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だから私は死にたいの

作者: Yu-Zo-

痛みはもう、習慣として私の体が受け入れた。苦痛はある。ただ、いつかのように恐怖はまったく感じない。

 いつからだろう? 私は考える。

 朝、目を覚ますと虚ろな表情をした母が私の傍らに立っている。右手に握られている竹刀の先端は、私のこびりついた血が薄汚れた泥のような色に変色していて、私と目が合うと母はいつものようにゆっくりそれを天井に向けて振り上げた。

 いつからだろう? 私は考える。

 いつから私は……?






 一通り私を叩き終えると、母は無言で隣の部屋へ戻っていった。私は、全身に広がる痛みに悶えながら、流しの上にある小さな窓から差し込んでくる朝日に目を細めた。

 目から入り込んでくる閃光は、全身を駆け巡る鈍い痛みを形作ったもののように強烈だった。そして、私の意識はじょじょにその閃光に飲み込まれていって、飲みつくされる最後の瞬間に、病的に竹刀を振りかぶる母の姿が、私の記憶にまたリンクする。

「あんたのせいじゃないから……。あんたのせいじゃないから……」

 もう誰に向けたかすら定かではない言葉を何度も呟きながら、母は何かにとりつかれたように竹刀で私を叩く。私は、何かに取り付かれたように無言でその仕打ちを受け入れる。

 いつからだろう? 私は考える。

 答えにたどり着く前に、私の意識は遠のいていった。






 二年前に弟が死んだ。原因は火事。病気とか、寿命とか、あらかじめ定められた中での死に方を弟はしなかった。ある日、突然。唐突に。みんなが毛ほども弟の死を予期することがない中で、弟は死んだ。

 母がおかしくなったのはそれからだった。その日から、母は私に「あんたのせいじゃないから」と言い続け、その言葉とは裏腹に私を虐待し続けた。

 




弟が死んだ次の日に、母は私と弟が共同で使っていた部屋を整理した。私の使っていたものは何もかも部屋から放り出されて、その日から、その部屋は弟の専用の部屋になった。

 部屋を失くした私は、それから台所の床の上で寝ることになった。当時通っていた小学校の制服は、身に着けていたから捨てられずに済んだけど、それ以外のものはすべて処分されて、私は学校にも行けなくなった。

 母は仕事柄帰ってくるのが夜の九時を回るので、夕飯はいつも作ってから出かける。テーブルの上にはおかずの載ったラップされた皿がいくつも並んで、その横には弟に当てた書置きがいつも置かれている。

「真一へ。温めて食べてね。食べたら炊飯器の電源を切っておいてね」

 弟のために作られたそれが、私の命をつなぐ唯一の糧だった。母は家の中にあるものが少しでもなくなっていたら、私に虐待を加える。それでも、弟のために作りおいた夕飯だけは私が食べても母は何もしてこない。母は、弟がそれを食べたのだと信じていた。だから、私はテーブルの上に置かれたそれらを一つ残さずむさぼって、書置きのとおりに初めからご飯なんて入っていない炊飯器の電源をいつも切った。

「あら、あの子全部食べてくれたのね」

 部屋を追い出された最初の日、仕事から帰って台所に入ってきた母は、テーブルの上に放置された空になった皿を見ながらうれしそうにそう呟いた。書置きが私ではなく弟宛になっていたことと部屋を追い出されたことを結び付けた私は、ある種の予感を感じ取ってこっそり隣の部屋に隠れてその様子を母に気づかれないようにのぞいていた。

 焦点の合っていないうつろな目を虚空に向けた母の笑顔はひどくゆがんでいて、私にはそれがこの世の中でもっとも恐ろしいもののように思えて仕方なかった。私は、そのとき初めて実の親である母に恐怖した。

 そして、次の日目覚めると、母が竹刀を握り締めて私の傍らに立っていた。






 いつからだろう? 私は考える。

 弟が死んだとき? 母に恐怖を感じたとき? 初めて母に気絶するまで竹刀で叩かれたとき? 目覚めたら、虚ろな表情の母が私の傍らに立っていたとき? それとも、それらすべてに慣れてしまったとき?

