微熱のスープと、右の眉
2025年、12月。
札幌の街は、今年も分厚い雪雲の下で真っ白に凍てついている。窓の外では、北風がヒューヒューと通りを吹き抜ける音がしていた。
暖房の効いたリビングで、私はスチームアイロンを滑らせていた。
シューッという白い湯気と共に、彼の真っ白なYシャツのシワが綺麗に伸びていく。アイロンから立ち昇る柔軟剤の香りを嗅ぐたびに、私の心は甘い充足感と、ほんの少しの不安で満たされた。
あと半年。春の雪解けと共に、私はこのYシャツの持ち主の「苗字」になる。
彼の名前は健吾という。
決して完璧な男ではない。営業職という仕事柄、付き合いだと言ってはススキノのネオン街へ消え、午前様に帰ってくることもしばしばある。お酒に弱いくせに断れない性格で、四日連続で二日酔いになった時は、さすがに実家に帰ろうかと本気で腹を立てた。
おまけに、ベッドに入れば大雪原を這うヒグマのような、地響きのような大きないびきをかく。
それでも、私が彼にどうしようもなく惹かれたのは、その不器用で、底抜けに無防備な「温かさ」のせいだった。
出会ったのは、二年前の大通公園。イルミネーションの雪まつり会場で、私が落とした手袋を拾ってくれたのが彼だった。凍える私の手に、自分が飲もうとしていた温かい缶コーヒーを黙って押し付けて、「風邪引くよ」と笑った。
彼の大きな手はいつも温かく、どんな暗闇にいても「もう私は独りじゃないんだ」と心底安心させてくれる。誰にでも分け隔てなく優しく、屈託のない太陽のような笑顔で笑う。その嘘のない真っ直ぐな明るさが、少し神経質で考えすぎる私の心を、強烈に惹きつけたのだ。
けれど。
その「誰にでも向いてしまう無自覚な魅力」が、時折、私の胸の奥に黒くドロドロとした感情を呼び起こす。
彼は魅力的だ。職場の後輩のミスを被ってやる頼もしさも、居酒屋の店員へのさりげない気遣いも、私だけのものであればいいのに。忘年会シーズン、他の女の子たちが彼に向けるであろう好意的な視線を想像するだけで、胃の奥が冷たく重くなる。私の勘は鋭い。彼に言い寄ろうとしている同僚の女性がいることにも、とっくに気づいている。
――いっそ、この部屋に閉じ込めてしまいたい。
アイロンを置き、キッチンへ向かう。コンロの上では、彼の大好きなトマトスープがコトコトと音を立てていた。お玉で赤いスープをゆっくりとかき混ぜながら、私は暗い炎のような独占欲に身を焦がす。
私がいま毎日自分を磨き、綺麗でいようとするのは、彼に愛され続けるためだ。友達の誘うパーティーにもお洒落をしていくのは、彼にとって自慢の妻でありたいから。
すべては、愛する彼を私だけのものにしておくため。
ねえ、健吾。
もしあなたが浮気をしたら、その時は覚悟してね。
あなたが他の女に触れたその手で私を抱くくらいなら、私は知恵を絞って、このスープに毒を入れて、二人で一緒に逝こう。あなたを誰かに渡すくらいなら、私の手で息の根を止めてしまいたい。
そんな恐ろしい想像をしてしまうほど、私は彼という存在に狂おしいほど執着している。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。
雪の匂いと、微かなアルコールの香りを纏って、健吾が帰ってきた。
「ただいま。栞、遅くなってごめん」
「おかえりなさい。……また飲みすぎたの?」
私がじろりと睨むと、健吾は慌てたように首を振った。
「いや、今日はビール三杯だけ! 本当だよ!」
その言葉を発した瞬間、彼の右の眉がピクリと上がった。
嘘をつくときの、彼だけの分かりやすいサイン。本当はもっと飲んでいるくせに。私が怒るのを恐れて、子供みたいな嘘をついている。でも、そんな誤魔化し方さえも愛おしくて、私は毒入りスープの想像などどこへやら、ふっと吹き出してしまった。
「……先にお風呂にする? それとも、スープ飲む?」
「スープ! 外、めちゃくちゃ寒かったから」
ダイニングテーブルで、フーフーと息を吹きかけながら赤いスープを美味しそうに飲む彼を見つめる。
彼がいつかロマンスグレーのおじ様になって、突然「冒険の人生を選びたい」なんて言い出したらどうしよう。その時は、絶対に最初に私に相談してほしい。私はあなたとなら、どこへだってついていくから。
「ねえ、健吾」
「ん?」
「もしもね。私があなたより先に死んじゃったら、どうする?」
健吾はスープをすくう手をピタリと止め、少し困ったように笑って私を見た。
そして、大真面目な顔を作ってこう言った。
「馬鹿だな。お前が死んだら、俺もすぐ後を追うに決まってるだろ」
ふと、彼の顔を見る。
彼の右の眉が、ピクリと上がっていた。
それは、私がいない世界を、彼が悲しみを乗り越えてちゃんと生きていくという、何よりの証明。
「……そっか。嬉しい」
それでいいのだ。
あなたはその優しい嘘を見届けさせてくれた。だから、いつか来るその日、私は安心して天国へと旅立つことができる。
「このスープ、美味しい?」
「うん、世界一美味い」
あなたを永遠に縛り付けたいという重たい愛を、この温かい部屋と、真っ白なYシャツにひっそりと込めて。
私はあなたの隣で、記念日には「綺麗だね」と言ってもらえるように、これからもこの狂おしいほどの愛を秘めたまま生きていくのだ。




