんであんたはこの時間にこんな場所にいるんじゃ? みたとこあんたはまだ若い。磨けばまだまだ美しくなりもするじゃろうて。なのになぜ、あんたは『ここ』にいる? なぜ、あんたはわしらと同じような生活をしている?」

「は? 飲んだくれのジジイにとやかく言われたくないんですけど?」

「なんじゃと!」

「それに、」老人が酒の入ったグラスをカウンターに思いっきりたたきつける。その様子をみつつ、ついでに男の姿をみながら、女性は料理を口に運ぶ手を止めて老人の方を向いて言った。「私、もともとこの街の住民じゃないし」

「……は?」

「だぁかぁらぁ、私はこのお兄さんと同じで、外の街から入ってきて、この街に住むことにしたの。一昨日の話よ。努力云々とか言われてもピンとこないわけ。ここにいるのも、ほかのレストランでは門前払いだったからだし。「あなたは努力が足りません」だってさ。金も、もちろん、ない。せいぜいこの魚料理を一か月食べられるくらい。一か月、ぎりぎり、生活できるレベル。明日っからはがんばんなきゃなーって思ってる最中なのよ」

「な、なるほど」

 老人は合点がいったといわんばかりにもう一度酒を飲み、それから大きなため息を一つ。「このカウンター席に座っとるもんでがんばってないのはわしだけみたいな感じじゃのう」と言って席をたち、金をその場において去って行った。

 残されたのは、男と妙齢の女性。

「明日。気をつけなよ」

「はい?」

 急に女性に話しかけられて戸惑う男。

「何にですか?」

「……なんでもない。聞かなかったことにして」

 無駄なアドバイスなんてしても無駄なだけだったわ。

 そう呟き、女性は料理の最後の一口を口にはこび、金を置いて無言で去って行った。

「明日? なにかあるのか?」

 こうして。

 残されたのは、男のみ。

 女性の無駄なアドバイスとやらを頭の中で反復してみるが、どうにもこうにも何も思いつくものがなかった。諦めて、カウンターに置かれた金をみて。こんな無防備に置いちゃっていいのかと思いつつ、エレナの料理を待った。

「お待たせしましたお客様。鯛のムニエルです」

 エレナが料理の乗った皿を男の前に置く。加えて、ナイフを男の右手側に、フォークを男の左手側に置いた。

 ナイフを右手に、フォークを左手に。

 美味しそうな料理にゆっくりナイフで切り、フォークで刺して口に運ぶ。

「うん」

 美味しい。

 男は素直に、そう思った。


――――


 とある暗闇の空間。

 誰も見えない。何も見えない。そこがどこなのかは、街の住民にもわからない。わかるのは、この空間で会話をしている二つの人影だけだろう。会話をしている声ははっきりしている。

「今日現れた旅人の首尾はどうだ」若い男の声が空間に響く。

「門にて偶然通りすがりのウェイトレスと鉢合わせてしまったことをのぞけば、特に変わったことはありませんでした。門から入り、街の住民に聞き込みをした後、レストランイキサワカに入り食事をする。その後街の住民への聞き込みを諦めた男は、レストランイキサワカのウェイトレスであるエレナに宿屋の場所を聞き、宿屋で就寝。一昨日の女と同じ経路です」若い女の、声。

「そうか。まあそうするしかないだろうな、この街に入った後は」

「……ただ、報告するほどのことではないのかもしれませんが」

「なんだ。言ってみろ」

「レストランイキサワカにて男はウェイトレスの料理を一皿食べたのですが、その後に男がおかしなことをいったんです」

「なんと言ったんだ?」

「これと同じ料理をあと百人前持ってきてくれ、と」

「……なんだそれは。ふざけているのか」

「言った本人は本気のようでした! 鯛のムニエルを食べてくださった後、笑顔でこんなことを言ってくれたんです! こんなこと言ってくれた人初めてで、あの、どうしたらいいかわかんなかったんですけど、わた……し、失礼、ウェイトレスは舞い上がりそうになる体を押さえて極めて冷静に「百人前は用意できません。なんとか二十人前用意できるだけですよ」とかえしました」

「それで。ウェイトレスは二十人分つくったのか」

「はい! 楽しかった、よう、ですよ、ウェイトレスは! しかも男は二十人分の鯛のムニエルを綺麗にひとかけらも残さず食べてくださりました! まだ足りないんだけどなあとか、明日も食べに来ますとか! そんなこと言われたの久しぶりで! お金が足りないって言われても店長に無理言ってただにしてもらいま――」

