第九十六話 氷竜王アイス
陸虚がピタリと足を止め、険しい表情で前方を睨む。
「……感じる。この中に、強大な存在がいる」
その声には、確かな警戒と、微かな戸惑いが混じっていた。
「まさか……目覚めているの? あなた……?」
グレイシアが呟いたその時、宮殿の扉がゆっくりと開いた。
氷のように静謐な空気の中、奥から一人の中年の男が姿を現した。背は高く、白銀の髪が風に揺れ、その背中からは圧倒的な魔力が滲み出ている。
彼は静かに振り返った。
――その顔に、どこか懐かしさすら感じる鋭い目。
「……あなた?」
グレイシアの声が震える。
男は優しく微笑み、陸虚の方へと歩み寄る。
「……吾が友よ。よくぞ来てくれた。――我は、長い間、お前を待っていたぞ」
その声には、重厚な威厳と、どこか人間らしい安堵の色が混ざっていた。
この人は氷竜王アイスであり!
これは――
陸虚にとって、初めて真正面から相対する“7級”の存在だった。
圧倒的な威圧感。まるで大気そのものが凝固し、意識すら押し潰されそうな力の奔流。
足はすくみ、膝は自然と地に落ちる。顔を上げようにも、全身が重力に縛られたかのように動かない。
「ふふっ……白也、随分と退化したな。我の方が強くなっておるではないか」
アイスはにこやかに笑いながらも、凍てつくような威圧を放ち続けていた。
「あ、あなた! この方は白也様ではありません! 白也様の弟子、陸虚殿です!」
慌ててグレイシアが割って入る。
「……む?」
アイスは片眉を上げ、首をかしげながらじっと陸虚を見つめた。
「陸虚……? 」
ゆっくりと歩を進め、至近距離で陸虚を覗き込む。
「おい白也、どうしてそんなに若い? まさか人族にも長寿の秘訣というものがあるのか? 」
「……だから違うってば!」
グレイシアの悲鳴のような声が、氷の宮殿に響き渡った。
「……いえ、僕は陸虚です……」
陸虚はもう一度、はっきりと名乗った。
だが、アイスはまるで聞いていないかのように、満足げに頷きながら言った。
「うむ、わかっておるぞ、白也。いくら我と長らく会っておらんとはいえ、自分の名前を冗談で誤魔化すとは――お前も随分と丸くなったものだな」
「……はぁ」
陸虚はもう何も言う気が起きず、軽くため息をついた。
(……完全に勘違いしてるな。というか、こっちの話も聞いちゃいないし)
観念した彼は、膝をついたまま、そっと意識を内へと集中させ、目の前の“七級”――アイスの魔力の流れを探る。
(魔力の循環は安定してる。特に壊れた箇所も見当たらない……ってことは、やっぱり精神的な損傷か? 記憶の混濁……いや、もしかして師匠に対する執着が強すぎて、それがトリガーになってる?)
「アイス、まさか妾のことも忘れておらぬじゃろうな?」
ヴァルゼリナがふわりと前に進み出て、胸を張ってそう言い放った。
すると――
「はははっ! 忘れるわけなかろう、ヴァルゼリナ! ……そうだ、あの時貸したオレのもの、そろそろ返してもらおうかの?」
「……え?」
その一言に、陸虚の視線がぴたりとヴァルゼリナに向けられる。
(ん? 今、“貸した”って言ったか? おかしいな、さっきは“もらった”って……)
「し、知らぬ、記憶にないのう! そんな昔の話より、他に言うことがあろうじゃろう? 例えば……美味いものとか!」
ヴァルゼリナはバツの悪そうな笑みを浮かべて、勢いよく話題をそらす。
アイスは一瞬だけ鋭い光を目に宿し――次の瞬間、豪快に笑いながら両手を広げた。
「そうじゃな! 久方ぶりの“友”との再会じゃ! 宴を開かねばなるまい!」
「グレイシア、宴の支度をしておけ。余は着替えてすぐ戻る!」
アイスがそう言い放つと、グレイシアはすかさず不安げな顔を向けた。
「あなた……お身体は、本当に大丈夫なのですか?」
「うるさいのう、煩わしい。余が行けと言えば行け!」
ばっさりと切り捨てるような言葉に、グレイシアはしゅんと肩を落として頷いた。
その様子を見ていた陸虚は、内心でため息をつく。
(……まあ、元気そうに見えるが、あれで本当に大丈夫なのか?)
「では白也、すぐ戻るゆえ。今日は飲むぞ、潰れるまでな!」
そう言い残して、アイスは嬉々として奥の氷の封印へと戻っていった。
氷の扉が閉まる音を聞いた陸虚は、そっと小声でつぶやいた。
アイゼルが母を気遣って優しく声をかけているのを見て、陸虚の脳裏にひとつの恐ろしい可能性が浮かんだ。
――まさか……!