 私は、いつから死にたいと思うようになったのだろう。





 異変に気づいたのは、目を開ける前。冷たくて硬い台所の床とは感触が違うことに気づいたのは、ちょうど目を開けようとするほんの一瞬前だった。

 冷たくも、硬くもないものが、私の背中に当たっていた。それは、無造作に私の背中を押し返してくる台所の床とは違って、信じられないぐらい柔らかく、私の背中を包んでくれる。そんな不思議な感触だった。

 私は目を開けることを躊躇した。目を開いた次の瞬間に待っているものは、今の柔らかな感触とは無縁の現実だと知っていたから。でも、私の体はもうそれを受け入れていた。だから、私は目を開けることに躊躇することしかできずに、このまま一生目を閉じて柔らかな感触の中にい続けようとすることができなかった。私には、竹刀で気絶するまで叩かれることより、心地のいい柔らかなこの感触のほうがよっぽどおかしいことにしか思えなかった。

 だから、私はゆっくり目を開けた。





 目を開けると、見慣れない不自然な白い壁が私の視界いっぱいに広がった。しばらく待っていても、一向に柔らかな感触は私の背中から離れずに、私はこれが夢じゃないなら、気を失うまでいたはずの家の台所はどこにいったのだろうか、となぜか少し不安になった。

「気がついたかい?」

 誰かの声がすぐそばから聞こえた。でも、私にはここに誰かがいるということなんてどうでもよくて、それがどこの誰なのかということもどうでもよかった。だから、私はその声に何の反応も向けずに、ただ、あのいつも私が寝て過ごすはずの台所はどこにいったのだろう? と思いながら白い壁を見つめていた。

 誰かの声は二言三言私のそばで何かを告げると、もう聞こえなくなった。私は、そのとても優しそうな声が聞こえなくなると、目を閉じて、家の台所に戻れるかどうか試してみた。そして、気がつくといつの間にか私は眠りについていた。





 二度目に目を覚ましたとき、私はいろいろなことを知った。

 近所の人の知らせで、気絶していた私が病院に運ばれたこと。母は今、警察にいること。私はベッドの上に寝かされていて、背中に感じる信じられないぐらい柔らかなものは、ベッドの上に敷かれたただの敷布団だったこと。他にもいろいろなことを声は語ってくれたけど、私が理解できたのはそれぐらいだった。

「とにかく、今日はゆっくり休んでいいからね。明日また来るから、そのときまた、おじさんとお話しよう。じゃあね」

 





 次の日にはいろいろなことを質問された。

 私の名前とか、歳とか、体重とか、身長とか、好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、好きなこととか、苦手なものとか、将来の夢とか、およそ、それらすべてを知れば私という人間が出来上がりそうなほどたくさん、私についてを質問された。

 その中で私が知っていたのは、初めのほうにされた名前と歳だけだった。弟が死ぬ以前まではそれ以降の質問の答えはいくらでもあったような気がしたけど、今の私はそれらすべてを忘れていた。

 新山奈菜。十四歳。それが私。

 それだけでも、私は十分生きてきた。そして、それ以外のものがあったら、私は生きてられなかった。多分、もう少しあそこにいられたのなら、私はそれさえ忘れることができて、やがて死ぬことができたと思う。それなのに、どうしてこの声は私にいろいろなことを聞いてくるのだろう? どうして私にそれらを思い出させようとするのだろう? 

 分からなかった。ただ、ここにいたら忘れていたすべてを思い出してしまう。生かされてしまう。そう悟った

 それは、今の私には苦痛でしかなかった。






 しばらく経つと、個室から二人部屋へ移された。そして、その二人部屋で私は彼女に会った。彼女は私が部屋に移ってきた時にはいなかったし、私は二人部屋に移ってからはずっとベッドの周りをカーテンでさえぎって、そこから出ることはほとんどなかったので、私たちはお互いの顔を一度も見たことがなかった。でも、私は彼女に関しての情報(名前は大場加奈で、歳は私と同じ十四歳らしい)だけは知っていたし、彼女も私に関しての情報だけは知っているみたいだった。私から彼女に話しかけるようなことは一度としてなかったのだけど、彼女はよくカーテンの向こうから私に話しかけてきた。

 彼女が話すことは大抵が自分のことばかりで、ほとんどが取り留めのないようなことばかりだった。でも、二年間閉ざされた空間の中を生きてきた私には、彼女の言葉の中から珍しいことを見つけることはそう難しくもなかったし、何より、彼女の言葉だけはなぜか受け入れることに抵抗を感じなかった。

 その頃になると、私はいつかされた私に関する質問のいくつかを思い出し始めていた。

 そして、その中には悪夢も混ざっていた。






 バランスが崩れた。痛みと空腹に紛らわせていたものが、じょじょに私を包み込み始めた。私は、毎日悪夢を見るようになった。そして、思い出した。

 私が死にたいと思うようになったのは、この悪夢を見てからだった。私は、痛みと空腹に頼って、あの悪夢を無理やり思い出さないようにした。だから、死にたいと思うようになった時期も、一緒に思い出せないでいた。でも、紛らわすものがなくなって私は悪夢を思い出した。そして、また強く思った。