「そうか。また無駄な努力をしたのか。下らない」

「…………」

「まあ、いい。いずれにせよ明日、男を一昨日の女と同じ運命に導く。その運命の壁にぶち当たったとき、男がどのような努力をするかは、男次第だ。明日。頼んだぞ」

「……はい」

「ああ、そうだ。聞きそびれていたが、男の名前はなんという」

「……教えてくれませんでした」

「は?」

「ただ一言――名乗るほどの名前が多すぎる――とだけ言って」



――――



 とある宿屋。

 エレナにすすめられてもらった宿屋のベットで、男は横になってぶつぶつと呟いていた。

「『ウェイトレスさん、可愛かったわね』だって? 確かにね。エレナさんはかわいい人だと思うよ。あの鯛のムニエルも絶品だったし。色んな街があるこの世界で長い間旅をしてきたけど、その中でも屈指のおいしさだった。あれで才能がないっていわれるのか……。きついと思うよ、エレナさん。え? 『レストランで隣に座っていた女の言っていたことが気にならないか?』だって? うん、気になるね。明日、何があるかわからない。何も起きないかもしれないし、起きたってたいしたことじゃないかもしれないけれど、気を付けることにしよう。場合によっては――。それじゃあ、寝ることにしよう。 ん? 『この街を出るのはいつにするのか』だって? いや、もう、寝させてくれよ……。決まってるじゃないか、そんなこと。――明日次第だよ」



―――――




 太陽の日が昇る。

 それは突然の来訪だった。

「旅人さん。ちょっといいですか?」

 眠りから覚め、荷物も何も持っていない男が昨日と同じ服を着て、代金を宿屋に払ったのが午前六時。

 宿屋から出ると、男の眼前にはエレナがいた。昨日と同じようなエプロンを着ていて、今日は赤色のナプキンを着用している。バッグも昨日と同じ。特に変わったところは見当たらない。――ただ一点、エレナの曇った表情を除いて。

「どうしたんですか、エレナさん。こんな朝早くに」

「こんなこと旅人さんに相談していいのかわからないんですけど、この街で私の話を聞いてくれるのって、旅人さんしかいないなって思って、それで……」

「僕が宿屋から出るのを待っていたってことですか」

「はい。迷惑でなければ、でいいんですけれど」

 言いながらエレナはじっと自分の顔を見つめてくる男の視線に耐えきれず、地面を見る。

 その様子を見て男は、「……わかりました」と返した。「僕なんかが力になれるとはとうてい思えませんが、エレナさんの力になれることがあれば。美味しい料理を食べさせてくれた御恩もありますし」

「…………」

 昨日、レストランイキサワカにて。

 男はエレナに向けて同じようなセリフをはいた。美味しい料理を食べさせてくれた。そういうとエレナはとても嬉しそうにわらい、こちらこそありがとうございますお客様と返してくれた。そんなエレナをみて、男は店を出るときにこころなしか満足していた。

 ――しかし。

 今日のエレナは、違った。

 美味しい料理を食べさせてくれた。

 そう言った男を見て。

 さらに表情を、曇らせた。

「ありがとうございます。ここじゃ話せませんので、ちょっと歩きます。すいません」

 そういうと男に背を向けて歩き出した。店を離れ、『努力が報われる街』を歩き続ける。早朝ということもあり、出歩いているものはいない。酔っぱらっている人間など、歩いていなかった。そんな中、エレナと男は歩く。男はエレナの背中を見ながら無言で歩いていた。無言、で。エレナもその間無言だったからだ。無言でエレナが歩くため、男は何も尋ねずに歩く。歩いて、歩いて、歩いて、歩く。宿屋は街の端にあった。街の端までいくつもりなんだろうか。そう男が思っていたところ、エレナが「着きました。ここなら話せます」と言い、立ち止まった。

「……あれ?」

 そこは、広々とした空間だった。草も木も、水もない。周りに家もなく、地面はタイル張りであった。驚いた男が後方を見渡したところ、広々とした空間が同じように広がっている。

 つまり。

 街にあったはずの情景が一切合切失われていた。

 見失われていた。

 今現在男が立つ場所は、先日男が把握していた街にはなかったはずの場所であった。

「な、んだ、ここ……」

「今さっき君がいた場所は『努力が報われる街』。そして今君がいるここは努力が報われた場所だよ、旅人君」エレナが立つ場所よりもっと遠く。男の視線の先の先から、声が聞こえてきた。若い男の声。「どうも初めまして、旅人君。私はこの街の長をやっているものだ。まあ気軽に長とでも呼んでくれるとありがたい」

「これはどういうことですか、エレナさん」

 エレナは。

 男の問いかけに対して何も答えない。

 答えないまま、「旅人さん。私、私」と言いながら男のもとへ近づいてくる。ほんのりとほほが赤く染まっていた。息も少しだけ荒いでいるように見える。その様子を見て男が少しだけ狼狽した。男の様子を見ながらゆっくりとエレナは男に近づき、男の体に触れようとしたところで――

 男の背後にまわり、男を背後から抱きしめる。

 エレナは、震えていた。その震えが体を通して男に伝わる。

「エレナさん? 何を」

「エレナに何をいっても無駄だよ。私がそうするようにいったからね」

 男の問いかけに対し、エレナが答えない代わりに長が答えた。その口調は淡々としており、かつ冷静だった。視線の先にいた長は徐々に近づき、男が長の姿をはっきり視認できる場所で立ち止まった。長はそれほどまでに大きくなく、小柄であった。ただ、若い。十代前半とみていいだろう。

 そんな若者が、街の長を名乗っている。

 震えながら無言で抱きついてくるエレナ。

 加えて、この異常な空間。

 奇怪さにあふれすぎていて、どう話を切り出そうか迷い過ぎていて。

「この場所は」男はまず真っ先に聞きたい話題からきりだすことにした。「昨日、なかったと思うんですけど」

「ああ、そうだね。というよりこれからもないね。なんせ今日の対談のためだけに作り上げた場所だから」

「作り上げた?」

「そう。超能力――っていうものの存在をあなたは信じるかな? 私にはそれがあった。幼少時代から。誰も使えない、誰も持たない才能とやらだ。それを持って、私はこの街に生まれ育った。努力をすれば、報われる。簡単な道理だよね。簡単なルールだ。それだけがこの街を動かしていると知った時、私は努力し始めた。空間を作り出す才能を磨く努力を。私がこの街の長となるための努力を。――他の者が持っていない才能を磨き上げると言うのは、これまた当然の道理だと思う」

「…………」

「最初はサイコロくらいの大きさの空間しかつくれなかったんだが、徐々に大きくなった。徐々に、徐々に。努力といっても私がしていたのは空間を作り出す単調作業だけだ。練って、作る。そして努力をし始めて十年程経ったとき、この街ほどの大きさの色々な種類の空間が作れるようになったとき、私は実行に移した。私の私による私だけの空間に、当時長だった男を閉じ込めたんだ。そしてそこから出さなかった。長は行方不明扱いとなり――その長の息子だった私はこの街の長となった」

「そうですか」

 男はさも興味なさげに相槌を打つ。長も「まあ君には関係のない話だ。暗闇だったり、こんな風に明るいタイル張りの空間も作れるって話をしても意味がないだろう」とだけ言い、話を区切る。

「さあ旅人君。ここからが話の本題とやらだ」

「本題、ですか」

「ああそうだ。これから君には選択肢が二つ与えられる」

 そう、言うと。

 長は、両の人差し指だけをだして拳をにぎりしめ、長の顔面付近へと持っていく。長の表情は明るい。

「一つは君がこの街に永住することを望むこと。これを選択すればあなたはエレナから解放され、この空間からも解放される。おっと、言い忘れていた。君は今現在才能の塊なんだ。努力が必ず報われるともわからない世界で努力をしてきた。ははは、私からいわせればそんな努力はまがい物だ。努力をすると、結果に結びつく。そのことを知り、そのことが実行されるこの街に住んで、君だけの才能をみつけてほしい。それが私の心の底からの願いなんだ」

「……その選択肢をすてた場合は?」

「ああ。消えてもらう」

 何の抑揚もつけずに。

 長は、こう言いのけた。「この空間に取り残す。この街の外にだす。まあそんなことをしてもいいが、とにかく努力をしないという選択肢を選んだならば、私の眼前からは、私の世界からは消えてもらう。ただそれだけのことだ」