 ――死にたい。






 彼女には昼間よく友達が見舞いに訪れていた。その友達に会うときの彼女の声は、とても楽しげで、それはカーテン越しからでも彼女の笑顔が伝わってくるぐらい明るさに満ちている。でも、私は彼女がよく夜中にこっそりベッドの上で泣いていることを知っている。声をたてなくても、そして、彼女がそれを私に知られたくないにしても、かすかに乱れるシーツの音や、殺しきれない嗚咽が私にそれを教えていた。そして、彼女もまた私が悪夢を見ていることを知っているみたいだった。多分、私のベッドからかすかに乱れるシーツの音とか、殺しきれない嗚咽とかが彼女にそれを教えたのだろう。

 私たちはお互いの秘密を握っていて、その共有感は死にたいと思うような苦しみの中でさえ、私に少しの心地よさを感じさせてくれた。






「私、病気なんだ。ひどい病気。きっと、私もう長く生きられない」

「私はずっと母親に虐待されてきた。母さんは、今でも死んだ弟が生きてるって信じてる」

 私たちはお互いの秘密をばらし合うことで、相手に聞きづらいことでも聞くことができた。彼女は自分の病気について、私は自分の境遇について、私たちはよく夜中に話しをした。

 そして、ある日彼女は私に私の見る悪夢のことを聞いてきた。だから、私は答えた。

「火事のとき、私も弟と一緒に家にいたの。そして、弟は焼け死んで私だけ助かった。どうしてだと思う?」

「どうして?」

「私が弟を助けなかったから。まだ家の中に弟がいることを知っていたのに、あまりの熱さと苦しさに、私は一人だけ逃げ出したの。弟を見捨ててね」

「でも、それは仕方ないことでしょ? あなたのせいじゃないと思う」

「私のせいだとか、私のせいじゃないとか、そんなことはどうでもいいの。ただ、逃げ出すときに、私の耳には弟の声が届いてた。私を求める声が届いてた。その声が今でも私を求めてる」

 姉ちゃん。姉ちゃん。どこなの……。

「多分、一生忘れられない。だから――」

 私は、これから出そうとする言葉が、彼女にとってどれほど残酷なものかを知っていた。でも、私は彼女にこれを知って欲しかった。

「だから、私は死にたいの」

 静かな夜だった。そして、搾り出したようなかすれた彼女の声が聞こえてきたときには、もう夜は明けていた。

「私は、自分の命を最大限生きたい……」






 私は考えた。

 生きたいと思うことと死にたいと思うことは、どっちが苦しいことだろう? どっちが寂しくて、どっちが悲しくて、どっちが虚しくて、どっちが間違ってて、どっちが正しいことだろう?

 彼女が逝ってから、私はずっと考えた。

 彼女の言っていた言葉もまた、私の中に強く刻まれた。私は、二年の間に失っていた私をじょじょに取り戻しながら、そして、その分大きくなっていく悪夢にさいなまれながら、彼女の言葉を思い返す。

「私は自分の命を最大限生きたい……」

 これは、悪夢に過ぎないのだろうか。この言葉があるから、私はいまだに死ねないでいる。そして、私は考える。

 生きたいと思うことと死にたいと思うことは、どっちが――?

 





 彼女は明日を欲しがった。

 私は明日を捨てたがった。






 彼女の見ていた明日と、私の見ている明日。それが同じものだったら、どんなによかっただろう。誰もが同じ明日を、そして望むような明日を見られるとしたら、それはどんなにいいことだろう。

 





 夜中に目を覚まして、私は初めてカーテンを開けた。隣には、ベッド一台分のスペースが開いていて、私は不意にものすごく悲しくなった。

 明日を欲しがっていた彼女がもうここにいないことも。明日を捨てたがっている私が今ここにいることも。

 全部が悲しくて、私は泣きたくなった。








                                      了




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― 新着の感想 ―
[一言] 世の中は残酷ですよね…。死にたくなったとき、自分の命を他人にあげることができれば、どれだけ楽なことか(´д`|||)
[一言]  読ませて頂きました。  面白いと言うのが失礼な程に、とても考えてしまう話でした。  こういう内容の話は読んだことが無かったので、新鮮で読みやすく、満足させてもらいました。  でも個人的に、…
[一言] 最後に「私」が 生と死に対して…「彼女」と「私」 どちらが正しいのか?…などの心理描写が好きです。前半の残虐さとの対比が すごくインパクトあって いろいろ考える作品でした… これからも 楽し…
2007/05/26 00:24 宮薗 きりと
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