「…………」

 とりあえず。

 長から一気に与えられた情報と、与えられた場をもとに。

 男は、今の状況を整理しようと試みる。

 今男がいる場所は目の前の長がつくりあげた空間らしい。つくりあげたというからには、脱出方法があるのだろう。なんせ長もこの空間内にいるのだ。空間から出られなくなるという心配はない。

 男の体に抱き着いているエレナの震えは和らいでいた。エレナに関しては何の心配もいらないだろう。バッグの中に何か入っている可能性も無きにしも非ずだが、なんであれ――男には心配する必要がない。

 そして、長から与えられた二つの選択肢。

 この街に住むか、この街から今すぐに離れるか。

 そう考えて、男はこの街のこの街のことを思い出し始めた。半日程度しか過ごしていないので、思い出せることは少なかったが、三つの存在だけは思い出した。

 エレナが作ってくれた料理。

 才能が見つからずに諦めた人々。

 ――つい最近まで旅人だった女性。

「ちょっとついでに質問していいですか」

「いいよ。なんでも聞いてくれ」

「僕は昨日、エレナさんが働くレストランで元旅人の女性に会いました。その女性はどうやらこの街に永住することを決めていましたが、もしかして彼女も僕と同じような目にあったということですか?」

「ああ、その通りだ。彼女はこの街に永住することを決めてくれたよ。懸命な判断だ」

「……なんでそんな決断をしたんだろう」

「……なんだいその言い方は。まさか旅人君、この街から消えることを選択するのかい?」

「まあ」男は何も迷いはなかった。というよりも迷う方がおかしいと判断したのだろう。「僕はこの街に永住なんかしません。今から才能をみつけるのが厳しいとかいうよりも、この街に住む必要がないからです」

「どういう意味だい、それは」

「この街じゃなきゃ努力が報われないということはないからですよ」

 男は。

 まっすぐ長の顔だけを見て、言う。「努力をすればもしかしたら報われるかもしれない。そう思って皆努力をするからですよ。努力が報われないこともあるかもしれない。でも、努力をしなきゃ始まらない。だから僕たちは生きている。そしてそんな努力が報われた人も、報われなかった人も、僕は知っている。この街じゃなきゃ努力しちゃいけないなんて――この街でしなかった努力が無駄なんてことはないんだ」

「……じゃあ、なぜ街の外の人間のなかに努力をしない人間がいるんだ?」

「個人をとりまく環境の問題だと、僕は思います。うまくいえないけど、この街みたいに努力をしきって諦めて努力をしなくなるってことではない。ただ、その点に関してはこの街は優れていると思います。誰もがみんな努力する。これが当たり前になっている街なんて、この街しかなかった。……この点だけは、ほかの街も取り入れた方がいいと思う。努力をすることが馬鹿らしいなんてことを判断するには、まず努力をしないと始まらな――」

「うるさい」

 最後まで言おうとした。男は男が考える全てをとりあえず長に向けて言おうとした。

 だが、止められた。

 長の声がきっかけで動き出した者によって。


 ――エレナによって、止められた。


 男の脇腹に何かが刺さっていた。エレナが手に持つ何か。それは包丁だった。エレナはいつのまにか男の体に抱き着くのをやめており、いつの間にか包丁をバッグのなかから出していた。エレナは泣いていた。「ごめんなさい旅人さん。ごめんなさい旅人さん」と言いながら泣いている。包丁は男の背後から刺されており、完全に脇腹を通過していた。男が脇腹に手をまわそうとしたところを、エレナが包丁をぐりっと回し、さらに傷を深める行為で男の行動を止めようとする。

「うるさいことをいうやつには、制裁を」長はゆっくりと男に近づき始めた。「三日前になるか。旅人の女もなんか同じようなことを言っていたよ。旅人というのはこれだから困る。各々まあまあの努力を重ねてきてこの街にたどり着いているせいで、返答パターンはいつも同じだ。この街から消える。全く、それを選んだら実力行使という選択肢が浮かび上がってしまうじゃないか」

 悪く思わないでくれよ、旅人さん。私たちだって不本意だ。

 そうつぶやく長。ゆっくりと男のもとに近づくが、男の近くにはいかない。男の手がとどかないぎりぎりの距離まで近づき、立ち止まり、そこで異変に気付いた。

「おとなしくこの街に残ってくれ。わざわざ傷が見えなくなるように脇腹をさしてもらったんだ、それだけありがたいと思わなきゃいけない――って、おい」

 男は確かに刺された。顔を苦痛でゆがめている。

 しかし、おかしな点があった。そう、おかしな点。遠くから見ていたらわからない。近づいたからこそ分かる、そんな点。


 ――男の脇腹から、血が一切流れていない。


 まだエレナが包丁を抜き取っていないということもあるが、先刻エレナはその傷をいじった。故にその傷は深まり、その分だけ血が流れるはず。

 なのに、それにもかかわらず。

 男の脇腹から全く血が流れていないことに、長はやっと気が付いた。

「お、お前、なんだ! なんでそんなに血を流さずにいられるんだ!」

「すいません。ちょっと僕――名乗るほどの名前が多すぎるもんで」

 瞬間、男から『何か』が現れた。

 『何か』。

 それは男のみが視認出来るものだった。男はこれを名づけていない。白い煙のようなものが体全身から天に向かって溢れ出すこの瞬間の現象を名づけていない。名づけてはいないが、この瞬間をつくりあげることはできる。故に男はこの瞬間を二つ――二人分作り出し、その二人分がはっきりと現実のものとなった瞬間に、その現実の両方が同時に長を殴り飛ばす光景を確認した。

「え……お、長、長ぁ!」

 男の脇腹に刺さったままの包丁を握りしめながら、エレナが叫ぶ。

 エレナは見た。――突如長の近くに現れた奇怪な恰好をする二人のうち、侍のような格好をした一人が長の腹を殴り飛ばし、海賊のような格好をした男が長の顔面を殴り飛ばすという光景を。

 殴り飛ばされた長は、有無を言わさず数秒宙に浮き、遠い場所で叩きつけられた。即刻気絶してもおかしくないだろう。そしてその当然の結果に陥った証拠なのかどうなのか、タイル張りの空間がなくなって、いつの間にか男とエレナは『努力が報われる街』に戻っていた。

 男とエレナの視線の少し先には。

 昨日、男が通った門がある。

 門の傍で長はうつ伏せに倒れており、男とエレナの前には――二人の人物が存在していた。

「紹介するよ、エレナさん。キャプテンジャクソンと、服部善蔵だ。二人とも、――僕の中に住んでいる」

「…………」

「おいおい無言かよシャイガール! もっときびきび発言しようぜ!」

「そんなに責めないでおこうぞジャクソン殿。彼女はこれでも驚いているのだろう。なんせ彼女には拙者たちが突然現れたようにみえているのだからな」

 二人はそう語り合い、笑い合っていた。

 そんな様子を見て、エレナは震えながら背中しか見えない男に話しかける。――包丁は、脇腹にささったまま。

「旅人さん……あなたは何なんですか……? 長と同じ超能力者なんですか? というよりも、あなたは……本当に人なんですか……?」

「いや、僕は人じゃない」

 何の気なしに、男は言ってのける。脇腹に刺さっている包丁を気にしながら。包丁から伝わるエレナの震えを確認しながら。


「――僕は、『人の形をした街』なんだ」


「……街?」

「そう、街。この『努力が報われる街』と同じ、街だ。世界中に数ある街の中の一つ。そして、世界中でただ一つしかない――生きている街」

「生きている街……」エレナは体の震えをさらに激しくした。そして必死に包丁を握りしめる。何かにおびえる表情のまま、眼前の『物体』におそれおののながら。「じゃ、じゃあ、あの人たちは……」

「うん。僕に住む住民のうちの二人だ。今僕の中には彼ら二人を含めて九十九人いてね。そして僕の中では――僕という街は百人しか住めない。僕はその百人目を誰にしようか決める旅をしている途中なんだよ」

「なんで血が流れなかったんですか……?」

「ああ、それは簡単だよ。脇腹に刺さったダメージを僕のなかの何十人かが肩代わりしてくれたんだ。おかげで僕自身が受けるダメージはなくなって、痛みも何も感じない。僕の中の住民の何かを、他の住民に肩代わりしてもらうこともできるよ。例えば空腹とか。全然お腹がすかない人に、何十人分の空腹を肩代わりしてもらうとか。……でも、この傷は、僕みたいなおかしな身体をしている人じゃなかったらきつかったかな。昨日あった女の人はきつかったと思うよ。――それほどまでに、きれいな包丁さばきだっだよ」

 エレナが震える。

 得体のしれない何かにおびえながら。

 それは眼前にそびえる『物体』であったり、そうでなかったり。

 ただただ、エレナは震えていた。体を震わせる。

「だから、教えてくれ」

 やがてその震えの中に別の震えが加わり始めた。

 その震えはエレナのものではない。かといって、地面全体が揺れているというような大げさなものではない。

 ただ単純に。

 ――人の形をした街が、恐怖で怯える震え。「君は一体、何なんだっ!」


「エレナね、怖いの。エレナが怖いの」


 人の形をした街が気付いた時には、もう遅かった。

 脇腹に刺さっていたはずの包丁は抜き取られ、男の眼前で語り合っていた二人が倒れた。

 包丁による、斬撃で。

 頸動脈のみを狙った、斬撃で。

 キャプテンジャクソンと服部全蔵、死亡。

「旅人さんの中にはあと九十七人いるんですよね。じゃあ九十七人殺すくらいの勢いなら、旅人さんを殺せるんですよね」

 人の形をした街は見た。自分の中に住む住民が死ぬ、その刹那のエレナの表情を。

 エレナは――泣いて、笑っていた。

 泣きながら、恍惚の笑みを浮かべていた。

「もっと用意します。包丁を用意します。わーい、こんなにいっぱい、包丁があるよー」

 右手に包丁を持っており左手にバッグがあった。

 そのバッグがエレナの頭上に高くあげられると、バッグの口から大量の包丁が現れた。バッグも努力の結晶というものだったのだろう。明らかに収納スペースがたりていないにも関わらず、ナイフが出てくる。

 空中に、大量のナイフが一瞬だけ浮かんでいる。

「動かないでくださいね」その中の一本が、人の形をした街に刺さる。「あんまり痛くしたくないの、エレナ」もう一本。容赦なく、刺さる。「いっぱいね、いっぱいね、エレナは刺すの。そうしたら喜んでもらえるの。私は悦ぶの」一気に十本刺さった。さすがに強烈な痛みを覚える人の形をした街。逃げようにも逃げられない。先ほどから逃げようとしていたはずなのに、逃げることのできる両足には、包丁が十本ずつ。「えへへ、えへへ、うれ、うれしいなあ。エレナ、いっぱいさしてるよ。こうしている間にもね、いっぱい殺してるの。うはは、わーい、わーい。あー、たぎる」

 一本。

 二本。

 包丁が刺さる。男の姿が包丁の柄の部分で埋まっていく。

「だ、だめだ、エレナさん」

「なんか聞こえる? ううん、聞こえない。だって私、悦んでる。好きなの、こういうの。きもちいいの」

「エレナさん!」

 現在、人の形をした街に刺さっている包丁の数は五十五本。

 次の瞬間、六十本。

 空中に浮かんでいた包丁は人の形をした街に刺さっている分を除いて、すべて地面に音をたてて突き刺さった。エレナは、包丁が刺さる予定ではない場所にいた。包丁を、二本もって。人の形をした街の前方。大量の包丁の中で笑う、エレナ。

 軽やかな足取りだった。

 包丁を持ったエレナが一瞬にして人の形をした街に近づき、二本刺す。

 元の場所に戻り、二本持ち、人の形をした街に刺す。

 その繰り返し。

 目にもとまらぬ繰り返し。

 やむことのない包丁の連撃。

 ――でも。

 口には、何故だか刺さっていなかった。

 だから、人の形をした街は。

 ありったけの抵抗を、してみせる。「エレナさん! 駄目だ、それ以上は駄目だ!」

「死んじゃうから? うん、死ぬの。旅人さんはね、エレナが悦ぶからね、死ぬの」

「違う!」人の形をした街に刺さった包丁の数が、一気に七十本になった。それでも言葉を紡ぐ。「エレナさんの包丁は、そんなことにつかっちゃ駄目だから!」

「……何を言ってるの? あのね、エレナが口を刺さないのはね、悲鳴が聞きたいからなの。もっとこう、エレナの体がじーんってくるくらいのね、甲高い悲鳴が聞きたいの。口もきけないの? 痛くないの? 痛いよね。うん、わかるのエレナ。だからね、もっと痛がって。痛い痛いって叫んで叫んで体をくねらせてよじらせて。そしたらエレナ、悦んであげる。好きでしょこういうの、男の人って。もっと、もっと、もっと、もっと愛でてあげるから。そしたらね、私、気持ちよくなってる。今も? うん、今も」

「待ってくれ! 話を聞いてく」

「聞かないもんっ」

 人の形をした街に刺さった包丁の数が。

 九十七本になった。

 あと、一本。

「……この瞬間が好きなの」エレナは一滴も返り血を浴びていなかった。今、人の形をした街は包丁の山に埋もれている。流血はしていなかった。人の形をした街は、膝をつくことなく、まっすぐにエレナをみていた。「こう、もうどうしようもないっていう瞬間。あ、勘違いしないでね。旅人さんがどうしようもないっていう話じゃなくてね、エレナがどうしようもないってことなの。エレナがこれ以上何もできないってことなの。ほら、もう口しかないでしょ。エレナが悦べる場所。でもね、旅人さんが旅人さんでよかったなあ。両目も両腕も頭も尻も股間もなにもかもエレナが刺さってるでしょ? 普通死んじゃうよね。でも死んでないんだもんね? まだお話できるの? しゃべってみてよ、旅人さん。エレナ、もっと悦んであげるから」

「…………」

 いくら人の形をした街とはいっても。

 いくら人外といっても。

 所詮生命体であり、所詮は生き物だ。

 だから、この時人の形をした街は喋れるような状態ではなかった。むしろ、立つことすらままならない。傷自体は事態を察した街の住民が肩代わりした。しかし傷を肩代わりしてくれる住民が全員致命傷に近い傷を負い、もう肩代わりしてくれる住民はいない。だから、依然として刺さり続けるナイフによって、人の形をした街は死ぬ寸前――。

 かと、思いきや。

「エレナさん」

 人の形をした街は。

 喋って、みせた。

 それはエレナにとっては何の不可思議もない展開だったのだろう。それは当然だ。生きている街なんかに遭遇するのは初めてで、ましてや人の形をした街を殺害しようとしなことなんて今までなかった。なので、エレナは今までの人の形をした街から得た情報を推察するしか手はない。

 ――だが。

 人の形をした街は――九十七人に、九十七人分の致命傷を肩代わりしてもらったわけではなかった。

 五十本目が街にささり、傷を肩代わりしきれずに身体の弱いものがどんどんと死んでいく時点で街の危険を察知した街の住民は――その死体に致命傷を肩代わりしてもらっていた。

 他の街の住民を守るために、死体を攻撃させる。

 街の住民が街を守る為に選んだ、苦渋の決断。

「僕は、エレナさんにこんなことをしてもらいたくない」人の形をした街は、なおもしゃべり続ける。「多分、エレナさんにはこういうことができる才能があったんでしょう。約百人体制で周りを見渡す僕に背後からダメージを与えるなんて、普通はできない。並大抵の努力ではできない。だから、エレナさんは長にも一目おかれていた。他の誰も持っていない特別な才能。すごいと思う」

「でしょ? すごいでしょ? エレナ、すごいの。あのね、エレナの下の方がね、すごいことになってるの。もう止まらないの。止まらないのぉっ」

「……でも、エレナさんの包丁はこんなことに使うべきじゃない」

「……まだいうの? まだエレナはお預けされなきゃいけないの? あ、あ、口からよだれも出てきたよ。もう、早く旅人さんを殺したいってね、私の体が言ってるの。身体全体がイってるの。だから、早く悲鳴をあげて。助けてーって叫んで。そしたら私、助けてあげないから」

「いくら才能があったって。そんな才能じゃ、努力する意味なんて、ない」

 無駄な努力だ。

 そう、つぶやいた。ただそれだけ。

 しかし、この一言を聞いたエレナの顔は。

 泣きながら、笑いながら――苦痛で歪む表情になった。「なんてこと、言うのよぉ……そんなこと言わないでよぉ……私、頑張ってるのに……私をほめてくれるのってこれしかないから頑張ってるのに……そんな、そんなこと言われたら、私、もう、どうしたらいいかわからなくなるじゃない」

 エレナは。

 右手で持っていた包丁を両手で握り直し、柄の先端を噛み始めた。

「だって私、頑張った。色々なことを頑張った」ゴリゴリと。ゴリゴリと。先端が削られていく「料理も洗濯も家事手伝いも。勉強もスポーツも全部全部頑張った。なのに一番にはいつもなれなかった」包丁によだれが伝い始めた。と同時に、エレナの口の下にもよだれが垂れ始める。かじり続けるエレナ。削られていく先端。「やっと才能を見つけたと思ったらこんな才能で。落ち込んでたらさらに追い打ちをかけるように長に言われたの。「君はどうやら殺人をする技術だけじゃなく、殺人をするという行為そのものみ性的興奮を得る才能もあるらしい。しかし才能を二つみつけてしまった。基本的に人間というものは持って生まれた才能の数に限りがある。二つみつけただけでも奇跡だ。三つ目は、おそらく、みつかることはない」って」

 エレナはフゥー、フゥー、と息を荒げ始めた。

 それでもエレナは噛み続けるのをやめない。まるで何かに対して我慢しているかのように。エレナはもう笑っていなかった。どうすればいいかわからなかった。

「……エレナさんが性的興奮を得られるなんて嘘ですよ」人の形をした街は、身体に刺さった包丁を少しずつ外しながら、静かに言う。「エレナさんは、泣いている」

「で、でも、私、すっごい気持ちいいの。こんな感覚、知らないの。止まらない。止められない。気持ちよすぎて、気持ちよすぎてぇっ!」

「我慢しましょうよ」

「え?」

「我慢する、努力をしましょう」

「あ……」

「ほらね。エレナさんが全部に対して努力をしていないなんて、嘘っぱちです」

 言いながらも包丁を抜き始めた手を止めない人の形をした街。抜きつつ、傷が閉じていくのを確認しつつ、自分の中で住む残り四十七人の生死も確認しつつ、エレナと対峙していた。

「それに、才能なんかなくったって、一番になれなくたって、好きなことなら努力をする価値があるんじゃないですか?」

 まあ、好きなことに対して頑張ることを努力と表現していいのかはわかりませんが。

 一言こう付け加えて。

 最後に、人の形をした街はこういった。

「エレナさんの殺人の才能が百人を欺いたのと同様に、エレナさんの料理は百人を美味しいと唸らせたんですから」

 それを聞いたエレナは。

 包丁の先端をかじることをやめ。

 泣きながら、嗚咽をもらしながら、その場にうずくまった。




――――



「結局百人目の住民をさがすどころか、何人も死んじゃう結果になっちゃったね。死んだのは誰だい? キャプテンジャクソンと服部全蔵と、ドライアン山崎と超絶鉄壁少女凜子。あとは……うん、うん、わかった。その五十人だね。くっそう。エレナさんにはしてやられたなあ。これを機に料理に磨きをかけてくれればうれしいんだけど」

 エレナを説得した後、意識を取り戻した長に即刻『努力が報われる街』から出るように言われた人の形をした街は、砂漠を歩いていた。

「え? 『エレナを住民の一人にしちゃえばよかったんじゃないか』って? いやいや、それだと殺人の才能を絶え間なく使っちゃうことになっちゃうでしょ。確かにエレナさんの技術はすごいけど、それが彼女を苦しめているんだったら、住民にしちゃダメだよ。僕の中にいたら、僕がピンチの時にエレナさん

に助けを求めることになっちゃうかもしれないし。堅実に行こう。僕の中で住みたい人だけを集めて、僕という街を完成させよう。そのために世界をまわる。小さいことをこつこつ積み上げていけば、いつか大きなことを達成しているはずだから」

 エレナによって死んだ五十人を思いながら、自分の中に住む人々にそう告げる街。

 『努力が報われる街』には住民となってくれる者はいなさそうだった。そして、実際、いなかった。――強制的に長によって街から退去させられた形にはなったが、才能をみつけたものは自分の話しかけに応えず、才能を見つけられずに努力することをやめてしまったものは、なんやかんやいって酒におぼれるだけの金を充分持っていた。誰に訪ねても、人の形をした街の住民になり、世界中の街を訪れようとは思わないはず。

「やっぱり、綺麗ごとかもしれないけれど、――努力は裏切らないってことで、いいのかな」

 そう、つぶやいて。

 人の形をした街は、自分の中に住んでくれる人を探すため。

 依然として、歩き続ける。

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― 新着の感想 ―
[一言]  掲示板より参りました後藤です。  まず、他の方の感想で目にしたのですが、私はキノの旅という作品をタイトルしか知りません。そのためやや方向性の間違った感想を書いてしまう危険性があります。 …
2013/03/21 23:53 退会済み
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[一言] 掲示板より参りました、板戸翔です。掲示板のコメントはすでに読まれていると思いますので、思ったことをそのまま書いていこうと思います(この後ネタバレが少々出てきますので、感想を読んでから作品を読…
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